日本国有鉄道労働運動史【鉄労視点】

日本国有鉄道労働運動史、鉄労視点で綴るblogです

国労新潟地本の分裂、国鉄新潟地方労働組合結成 Ⅰ

久々に更新させていただきます。

新潟闘争の引き金となった、革同派とはどんな派閥なのか?の

国労の中で職能別組合が誕生(中心は菅原栄悦)しましたが、新潟闘争を経た国労新潟は違った動きをすることとなりました。
その前に、新潟地本の引き金となった、革同派(革新同志会)とはどのような派閥だったかを見ていきたいと思います。
革同派(革新同志会)は、その支持政党は「労農党」(無産政党の一つで、労働者農民党がその中心であった、1948年に社会党左派から分裂したものであった、共産党ではないが極めて共産党に近い政党)が中心となっていたが、労農党自体が社会の落ち着きとともに、政党としての勢いを失ったことから、再び社会党に吸収される形で消えていくこととなりました。そんな中で、国労内の「革同派は、派閥解消を行わないこととし国労内では、むしろ共産党色を強める結果となりました、その結果、本部の指示よりも過激な労働運動を行う地本として、本部内でもやや持て余す状況となっていきました。
最終的には国労本部預かりという形で収束した新潟闘争ですが、この流れの中で新潟でも新たな組合を結成する動きが起こるわけですが、これには先行していた職能別組合とは別に地域別組合とも言うべき形の結集が行われることとなりました。

職能別組合ではなく地域組合を目指す新潟国労

新潟闘争が続けられる中で、闘争に就いていけず国労を脱退する人たちが昭和30(1955)年2月1日には、”組合を守る会”が結成され約600人が参加したとされていますが、当然のことながらこいうした結集を良としない国労新潟地本は「守る会潰し」に動くこととなり、結果的にこの会派は1年後には解散を余儀なくされることとなり、改めて新たな組合を作ろうという動きが出てきました。

この辺を「国鉄民主化の道」から引用してみたいと思います。

驚いたのは新潟地本で、”守る会潰し”に積極的に動き、会員たちを村八分的にしたり、嫌がらせ〈悪宣伝、家族の交際禁止、子供達に会員の子供を遊ばせないように指導)をしたりした。結局、この”組合を守る会”は、1年半後の31年9月5日に解散せざるを得なかった。

と書かれており、こうした事態を受けて最終的に新しい組合を作って行こうという話となりました。

新組合を作るという方向性だけは決まったもののどのような組織にするかは明確では無く、最終的には職能別組合では無く地域別組合というか、新・新潟地本を作るという意気込みであったようで。

実際に、新組合は多数となったら国労に復帰したいという考え方を示していました。

この辺は、国労本部の流れに反対として分裂した、職能別組合とは異にするものであり、あくまでも革同派に対する反発と言える点が異なっています。

国鉄新潟地方労働組合

新たに結成しようとする組合は、将来的に国労への復帰を希望
すなわち、この時点では新潟ではあくまでも、国労における革同派からの支配を離れたいという切実な願いがあったと言えます。

新潟はやむ無しという雰囲気に

新組合結成に際しては、事前に総評事務局長や国労出身の参議院議員大和与一社会党左派〉・中村正雄社会党右派・後に民社党結党に参加〉)などに新組合結成について相談したと記述されています。
国鉄民主化への道を参照しますと、「大和などは「よしやれ」とは言えなかっただろうが、「新潟だけはやむを得ないだろう」と言うようなことは言ったらしい」と言う記述が見られます。
少なくともこうした動きは新潟地本も把握していたようですが、積極的な妨害工作などは行われなかったようです。

新潟地方労働組合誕生

こうして、新潟闘争を経て、新潟では革同派に付いていけないとしたグループが脱退して、ああらしい組合に結集することとなりました。
実際にはすっと誕生したわけでは無く、財政基盤は厳しく、組合幹部が全員貯金通帳を提出した他、海員組合もかなり積極的に支援してくれたとされています。
こうした支援を得ながら、昭和32(1957)年9月1日午後0時45分から国鉄新潟地方労働組合は発足することとなりました。

新組合はマルクスレーニン主義との決別

再び国鉄民主化への道から引用させていただきますと。
以下のように記述されています。

等を掲げていたとしており、明らかに革同派に対する反対意見として明瞭にしたと言えます。
そうした意味では、過半数を自分たちの組合が獲得したならば国労に戻っても良い。(すなわち、国労新潟地本を革同派から新組合へと移行させることを認めろと言うことになり、国労としてはそれは飲めないとして結果的に、新潟地方労組は新国労結成の母体の一つとなるわけです。

当然のことながら、国労新潟地本〈革同派)の中では、こうした第2組合結成の動きは、当局による策動であるとして糾弾しています。

新潟地本〈革同派)は、第2組合結成は当局による陰謀と結論

ここで、国労新潟地本の不屈の30年史から新潟闘争について引用してみたいと思います。

国鉄当局による方針は、”分割して支配する”資本の法則に基づき、右傾化。御用化の道を追求してきたと指摘しています。

実際に、国鉄当局は終戦直後のマッカーサーによる民主化要求の中で、労働組合を既成の職員組合を再編する形で実現しようとしましたが終戦の混乱期であり生活防衛の要素も大きかったことからこの計画は早くに頓挫していますので、あながち的外れとは言えない部分もありますが、機関車労組〈後の動労)の分裂や国労内での派閥による職能労連の分裂や、東西分裂など多少こじつけでは無いかと思えるところもありますが、新潟闘争は、こうした当局の分断攻撃の中で立ち上がったものだと自らの運動を評価しています。

更に、その後も当時の新潟鉄道管理局長が新潟地方労組〈第2組合)を育てるための不当労働行為を働いているとして、国会質問などにも取り上げられることとなります。

なお、この辺の話はあまた別の機会にさせていただきますが。

新潟地本〈革同派〉にしてみれば、当局の分断攻撃に対しての行動であり、自分たちの闘争は間違っていなかったと強く主張していた点は注目していただきたいと思います。

 
こちらも併せてご参照ください。
 
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