国労新潟地本の分裂、国鉄新潟地方労働組合結成 Ⅲ
長らく開いてしまいましたが、改めてアップさせていただきます。
前回は、新潟国労が分裂する直前までの話を中心にさせていただいたのですが、当時の新潟鉄道管理局長が職員に対して現在の基準で言えばパワハラまがいの方法で班長などに対して部下を新組合に加入させるように発現したのではないかという事で、国会でも問題視されました。
さて、今回も国鉄民主化への道を底本としてご覧いただこうと思います。
国労新潟地方労働組合発足
昭和32年9月1日、新潟市に有会員会館で新潟地方労働組合の結成大会が開催されることとなり、組合員数は1036人と発表されたそうです。
当時の新潟鉄道管理局の職員は14,861人内非組合員は約2,000人ですので、構成比的には下記のグラフのようになるのでしょうか。

全体から言えば1割程度が新しい新潟地方労組に結集したことになります。
新潟地地方鉄道労組の基本的な考え方は下記の通りであったそうです。
新しい組合の基本方針は、新潟地本を反面教師にしたような内容
- マルクス・レーニン主義の断固排撃
- 社会民主化を守る
- 政治的偏向を避け地道に経済要求を続ける
と言う三つが基本的考えに合ったとされています。
特に、マルクス・レーニン主義の断固排撃とか、政治的変更を避けると言った部分は、新潟闘争が革同の勢力によるものと言う認識から出たものと言えましょう。
そして、新しい組合は、
「組合員のための組合」「誰でもついてこれる組合」の体制を確立することが強調された反面、「国労に復帰することを究極の目的とする」という点は綱領に含まれることはなく、確認事項に留まったとされています。
元々、新組合が過半数を制したならば現在の地本(革同派が中心)に代わり新しい自分たちの組合を新新潟地本とすることを申し入れているのですが、これは流石に本部も配送ですかと行かず結果的に新潟地方労組は国労に復帰することはなく、新たな「新国労」として結集するわけですが、
新潟地方労組は、過激な新潟闘争に対してついていけないと感じた人が多かったのではないでしょうか。
実際に、新組合設立後には新しい新潟地方労組に加入する人が増えたという記述もあります。もっとも、管理局長が班長達の研修の場で不当労働行為とも取れそうな発言があったとした話は前回にお話ししたとおりです。
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国労新潟地本の分裂、国鉄新潟地方労働組合結成 Ⅱ 共産・革同に反対するグループの新潟地方労組
新潟で結集する新組合は職能別組合にあらず
社会党党員という肩書きで、国労内で分裂活動
赤津氏(後に新潟駅長)は、総評事務局長の岩井章氏や国労出身の大和与一参議院議員に面会して、新組合結成のための相談をしたと記されています。
そうした意味では、未だ未だ新潟地本にしてみれば、赤津氏の行動はいわゆるお手並み拝見と言った感じだったのでしょうか。
組合分裂の首謀者はあくまでも河村新潟鉄道監理局長という見解

新潟闘争収束後には、あからさまに国労地本内の分裂の動きが始まったと記されているが、その後当局によるあからさまな支配介入が行われたと記述されています。
あくまでも、国労新潟地本としての立ち位置での発言と言うことに注目していただきたいわけですが、当時の国労地本の考え方に合った当局に対する考え方は。
国鉄当局は、”分割して支配する”資本の法則であると規定しています。
東大法科出身など、法の裏表に精通し、その善悪を就知(ママ、熟知の誤植と思われる)しているエリート官僚が支配する国鉄におけるものであるだけ「証拠さえ残さなければ、不当労働行為はなにをやってもよい」という法の盲点をついた新鉄当局のやり方は、明らかに”階級的犯罪”とも言うべきものであった。
1958(昭和)33年4月に行われた、管内の施設、電気関係の分区長講習会の際、第二日目の昼食会の席上行った次の発言を見ても明らかであろう
- 局長としては、第二組合を育成し、新潟地本をどうしても潰したい。その為には、現場長や助役に頼っても、もう上手くいかない。今度は、諸君らが第二組合を増やすように頑張って貰いたい。
- 第二を増やすには諸君が日常組合員と作業の上で緊密にむずびついているので一番良い。
- このことに異議のあるものはこの場所でいってもらいたい。
- このようなことのできないものは管理者としての資格がないから技術掛、営林掛、工手長に格下げをする。
- 自分は新潟地方本部をつぶすまで新潟にいる心算だから頑張ってもらいたい。
こうした河村局長の方針にもとづいて、前回内の殆どの現場当局は、公然と、又隠然と、分裂主義者と、新潟地本の組織壊滅を目指して策動した。しかし、なかには極めて僅かではあったが、直江津駅長三浦庄太郎のように、こうした理不尽な命令に毅然として抵抗し、最後まで公正な立場を堅持したものが存在した。
blog.goo.ne.jpこれ以後にも、何度かにわたって続くのですが、非常に冗長となるため改めて整理した上でアップさせたいと考えております。
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国労新潟地本の分裂、国鉄新潟地方労働組合結成 Ⅰ
新潟闘争の引き金となった、革同派とはどんな派閥なのか?の
職能別組合ではなく地域組合を目指す新潟国労
新潟闘争が続けられる中で、闘争に就いていけず国労を脱退する人たちが昭和30(1955)年2月1日には、”組合を守る会”が結成され約600人が参加したとされていますが、当然のことながらこいうした結集を良としない国労新潟地本は「守る会潰し」に動くこととなり、結果的にこの会派は1年後には解散を余儀なくされることとなり、改めて新たな組合を作ろうという動きが出てきました。
驚いたのは新潟地本で、”守る会潰し”に積極的に動き、会員たちを村八分的にしたり、嫌がらせ〈悪宣伝、家族の交際禁止、子供達に会員の子供を遊ばせないように指導)をしたりした。結局、この”組合を守る会”は、1年半後の31年9月5日に解散せざるを得なかった。
と書かれており、こうした事態を受けて最終的に新しい組合を作って行こうという話となりました。
新組合を作るという方向性だけは決まったもののどのような組織にするかは明確では無く、最終的には職能別組合では無く地域別組合というか、新・新潟地本を作るという意気込みであったようで。
実際に、新組合は多数となったら国労に復帰したいという考え方を示していました。
この辺は、国労本部の流れに反対として分裂した、職能別組合とは異にするものであり、あくまでも革同派に対する反発と言える点が異なっています。

新潟はやむ無しという雰囲気に
新潟地方労働組合誕生
新組合はマルクスレーニン主義との決別
再び国鉄民主化への道から引用させていただきますと。
以下のように記述されています。
- マルクスレーニン主義の断固排撃
- 社会民主化を守る
- 政治的偏向を避け地道に経済要求を続ける
等を掲げていたとしており、明らかに革同派に対する反対意見として明瞭にしたと言えます。
そうした意味では、過半数を自分たちの組合が獲得したならば国労に戻っても良い。(すなわち、国労新潟地本を革同派から新組合へと移行させることを認めろと言うことになり、国労としてはそれは飲めないとして結果的に、新潟地方労組は新国労結成の母体の一つとなるわけです。
当然のことながら、国労新潟地本〈革同派)の中では、こうした第2組合結成の動きは、当局による策動であるとして糾弾しています。
新潟地本〈革同派)は、第2組合結成は当局による陰謀と結論
国鉄当局による方針は、”分割して支配する”資本の法則に基づき、右傾化。御用化の道を追求してきたと指摘しています。
実際に、国鉄当局は終戦直後のマッカーサーによる民主化要求の中で、労働組合を既成の職員組合を再編する形で実現しようとしましたが終戦の混乱期であり生活防衛の要素も大きかったことからこの計画は早くに頓挫していますので、あながち的外れとは言えない部分もありますが、機関車労組〈後の動労)の分裂や国労内での派閥による職能労連の分裂や、東西分裂など多少こじつけでは無いかと思えるところもありますが、新潟闘争は、こうした当局の分断攻撃の中で立ち上がったものだと自らの運動を評価しています。
更に、その後も当時の新潟鉄道管理局長が新潟地方労組〈第2組合)を育てるための不当労働行為を働いているとして、国会質問などにも取り上げられることとなります。
なお、この辺の話はあまた別の機会にさせていただきますが。
新潟地本〈革同派〉にしてみれば、当局の分断攻撃に対しての行動であり、自分たちの闘争は間違っていなかったと強く主張していた点は注目していただきたいと思います。
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国労内で民同右派による分裂運動(新潟闘争前) Ⅴ
官僚主義に陥る国労という組織
国労は、戦後すぐの昭和22(1947)年に結集された国鉄労働組合総連合会であり、国鉄職員の96%が結集した組合と言われていますが、国鉄の職場は運転・駅業務から果ては、船舶・病院・非現業に至るまで多岐にわたり、昭和26(1951)年には、機関車労組として職能別組合が分裂、その後も同じような職能別への分離が水面下で行われていたようです。
国鉄部内紙、日本国有鉄道の記事、「国労松山大会を聴いて」という記事の中で、傍聴した元朝日新聞社論説委員の見解として、国労自身の問題として、いたずらに階級闘争ばかりに拘っている点を指摘しています。
問題は次のようなことである。自分たちの持っている考えこそ、本物であり、またそれが階級的であるとうぬぼれて、他の一切のものを受けつけまいとする態度そのものが、自己批判されねばならないということである。他から批判されると、ますます狭い殻の中に閉じこもってしまう一面的な見方なり、態度なりが自己批判されねばな
らないのだ。そういう態度が残っているかぎり、労働組合はどんなに第三者の人気をひくようなことをいっても、やはり国民のなかの異質物として扱われるだろう

と国労を批判していますし、実際に国労の場合最後までこの部分を強調しすぎて自壊していった部分は有ったかと言えます。
そして、この時期既に国労内で職能別組合による新組合結成の動きがあったのでした。
すでに、昭和26(1951)年には機関車労組という職能的組合が分裂しており、それ以外の組織にあっても同様な職能別組織の組合を結集しようと考えは有ったわけです。
鉄労の「国鉄民主化への道」を参照しますと、国労の松山大会前に新生民同派の菅原栄悦が新組合の結成趣意書を関係者に配ったと記されています。*1
実際に当時国労内には職種毎の特殊な事情を交渉するための職能別協議会が設置されており、当時で一五職協があったとされています。この職能別組織を個々の組合として再編して新組織を造ることを新生民同派は狙っていた事になります。
その背景には、前述のように「国労自身の階級闘争」に対する反発が有ったと言えるわけです。
職能別組合の結成と国労
このように、水面下で職の別組合を結成しようとする動きが有る中、同じく国労を脱退して新組合を結成しようとする動きとして、「労働問題研究会(労研派)」というグループが有ったと書かれていますが、このグループと、菅原栄悦が合同して国鉄職能別労働組合連合準備会を結成することとなりました。この時にやりとりを「国鉄民主化への道」から引用させていただきます。
菅原らの職能別派と名畑らの労研派が、昭和32年7月21日に、東京・新宿の山楽ホテルで合同会議を開き、新組合の組織について協議した。その結果、職能別でいくことになり、直ちに「国鉄職能別労働組合連合準備会」を設置、準備委員長に菅原栄悦(仙台)、副委員長に森良教(東京)、書記長に名畑隆(旭川)を選出した。
と書かれています。
実際に、こうして一つの風穴を開けることとなるわけですが、国鉄という組織が小さな国家的なものと考えるときに、民主化の過程で様々な意見が出てきて分裂して行くのはある程度仕方の無いことなのかもしれませんが国労が最後まで迷走してしまう背景には、国労自身が誕生当時から持っていた独りよがり的な組織にも原因があったのでは無いかと考えるのが素直なような気もします。
続く
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*1:P273 全労が全面的に支援
国労内で民同右派による分裂運動(新潟闘争前) Ⅳ
半年も放置状態になってしまいましたが、改めて筆を進めたいと思います。
主には、国鉄民主化への道を参照しながら弊サイト国鉄があった時代、及び国鉄部内紙国有鉄道などを参照しながら進めていきたいと思います。
国鉄当局は、職員ではないものを組合役員とすることを拒否
事の発端は、国労が懲戒処分で解雇された組合役員を再び専従役員として選出したことであり、これに対して当局が強く反発したのが始まりでした。
その辺を弊サイト「国鉄があった時代」から引用したいと思います。
事の発端は、国労第13回大会での解雇された役員を再び専従役員として選出したからであり、当局から何度も警告を受けていましたが、国労自身はさほど重要に考えていなかったように見えます。
第13回全国大会及び第36回中央委員会が開催され、29年度の運動方針として、業務方針や党幹部の決定を行った
運動方針は、不当処分の撤回、生活向上の闘争等五項目
国労は当局の警告にも関わらず、解雇された役員を再任したため、組合を法外組合と認め、団体交渉等に応じない事態となった→国鉄当局、被解雇者の組合役員再選を理由に団交拒否 5/27
実際、国労の解雇三役の役員再選により、当局は団交を拒否すると事になります。
国鉄当局、被解雇者の組合役員再選を理由に団交拒否 5/27
解雇通告を受けた三役再選は適法と認め難いからその違法な状態を解消しない限り従来通りの労働関係を継続することは出来ないと正式通告
夏期手当問題その他について、国鉄労組から団体交渉の申入れをうけた国鉄当局は、組合幹部との会見に、被解題者を役員とする国鉄労組は法外組合である旨の正式通告を行い、かかる違法状態がつづく限り、団体交渉はもとより、組合に対する諸々の便宜の供与をとりやめることを伝えた
これにより、組合側は24協定(組合費などを給料から天引きする制度)が利用できなくなり、この闘争は組合側が結果的の敗北に終わる事になります。
国労は、当局のこうした強硬な策に対して、団体交渉を再開するように、順法闘争で打開を図ろうとしますが、中々上手くいかず、結果的には国労が当局に詫びを入れる形での解決が図られることとなります。
少なくとも、国労が行った解雇者による役員改選はこの時は国労にとっては厳しいしっぺ返しを受けることとなりました。
国労内部では職業別(職能労連)設立の動きがあった?
昭和29年に国労が解雇された元組合員を専従役員として擁立したことは、前回のお話の中で出ていたと思うのですが、国労は昔から一つの組織とは言えいくつも派閥がありました。国鉄の職場自体が非常に多岐にわたっており、本社・管理局などの非現業部門はもとより、駅・運転・電力・通信・保線等々多岐にわたり、運転一つ取ってみても、動力車としての機関車乗務員もいれば、電車や気動車の運転士、国鉄バス等の運転士があり、駅の場合は更に多岐で、窓口業務などの出改札担当から、信号扱・操車場の連結手等々これまた多岐にわたるわけで、国労内でも機関車労組にならび職能組合への脱皮的な動きもあったようです。
その中で横断的にまとめていくにはある意味政治力と言いますか、支持政党毎にグループを作っていくのはある意味自然なことだったのかもしれません。
実際に、国労の中では民同派・革同派・共産党派等々と言った複数の派閥が存在し、民同派社会党を支持する訳ですが、社会党自体が講和条約の全面講和か一部講和かで社会党右派と左派に分裂その後再修復するもののやがて、社会党右派から派生する形で「民主社会党」が誕生していくわけで巣がこれはもう少し先の話、
しかし、純粋に労働運動を突き詰めていくならば職能別の方が問題は集約しやすくなり、かつ当局側もその点では問題の解決を図りやすいと于メリットもある反面、組織自体が小さくなる(個人が二つ以上の組合に加盟できないため)全体の組合としてのパイは小さくなる(組合費の減少)というデメリットもあり、国労は職能別組合の設立には積極的には動かないわけで、その辺の国労の制度的問題がここに来て出てきたように思えます。
さて、そこで古い資料を参照していますと、中々興味深い資料を見つけることが出来ました。
国有鉄道昭和30年9月号の記事で、国鉄労組長野大会傍聴ノートと呼ばれる記事で。
この記事では、当時の大会の様子を探ることが出来ます。
以下一文引用してみたいと思います。
むしろ会場の空気をひきしめていたのは、職群の是正をめぐる各職代表の動向であろう。線路工手のランク引上げ、信号機掛、連結手のランク引上げ等の懸垂幕が張りめぐらされ数十枚のピラが全員K配布された。
動員された傍聴者の気勢は派閥的なものから形を変えて職種的な結束となり、休憩時間中には、必ずどζかで職協の会合がもたれていたが、わずか280円の分配をめぐって、職能セクトの底流があったことは見逃がすことはできない。

当時の大会の様子を視察した、国鉄職員局労働課員のレポートなのですが、この時点では昨年度の解雇三役を降ろすのか否かは。いわば派閥同士のいわばにらみ合いの様相を呈することとなり、その反面上記のように、大会としては職群の是正を巡っての各職代表の動向とあるように、職能別の要求が強く出てきたことに着目すべきで、これを職能別の組合分裂の萌芽と見ると考えるのはいささか考えすぎでしょうか。
続く
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国労内で民同右派による分裂運動(新潟闘争前) Ⅲ
前回は、動労・国労が解雇者を専従役員に据えたことで、国鉄当局が反発したところまで書かせて貰いました。
今回は、解雇者の専従役員のことについて少しだけ掘り下げてお話をさせていただこうと思います。
専従役員とは
専従役員とは一般的には下記のように定義されています。
労働組合の活動に専念する者。使用者により従業員としての身分が保障されながら、一定期間組合活動に専念する在籍専従者と、それ以外の非在籍専従者(離職専従者)とに分けられる。一般には前者をさす
引用:コトバンク
国鉄の専従役員もILO87条が批准されることで、組合専従者とする場合、期間5年、組合専従期間は勤務時間に反映されないなどの組合にすれば改悪とも言える部分もあったようです。
さて、ここで改めて昭和30年代の国鉄の専従者の歴史について振り返ってみたいと思います。
国労の場合ですが、専従役員再任までのきっかけは以下の通りでした。
昭和29年
国鉄、年末闘争の3割休暇戦術等が公労法第17条違反であるとして、国労本部委員長他、三役幹部と企画部長岩井章ならびに地方役員、合計18名を23日付けで解雇 1/22
今回は地方における末端の組合員に対しても責任を追究したことから、組合側を強く刺激することとなった
注:鉄労の資料では、1/22解雇発令は、国労本部委員長他の三幹部並びに岩井章企画部長であり、1/23に地方役員が解雇となっています。もう少しその辺を確認して加筆修正します。
国鉄当局、解雇者が再選の場合は組合を法外組合と認め、団体交渉等に応じないと国労に警告 5/12
第13回全国大会及び第36回中央委員会が開催され、29年度の運動方針として、業務方針や党幹部の決定を行った
運動方針は、不当処分の撤回、生活向上の闘争等五項目
国労は当局の警告にも関わらず、解雇された役員を再任したため、組合を法外組合と認め、団体交渉等に応じない事態となった
当局からの警告を無視した組合幹部
国鉄当局は、国労内の民同左派が台頭しており、国労は当局からの事前の警告に対して、さほど大きな問題ではないと軽く考えていたようです、実際には本格的な警告であったわけで、その後国労はその対応に苦労することとなります。
期日も迫り、いよいよ役員達も上ノ山(山形県上ノ山温泉)へ出発しようとした矢先へ、国鉄当局から、「解雇処分を受けた三役を、大会で再選した場合には、"法外組合"となるから団体交渉は出来ない」という警告があった。
13日に、副総裁の天坊と職員局長の井上が、委員長の柴谷と副委員長の土門に会って、この警告をしたという・・・・中略・・・・柴谷は、これを警告という正式なものとは思わず、当局が密かに腹の内を話してくれた、程度に受取。「組合でよく相談しましょう」と言って帰った、と言う。
ところが、これが翌朝の各新聞に大きく報道された。新聞へ発表するための警告であったわけだ。政治好きと言われた"井上労政”の始まりだった。
民同左派と革同派の主流派と、追いやられる民同右派
この背景には、当局からすれば民同左派と革同系が組合をどんどん左傾化していくことへのいらだちがあったように見えます。
当局側の言い分としては、国鉄等の公社の場合は、公共の福祉の上に公労法があり、国鉄法があるとして、少なくとも当時の当局としては、国労が今一度原点に帰ることを望んでの発言でもあったわけです。
それは、国有鉄道 1954年8月号 岐路に立つ労働問題で、以下のように述べています。
公共の福祉を擁護し確保するためには、国鉄の理事者は理事者としての義務があるのと同様に‘国鉄労働組合は、公労法上の組合としての義務のあることを忘れてはならない。
この義務は、公共の福祉のために課せられた責任であるともいえるであろう。
権利の主張に熱中するあまり、この義務と責任に対する感覚がまひしているような傾向が激しくなっている現実は、大いに反省すべきである。
これは、民同左派と革同派が国労内で力を付けて、いたことに対して当局もかなり神経質になっていたわけで、「権利の主張に熱中するあまり、この義務と責任に対する感覚がまひしている」の文言に国鉄当局の国労に対する考え方が凝縮されていることを理解いただけると思います。
しかし、国労はこの時点で当局のこうした思惑を理解できず、解雇者を三役に再選することで、戦う組合としての面子が立つとでも考えたのかも知れません。
実際、解雇処分を受けた元国労企画部長の岩井章は、委員長だけでも改選を主張してかなり煙たがられたそうですが、岩井本人としては、"法外組合"と言われることを恐れたと言われており、更には新生民同派(いわゆる民同右派)が分裂することを恐れたわけですが、結果的には民同右派は、管理局等の非限機関を中心とした職能別組合、更には新潟闘争での新組合の結成などに流れていくこととなります。
当局の警告は。結局は革同派や民同左派にしてみれば、解雇者を三役にすることで当局が首謀者を解雇したくても解雇できないから、処分反対闘争は自分たちの勝利になると判断したわけです。しかし当局は、当初の予定通り、法外組合として認定したため、24条協定の組合費などの控除が行われなくなりました。
この措置は昭和30年9月6日まで続いたようです。
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国労内で民同右派による分裂運動(新潟闘争前) Ⅱ
4ヶ月近く放置状態になってしまいまして申し訳ございません。
再び、国鉄民主化の道からお話を進めさせていただこうと思います。
新潟闘争前の松山大会
国労内における派閥闘争は大きくなり、新潟闘争前に松山で開催された定期大会では派閥争いが激化していたと言われています。
その背景には、跳ねっ返りの強すぎる地本と指令返上した地本などの扱いにおいて右派(新生民同派)が強いからとか、革同・共産党が原因だと言った議論が百出したとされており、本来であれば派閥と言う問題を昇華して行くべきなのですが、解消どころか派閥闘争というもう一つの組合内闘争が露顕したのでした。
その背景には、先ほど書きましたように。
本部の指令を黙殺もしくは返上した大阪地本など指令返上したいわゆる新生民同派が強いグループが指示したのだとか、広島や新潟などのように革同や共産党が拡張戦略をとったからと言う発言が根底にあったようです。
民同左派にしてみれば、民同右派と呼ばれるグループも革同もどちらも扱いにくいと言う点では同じであったのでしょう。
こうした議論も出た中で、最終的には規約の改正により副委員長ポストを一つ増やすこととなり、最終的には新執行部は、引き続き民同左派が押さえるものの。新生民同派が2人増えて。革同派が一人減るという事で決定しました。

組合分裂を意識した新生民同派
新生民同派(いわゆる右派)の中には、解雇された職員が組合専従で業務に就くことに強い違和感を持っており、新生民同派の代議員の一人は組合分裂を意識して趣意書を関係者に配布したとされています。
その人の名前は、菅原栄悦という方で、「非現業関係組合結成準備の趣意書」と呼ばれる印刷物を配布したそうです。
その辺の経緯を、国鉄民主化への道 P257から引用してみたいと思います。
新生民同右派の菅原栄悦は、この大会で、組合分裂を意識し、「非現業関係組合結成時準備の趣意書」という印刷物を密かに関係者に配った。
私たちは管理局を中心とする非現業関係の組合員の労働条件の維持改善を図る推進機関として、総務経理協議会があり、組合本部の諮問に応ずるばかりでなく、直接問題解決にあたってきたのでありますが、国鉄労働組合が単一組織になった以前を含めて、私たちの要望事項は今日まで殆ど何一つ解決していないのであります。
(中略)何れにしても、現在の組合の中にあっては、非現業関係及び直轄職場を含めての問題解決は望み無しと判断し、ここに管理部門を一丸とする新組合を結成し、問題解決に邁進することに決定したのである。
と有りますように、国労における非現業の問題が全く解消されていないという不満が述べられているわけですが。
この辺は、私が郵政局に勤務していた頃もあまり変わりませんでした。苦笑
郵便局とは異なる問題は多々あるのですが、組合という名前のサークルに入っているようなもので。特に私の場合は全逓荷所属していましたので、それで無くとも少数派の組合だけに肩身が狭かったのはよく覚えています。
私の思い出話はどうでも良いのですが、ここにきて新生民同派は、まず非現業部門で組合の分裂をはかるわけですが、同じように新潟闘争が同時期に勃発したことから、新潟の国労組合員も地方組合を結成することとなりこれがやがて、鉄労(当初は新国労)に収束して行くわけですが、改めてこうして時系列で追いかけて見える事の重要性を感じています。
国鉄当局は団交拒否を通告
国労・機労共に解雇者を三役に据えたことで、国鉄当局は国労・機労に対して「組合は合法的な代表者を欠いているとして団体交渉は行わない旨通告」して組合との対立姿勢を7月9日に示すのですが、奇しくも同日新潟闘争が始まるのでした。
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