日本国有鉄道労働運動史【鉄労視点】

日本国有鉄道労働運動史、鉄労視点で綴るblogです

春闘の始まりと労働組合

春闘のはじまり

春闘、最近は春闘と言っても、本当にストライキをしたりするわけでもないので形骸化したイメージがありますが、春闘という言葉が最初に使われたのはいつかご存じでしょうか?

春闘は、昭和29年、総評加盟の5つの単産*1(炭労、私鉄総連、合化労連、電産、紙パ労連)で「共闘会議」)を開催したのが最初で、その後、全国金属、化学同盟、電機労連が加わった、「8単産共闘会議」が行った統一行動が最初であったとされています。

何故、春闘を行ったのかについては、「酒井一三著 職場に労働運動を」に詳しく書かれていますので、引用したいと思います。

そこで春闘が始まるようになります。1955年(昭和30年)には8単産共闘がスタートします。翌年には正式な春闘共闘会議が発足するわけですが、なぜ春闘が始まったかというと資本主義の復活にともなって個別の闘いが全部各個撃破される。長期争議に持ち込まれて徹底的な弾圧を受ける。闘う組合が次つぎにつぶされていくと言う状況の中から"暗い夜道を一人で歩くんじゃなくって。お手々つないで行こうじゃないか"と言うのが実は春闘のスタートなんです。

引用終わり

と書かれているように、新たな動きが出てくるのですが、これは総評の指導者、高野実の「ぐるみ闘争」*2に対抗するものであったと言われています。

春闘の当初の目的は、資本家ではなく市場を失うことを恐れたから

春闘を導入したのは、総評内の太田薫が、炭労、私鉄総連、合化労連、電産、紙パ労連の五単産が「春期賃上げ共闘会議総決起大会」を開き、産業別統一闘争の強化を主張したことがはじまりと言われています。その根底には、高野実からの決別が有ったと言われています。

高野が、マルクス運動に忠実に、資本家階級対労働者階級の闘いを進め、かつ家族ぐるみ、地域ぐるみで闘おうとしていたことに対する反発で有り、日本の組合は横断的な職能別組合ではなく、企業内組合であるので、ストライキにより自社の製品が売れ無くなることで、市場を失うことの方が大きいので、産業別に、あるいは全労働者が一斉にストライキをすれば、全産業がストライキをしているので、市場を失うこともないのではないかという観点からスタートしたのが春闘の始まりだったのです。

春闘生みの親と言われる、太田薫

春闘生みの親と言われる、太田薫 wikipediaから引用

春闘には消極的だった国労

国労(当時は民同右派は分裂していない)も、八単産共闘に誘われたが、この時は国労春闘には消極的であり、その主な理由として、下記の点を上げていました。

  • 公共企業体の賃金は、国会での予算審議に関係があり、3月では遅すぎること
  • 特定の単産賃上げ闘争に絞るような印象を与える
  • 総評の中に小総評を作るようなものであり感心しない

といった意見がありましたが、国労出身の岩井章が、総評事務局長に選出され、太田薫がが副議長に戻ると、今度は国労は積極的に春闘に参加するようになり、昭和31年の春闘には積極的に参加、さらに、昭和32年には、国労は中心的な役割を果たすことになりました。

当時は、春闘とは言わず、春季闘争、春期攻勢、春期賃上げ闘争等と言われていたそうです。

仲裁裁定が改悪される事態に

国労が積極的に春闘で運動したことで、仲裁裁定について大きな動きがありました。

それは組合側からすれば、改悪と言えるものでした。

すなわち、「仲裁裁定の完全実施」という問題が形式的なものとなってしまったからです。結果的に、仲裁裁定に移行することで最終的に決定する、しかし、その完全実施は形だけのものとなってしまうことになります。

その辺を、「酒井一三著 職場に労働運動を」から再び引用したいと思います。

この春闘で、岸・鈴木会談があります。国労の闘いをバックに、当時の岸総理大臣と社会党の鈴木委員長との間の会談がもたれたわけなんであります。

この会談での中心問題は仲裁裁定は以後完全に実施するという約束であります。
しかしここで完全実施という約束は実は公労法を改正して以後形だけ完全実施する事になってしまうわけであります。それまでは調停委員会と仲裁委員会とは違った委員会だったんですが、以後は公共企業体労働委員会という一つの委員会にしておいて、調停も全部同じ委員に扱わせると言うことになります。仲裁裁定そのものも政府の意向を受け、結局実施できる程度のものしか出てこない、こういうふうな感じの労働委員会にされてしまいました。公益委員の任命は事実上は政府の任命(形式は国会の承認ですが)でありますから、労働者側の手の届かないところで公益委員会が決められる。そういう法律改正が実はバックにありました。

 

社会党鈴木委員長と岸信介首相

社会党鈴木委員長と岸信介首相

少し長いですが、全文引用させていただきました。
これにより、実質的に仲裁裁定が有名無実な形になってしまったとされていますが、国鉄の仲裁裁定が曲がりなりにも完全実施されることから、その後の春闘をみていますと、仲裁裁定ありきで行動しているパターンが多くみられるようになり、特に昭和40年代から50年代にかけては、ストライキは長期化の傾向が見られるのですがこれは後述したいと思います。

 

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*1:単産=産業別単一組合の略、

*2:闘争労働争議において、組合員だけでなく妻子を巻き込んだ家族ぐるみの闘争、地域の市民をも巻き込んだ地域ぐるみ(または街ぐるみ)の闘争の総称