日本国有鉄道労働運動史【鉄労視点】

日本国有鉄道労働運動史、鉄労視点で綴るblogです

もう一つの国労からの分裂、職能労連

国労から分裂した、新生民同派

国労の新潟闘争は、新潟地方労組を結成することとなりましたが、それ以外にも国労を脱退した、「労働問題研究会」というグループがありました。

彼らは、国労内の新生民同派(いわゆる民同派右派のグループ)と呼ばれており、職能別の組合とすることを目的としていました。

新潟闘争前の、昭和32年6月松山市で開催された国労大会で下記のように解雇された職員が専従役員に選任されたことに対して反発を感じたわけで、っくろうないに設けられていた職能別協議会を発展させて、職能別組織として再編しようと考えたそうです。

国労第16回定期大会開催、解雇三役を再選 6/22~6/27

松山において国鉄労組の全国大会が開催された、結局、国民の信頼をかちえなけれぱならないこと、より姿勢を低くするとも、組合の統一ある行動は守られねばならぬことに結諭を見出した
しかし、役員の改選に当っては、解雇された3役が再選されるという結果になり、今後団体交渉などについて再び問題を残すこととなり、その成行は注目される

jnrera.starfree.jp 職能労連とは?

鉄労【その前身は新国労】は、新潟闘争から生まれた新潟地方労組さらにはその少し前に結成準備を行っていた職能労連を母体として国労の民同右派と後に呼ばれるグループで、民社党を支持していました。

国鉄の職能労連、正式名称は国鉄職能別労働組合会議と呼ばれる組織でしたが、新潟地労とは別の経緯で国労から分裂したものの、労使協調と反共、を活動方針にしている組合である点は共通しており、全日本海員組合(海員)」・「全国繊維産業労働組合同盟(全繊同盟)」・「全国映画演劇労働組合(全映演)」・「全国石炭鉱業労働組合(全炭鉱)」と呼ばれる、民間の右派組合によって設立された全日本労働組合会議から、設立に際して支援を受けたと言われています。

職能労連設立までの時系列を見てこうと思います。

当時、職能労連結成に対して二つのグループがありました。

その一つが、職能別組織を考えていた、国労内にあった、職能別協議会(職能別派)であり、この組織を母体としての組織作りを考えていました。

これとは別に、旭川市では、「労働問題研究会」と呼ばれるグループで、組織の指導には、戦前の転向で戦後は反共理論を展開する、鍋山貞親と三田村四郎が指導していると批判していたそうです。

1957年7月4日 「労働問題研究会(労研派)」が新組合結成準備会を設置

1957年7月21日 労研派と、職能別派による合同会議を開き、新組合の組織について協議し、職能別で行く方針が決定されました。

1957年11月20日~21日 東京茗荷谷ホールにて結成大会が開催され、新組合への参加者は、11,800人と発表

1957年11月26日 国鉄本社と最初の団体交渉を実施、年末手当1.8ヶ月分で妥結

ちなみに、

結成大会前の、職能別組合の結成状況は以下の通りでした。

昭和32年10月職能労連結成状況

昭和32年10月職能労連結成状況

職能労連が誕生した背景には、総評における社会党の考え方も

総評は社会党を支持してきましたが、サンフランシスコ講和条約日米安全保障条約の調印において、全面講和か単独講和かで世論が割れたとき、共産主義ソ連、中国【中華人民共和国】との講和を含める全面講和を支持する左派と、そうした共産主義を排除したい右派に分裂、社会党を支持する総評にあっても、単独講和を支持する社会党右派を支持する右派労組(全日本海員組合(海員)・全国繊維産業労働組合同盟(全繊同盟)・全国映画演劇労働組合(全映演))が中心となって、総評を離脱していました。
こうした流れの中、国労では懲戒免職された職員が組合専従役員として就任することとなりこれに反発する、新生民同派【民同右派と呼ばれるグループ】は反発しますが、解雇された職員が組合専従役員となるため、当局は解雇できずその運動はさらに過激となることになります。

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そうした流れもあり、さらに国鉄部内では非現職員(管理局などの勤務者)は、現業と比べて勤務条件が異なることから事業所ごとの待遇改善を図るべきだという気運もあり、国労内に設置されていた

職能別会議を発展的解消する形で、職能労連結成、さらに労研派も合流

職能労連結成


を発展解消することを目的として設立されることとなったわけです。

 

新潟地労も職能労連も、総評から脱退した全日本労働組合会議の構成員である、全日本海員組合の支援の元、設立に至っており、設立当初から全日本海員組合とは近しい関係にあったと言われています。

 

参考資料

最後に、参考資料として

二人の指導者とはどんな人物だったのか。

鍋山貞親・・・戦前に獄中で転向を声明、「コミンテルンの指導を受けての共産主義運動ではなく、天皇を尊重した社会主義運動を行う」と言うもので、戦後も民社党・同盟の理論的・戦術的ブレーンとして活躍したとされています。

戦前、獄中で転向した鍋山貞親、戦後も民社党・同盟の理論的。戦術的ブレーンとして活躍

鍋山貞親 画像wikipedia

三田村四郎・・・元警察官であったが、社会主義運動に関心を示し、服務規律違反に問われて免職、その後は戦前の労働運動を指導するも、戦時中は拘禁されることに、獄中で鍋山貞親が転向したことを知り、転向を表明するが釈放されず、戦後のGHQの解放指令で出獄、戦後は一貫して労使協調・反共を基調とする労働運動を指導とされています。

戦後一貫して、労使協調・反共を基調とす流浪同運動を指導した、三田村四郎

三田村四郎 画像wikipedia

続く

 

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