久々に更新させていただきます。
今回も春闘の始まりと言うことで、国鉄民主化への道を底本にご覧頂こうと思います。
神武以来のストライキ
朝鮮動乱で、経済復興のきっかけを作った日本は、順調な経済発展を遂げ、家電製品の(電気洗濯機・電気冷蔵庫・テレビ)が「3種の神器」と言われ、昭和31年7月経済企画庁(当時の名称)から発表された第10回経済白書では、もはや戦後ではないとして高らかに謳っています。
戦後の一時期に比べれば、その欲望の熾烈さは明らかに減少した。もはや「戦後」ではない。我々はいまや異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる。そして近代化の進歩も速やかにしてかつ安定的な経済の成長によって初めて可能となるのである。
こうして、順調に発展する経済の中で総評は5波にわたる春闘スケジュールを策定したそうで、この闘争に国労も初めて参加することとなり、太田総評議長は、「春の闘争に,今年は国労も参加する。官民合同で、2・1ストを上回る大規模な統一闘争を展開する」と宣言したほか、「神武以来のストライキ」とぶち上げた。(いわゆる、太田ラッパ)を語ったと言われています。
よく戦後の歴史で言われる神武景気ですが、この言葉の発端は、太田薫であったと、自らの著書、「ひびけラッパ」で以下のように書いています。
引用してみたいと思います。
一番始めのラッパは、昭和31年、公労協が大挙して参加した春闘のときに、神武以来のストライキをやるといったことである。これが兜町だかジャーナリズムだかで取り上げられ、おりからの神武景気の枕言葉になったということである。
本人が言っているので間違い無いでしょうが、意外な人物が神武景気の名付け親になったと言えそうです。
政府も積極的に介入するスト対策
総評の春闘の闘いに際して、それまでは、国労などに尻を叩く程度だった政府が積極的に労働問題で介入するようになってきたとされていますが、それは保革2大政党の誕誕生や、総評が太田・岩井体制が、従前の高野体制と比べて、自民党にとっては組みやすい相手であったという点があったそうです。以下国鉄民主化の時代から引用してみたいと思います。
政府の方も強硬な態度を見せた。今まで労働問題では、陰で国鉄当局などの尻を叩いている程度だったが、この年政府は、積極的に表面に出てきた。理由は、
とあるように、自民党してみれば、新たな総評の体制に対しても万全の準備が出来たという意思表示とも取れたようでした。
その辺は、国有鉄道 昭和31年5月号春季闘争に当時の様子が出ていましたが、前述の通り、保守合同が行われたことで、日経連は、賃金の引き上げを抑えるため。公労協のベースアップ阻止を目指して、動き始めたところ、政府(自民党)も保守合同が行われたことから、公労協のベースアップ阻止に積極的に動くこととなったそうです。
国鉄の賃金アップはどうなった?
国鉄のベースアップは、国労が平均一二%(2000円)の賃金アップを要求して交渉が決裂昭和30年11月28日に調停申請、機関車労組も職種別賃金を獲得するとして2100円程度を要求して、12月7日に調停申請を行うことに。
その後、二ヶ月ほどはそのままとなり、昭和31年2月14日から23日間までの10日間、職場集会などで数本の列車が遅延した程度で有り、第二波は、2月28日から3月2日までの4日間、勤務時間に食い込む職場集会で、貨物列車が数本運休、旅客・貨物列車も約10本ほどが遅れたと記録されていますが。
この第二波が行われた時期になって、調停案が示されることとなりましたが、この調停案が物議を醸すこととなりました。
以下は、国鉄の部内紙国有鉄道の昭和31年5月号 春季闘争と言う記事の一部をキャプチャーしたものですが、総評に対して民間経営者が、極端な賃上げを阻止するため対抗しようとするのに対して、政府も公労協の値上げを阻止することで方針が一致、そこで二人三脚でその歩を進めようとする中で、国鉄が調停案を呑んで、妥結しようとしたことに対して、当局と組合が馴合をしているのではないか、悪い意味で国鉄一家なのではないかと政府からも批判されたと書かれています。
このときは、年末一時金として5000円の支給が、当時は世界的に経済はデフレ傾向と言われる時代で有ったことから経営者側は内部留保に努め、賃金の上昇には消極的であっただけに、国鉄だけが先駆けて妥結した事への違和感があったかと思います。
国鉄にしてみれば、年度末手当の前倒しで有ると判断しており、国労も調停案はベースアップを認めているので、5000円の支給は暫定措置だとして、妥結することとなったことが、馴合と思われたのだと弁明しています。
これにより、条件を付けて3月5日には国労と妥結、企労も「給与体系の専門委員会を設置する」と言う条件を付けて妥結しています。
このように、まだまだ当局なり現場での職場を管理者がコントロール出来ていたことは、良くも悪くも国鉄一家と呼ばれるような、職場体制があったことも注目しておくべきだと考えられます。
総評がぶち上げた「神武以来のストライキ」は、国鉄に関してはほぼ不発に終わり、この闘争による解雇者はおらず、最高で9ヶ月の減給処分だけでした。
その後も、国労は職場における職制と職員の分断をことあるごとに図っており、それが昭和40年頃の現場協議制へと繋がっていくことになります。
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