日本国有鉄道労働運動史【鉄労視点】

日本国有鉄道労働運動史、鉄労視点で綴るblogです

国労大会の模様から

いつもは、「国鉄民主化への道」から、アップさせていただくのですが、今回は少し毛色を変えて、国鉄部内紙(国有鉄道 昭和31年10月号)の記事「国労大会」から見ていこうと思います。
当時、機関車労組は、国労から分裂していましたが、まだ鉄労は誕生しておりませんが、翌年の新潟闘争の引き金となった、「白新線要員闘争」や、西宇部闘争(後述)に対して、国労の中で、闘いが中途半端でなかったのかという批判が出たりしています。

新潟闘争勃発前の話

話は前後するのですが、今回は初めての春闘後の動きとして、昭和31年に実施された国労大会の様子からお話しをさせていただこうと思います。

新潟及び広島の代議員から、春闘に対する批判が出ていましたが全体的には落ち着いた大会で会ったと記録されています。

ただ、新潟・広島の代議員からの批判が大きかったと書きましたが、この二つの拠点は革同派*1共産党の強い地域であり、国鉄本社でも注目していたそうです。

特に、この二つの地本が、春闘と関連して問題行動を起こすこととなります。

新潟は、白新線要員闘争として、当局と対立したもので、新潟闘争の伏線となった争いと言えるものでした。

そして、もう一つは、広島地本厚狭支部による山猫ストでした。

厚狭支部山猫ストは後ほど詳述しますが、厚狭支部に押し切られる形で本社が追認する形となり、翌年の新潟闘争では本部は地本の動きに同調することはなかったのですが、この頃から、本部も拠点における革同派や共産党派との距離を置くようになっていたと思われます。

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日本国有鉄道 昭和31年10月号

国労内で過激な運動を見せる、革同派や共産党

当時の国労大会の様子を国有鉄道 昭和31年10月号から引用したいと思います。

国鉄労組は、8月13日から18日まで6日間、伊勢市で、第15回定期全国大会を開催した。大会の主要議題は、役員改選、運動方針、賃金方針並びに業務方針の決定及び規約の改正であったが、大会の論議は、全会期を通じて、比較的低調であつた。
 広島、新潟等の代議員が、春季闘争、夏季闘争の妥結に際して、その妥結の条件があいまいであり、特にベース・アップの間題が明らかにされていない、春闘では、まだ戦う余力があったのに、なぜ打切ったのか、と云った批判西宇部白新線の闘争等に対し、本部の指導性が足りなかったために、全国的な闘争に盛り上げることが出来ず、あのような結末に終った、と云う批判等があり、夏季闘争と選挙闘争との混同等が指摘されたが、白熱的な論議がなされる、と云う乙ともなく、執行部の答弁に強い反論も行われなかった。

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ここで、春闘自体が中途半端に終わったと指摘しているわけですが、確かに調停案にに則り国鉄だけが先駆けて妥結した事へに対して、マスコミなどからは逆に批判されることになっているように、より左傾的組合からすれば不十分と感じたと言えそうです。

西宇部白新線の闘争とは?

西宇部白新線の闘争に関しては、白新線の闘争は、直接その後の新潟闘争への引き金となりましたので、下記のとおり弊ブログに詳細を書いていますので、改めて参照していただければと思いますが、概略を申し上げると、白新線というバイパス線が開通するにあたり。当局が算定した要員に対して組合側の要求する要員が過大(当局は68人、組合側は94人)であり、当局が譲歩して71人としたが納得せず、順法闘争や開通式典で組合が乱入したといった事例であり、最終的に要員が不足すれば再考するということで妥結することとなりました。共産党が背後にあり、人民闘争にさせないためにも、厳しい処分を科したかったものの、本社は「きつい処分をしない」という温情主義を示しました。

その結果、国労新潟地本は更に増長することとなり、その後の新潟闘争の伏線となるのでした。

blackcat-kat.hateblo.jp

西宇部闘争とは

昭和31年6月6日に行なわれた山猫スト労働組合の組合員の一部集団によって行われ、組合所定機関の承認を得ることなく独自に為されるストライキのこと)で、完全に組合管理の様相となり、宇部線小野田線が完全マヒ状態になってしまいました。

当時のヘビーユーザーである、宇部興産小野田セメント、日産化学、宇部ソーダ等の荷主からなんとかしてくれという苦情が本社に入ったそうです。

余談ですが。宇部興産の専用道路が建設される背景にはこうしたストライキが直接の原因であった事はよく知られた事実です。

このストライキも、元々は山猫ストですので、当然のことながら国労本部がうかがい知らないストでした。当時は現在のようなネット社会ではなく、地方の紛争であり東京の新聞は黙殺していたので、国労本部でもその実態は掴めていなかったそうです。

結局、広島地本からの要請で、国労本部が「闘争指令」を出したのは、上記の6月6日であり、闘争からすでに5日を経ていたのでした。

これには、国労も厚狭支部の闘争を山ネコストにしないための措置だったわけですが、その背景には情報の圧倒的不足と本部が介入することでなんとかしようとしたみたいです。

その辺を「国鉄民主化の道」から引用してみたいと思います。

31年6月6日に国鉄本社へ、「山陽本線の西宇部駅(現在の宇部駅)、小野田駅宇部港駅で職場闘争をしており 、宇部線小野田線が完全にマヒ状態になっている。なんとかしてくれ」と、両線沿線にある宇部興産小野田セメント・日産化学・宇部ソーダ等の荷主から、陳情してきた。山口県の一地方の紛争で、東京の新聞は黙殺していたので、国労本部さえも何が何だかよくわからなかった。

国労が広島地本からの要請で、「広島地本の厚狭支部の闘争を支持する」というような「闘争指令」をだしたのは、ストに入ってから5日目の6月6日になってからだ。厚狭支部の闘争を”山ネコ"にしないためと、本部が介入しないければ解決困難になってきたらしいので、"追認指令”をだしたわけだ。

国鉄民主化の道P237から引用

職制マヒ闘争で現場は疲弊していくことに

山猫ストとなれば、元々国鉄ストライキ自体が違法であるにも関わらず、さらなる違法状態になるわけですから、職員が解雇されても組合が守ることができないため、追認の指令を出すとともに、本部預かりすることで、組合員を守るとともに。早期の収集を図ろうとしたと考えられますが、結果的には首謀者である3駅(西宇部・小野田・宇部港)の組合員14名を懲戒免職、他減給44人、訓告95人の大量処分を発表したとされています。

最終的には、解雇者14名の内7名の処分を停職1年として、減らした連結手も1名減員するものの臨時補充員を1名入れると言うことで解決(実質的な当局側の譲歩)という形で収拾されましたが、このような当局側の温情主義と言いますか、譲歩が組合を更に増長させることとなり、前述の「西宇部白新線の闘争等に対し、本部の指導性が足りなかったために、全国的な闘争に盛り上げることが出来ず、あのような結末に終った」という発言に繋がったと言えそうです。

なお、宇部の闘争に関しては共産党白新線で行なった手法を取り入れたというか直接指導していたようで、職制をマヒさせる闘争であったことは明白であり、こうした職制マヒ闘争が昭和40年代には現場協議制に入っていくこととなるのですが、その辺は又後日詳細を明らかにしていきたいと思います。

 

続く

次回は、国鉄での支社制度発足について書かせていただきます。

 

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*1:(正式には、国鉄労働組合革新同志会 共産党とは距離を置きながらも共闘を否定しない社会党左派)

春闘のはじまり 第3話

久々に更新させていただきます。

今回も春闘の始まりと言うことで、国鉄民主化への道を底本にご覧頂こうと思います。

神武以来のストライキ

朝鮮動乱で、経済復興のきっかけを作った日本は、順調な経済発展を遂げ、家電製品の(電気洗濯機・電気冷蔵庫・テレビ)が「3種の神器」と言われ、昭和31年7月経済企画庁(当時の名称)から発表された第10回経済白書では、もはや戦後ではないとして高らかに謳っています。

戦後の一時期に比べれば、その欲望の熾烈さは明らかに減少した。もはや「戦後」ではない。我々はいまや異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる。そして近代化の進歩も速やかにしてかつ安定的な経済の成長によって初めて可能となるのである。

こうして、順調に発展する経済の中で総評は5波にわたる春闘スケジュールを策定したそうで、この闘争に国労も初めて参加することとなり、太田総評議長は、「春の闘争に,今年は国労も参加する。官民合同で、2・1ストを上回る大規模な統一闘争を展開する」と宣言したほか、「神武以来のストライキ」とぶち上げた。(いわゆる、太田ラッパ)を語ったと言われています。

よく戦後の歴史で言われる神武景気ですが、この言葉の発端は、太田薫であったと、自らの著書、「ひびけラッパ」で以下のように書いています。

引用してみたいと思います。

一番始めのラッパは、昭和31年、公労協が大挙して参加した春闘のときに、神武以来のストライキをやるといったことである。これが兜町だかジャーナリズムだかで取り上げられ、おりからの神武景気の枕言葉になったということである。

本人が言っているので間違い無いでしょうが、意外な人物が神武景気の名付け親になったと言えそうです。

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政府も積極的に介入するスト対策

総評の春闘の闘いに際して、それまでは、国労などに尻を叩く程度だった政府が積極的に労働問題で介入するようになってきたとされていますが、それは保革2大政党の誕誕生や、総評が太田・岩井体制が、従前の高野体制と比べて、自民党にとっては組みやすい相手であったという点があったそうです。以下国鉄民主化の時代から引用してみたいと思います。

政府の方も強硬な態度を見せた。今まで労働問題では、陰で国鉄当局などの尻を叩いている程度だったが、この年政府は、積極的に表面に出てきた。理由は、

  1. 前年の秋に、社会党が統一されたため。保革二大政党の対立という形になったこと。自社ともに意気込んでいたこと。
  2. この夏に参議院議員の改選があること【宣伝戦を展開、発信が派手になった。「今度の党争は、政党とジャーナリズムを大きくしていく」と、国労の幹部の中にも派手な発言を危惧する声が出ていた。「毎日新聞」の解説では、"掛け声党争"とからかっていた)。
  3. 労相が労働問題の権威と自認する前衆議院労働委員長の倉石忠雄だったこと。
  4. 政府・与党に"陽性"な太田・岩井の総評なら、同じ土俵で相撲が取れる、と言う気持ちもあったことなどである。

とあるように、自民党してみれば、新たな総評の体制に対しても万全の準備が出来たという意思表示とも取れたようでした。

その辺は、国有鉄道 昭和31年5月号春季闘争に当時の様子が出ていましたが、前述の通り、保守合同が行われたことで、日経連は、賃金の引き上げを抑えるため。公労協のベースアップ阻止を目指して、動き始めたところ、政府(自民党)も保守合同が行われたことから、公労協のベースアップ阻止に積極的に動くこととなったそうです。

国鉄の賃金アップはどうなった?

国鉄のベースアップは、国労が平均一二%(2000円)の賃金アップを要求して交渉が決裂昭和30年11月28日に調停申請、機関車労組も職種別賃金を獲得するとして2100円程度を要求して、12月7日に調停申請を行うことに。

その後、二ヶ月ほどはそのままとなり、昭和31年2月14日から23日間までの10日間、職場集会などで数本の列車が遅延した程度で有り、第二波は、2月28日から3月2日までの4日間、勤務時間に食い込む職場集会で、貨物列車が数本運休、旅客・貨物列車も約10本ほどが遅れたと記録されていますが。

この第二波が行われた時期になって、調停案が示されることとなりましたが、この調停案が物議を醸すこととなりました。

以下は、国鉄の部内紙国有鉄道の昭和31年5月号 春季闘争と言う記事の一部をキャプチャーしたものですが、総評に対して民間経営者が、極端な賃上げを阻止するため対抗しようとするのに対して、政府も公労協の値上げを阻止することで方針が一致、そこで二人三脚でその歩を進めようとする中で、国鉄が調停案を呑んで、妥結しようとしたことに対して、当局と組合が馴合をしているのではないか、悪い意味で国鉄一家なのではないかと政府からも批判されたと書かれています。

このときは、年末一時金として5000円の支給が、当時は世界的に経済はデフレ傾向と言われる時代で有ったことから経営者側は内部留保に努め、賃金の上昇には消極的であっただけに、国鉄だけが先駆けて妥結した事への違和感があったかと思います。

国鉄にしてみれば、年度末手当の前倒しで有ると判断しており、国労も調停案はベースアップを認めているので、5000円の支給は暫定措置だとして、妥結することとなったことが、馴合と思われたのだと弁明しています。

 

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 これにより、条件を付けて3月5日には国労と妥結、企労も「給与体系の専門委員会を設置する」と言う条件を付けて妥結しています。

このように、まだまだ当局なり現場での職場を管理者がコントロール出来ていたことは、良くも悪くも国鉄一家と呼ばれるような、職場体制があったことも注目しておくべきだと考えられます。

 

総評がぶち上げた「神武以来のストライキ」は、国鉄に関してはほぼ不発に終わり、この闘争による解雇者はおらず、最高で9ヶ月の減給処分だけでした。

 

その後も、国労は職場における職制と職員の分断をことあるごとに図っており、それが昭和40年頃の現場協議制へと繋がっていくことになります。

 

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社会統一と保守合同(番外編)

55年体制始まる

昭和30年(1955)は、政治にとって非常の興味深い年でもありました。

左派と右派で分裂の危機にあった、日本社会党保が再統一を図り、ともに保守政党である、自由党民主党が合同して、現在の自由民主党が誕生することとなりました。

これにより、保守党である、自由民主党は、憲法改正発議のギリギリの2/3弱を維持し、社会党が残り1/3(他に日本共産党、無所属など)による保守合同が実現した年でも有りました。

この体制は、「一と二分の一政党制」とも呼ばれたそうで、政権党である自民党憲法改正発議をするのは定数が足らず、社会党も1/3のため、政権を獲得することは出来ない万年野党という体制が固まったと言えるもので、政治的には安定するものの、こうした体制が長く続いたことが。現在における政治家の質の低下に繋がっているといえましょう。

日本社会党統一大会宣誓書

日本社会党統一大会宣誓書

引用 〔日本社会党統一大会宣誓書〕 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

自由民主党結成大会

自由民主党結成大会

画像 wikipedia 保守合同 - Wikipedia

 

日本社会党は、神田の共立講堂で10月13日に統一大会が開かれ、自由民主党は、遅れること約1ヶ月11月15日に東京神田の中央大学講堂で結党大会が開かれたそうです。

尚、これに先立ち日本社会党は、10月12日に解党大会をそれぞれ右派と左派で別々に開催しています。

こうして誕生した、55年体制は、自由民主党は万年与党としての地位を獲得する代わりに憲法改正の発議を行えず、社会党にしても万年野党となるものの、改憲を阻止できる抑止力なり、双方の思惑が一致したと言えます。

社会党保守合同の意義

社会党が分裂した背景には、サンフランシスコ講和条約を巡って全面講和を支持する左派社会党と、一部講和を認める右派との間で大きく意見が分かれたことが一番の原因でした。

元々社会党左派は、非共産党系の労農派マルクス主義を標榜する政治路線を目指したグループが中心で有り、共産党とは距離を置きつつ、社会主義社会を目指すとしていたのに対し、社会党右派は、議会制度の枠組みの中で、「富の再分配」による平等を目指す社会主義であり、社会党と名乗るもののより正確には中道と呼べるもので、社会主義革命などを一切指向していないという点が異なっていました。

社会党が合同を果たした理由は、米ソ冷戦による緊張の中で、全面講和を主張し、その後も『護憲と反安保』を掲げ米軍への基地提供や再軍備に対する反対運動を推進する社会党左派は、戦争の記憶が生々しい中にあっては、その存在意義を高めていくこととなりました。

その反面、議会制度の枠組みの中で、「富の再分配」による平等を目指すという、理想を目指す社会党右派は、議席の確保に苦労しており、保守政党が分裂(当時は前述の通り、自由党民主党に分裂していたことから、社会党が再統一することで政権を奪取できるという思惑が働いたからでした。

こうした実情に対して、財界からの要望や、社会党が統一したことを受けて自由党民主党が合同し、自由民主党が誕生することとなりました。

最後に、自由民主党のホームページ「自由民主党結成」の部分から引用させていただきます。

環境の中で、国民も政治家も、実に多くのことを体験し、学びました。そして、やがてその貴重な体験と反省の中から、わが国が真に議会制民主政治を確立して、政局を安定させ、経済の飛躍的発展と福祉国家の建設をはかるためには、自由民主主義勢力が大同団結し、一方、社会党も一本となって現実的な社会党に脱皮し、二大政党による健全な議会政治の発展をはかる以外にない、という強い要望が国民の間にも、政治家の間にも芽生えてきたのでした。

このような国民世論の強い要望と、自由民主主義政党内部での反省も加わって、「保守合同」への動きは、二十八年ごろから活発化したのですが、二十九年十一月の改進党と日本自由党の合同による「日本民主党」の結成を経て、三十年五月の民主・自由両党幹部会談、同年六月の鳩山民主・緒方自由両党総裁の党首会談から、本格的な自由民主勢力の合同への動きが始まったのです。

とくに、この鳩山・緒方会談は、「保守勢力を結集し、政局を安定させる」ことで意見の一致をみた歴史的な会談でした。

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春闘のはじまり 第2話

春闘のはじまり第2話として、今回も引き続き、鉄労の国鉄民主化への道を底本にして、ご覧いただこうと思います。

昭和30年、国鉄にとって大きな変換点

さて、春闘が始まった昭和30年、国鉄を取り巻く環境として、下記の通り二つの大きな出来事がありました。

です、生産性本部はご存じの通り後にマル生運動であり、生産性本部の指導の下、生産性運動が始まったことはご存じの通りです。

なお、十河総裁の就任は、長崎惣之助総裁が紫雲丸の沈没事故を受けて、辞表を提出したことを受けたもので、当初は、運輸大臣三木武夫が「国鉄の刷新と信用回復のため、有力な財界人を起用する」として、元東京銀行頭取の浜口雄彦浜口雄幸の長男)

濱口雄彦 元東京銀行頭取、元全国銀行協会連合会会長

濱口雄彦 元東京銀行頭取、元全国銀行協会連合会会長

に打診するも固辞され、最終的に、三木武吉鳩山一郎国鉄OBでもある、十河信二を推薦。結果的に十河が、「最後のご奉公と思い、線路を枕に討ち死する覚悟で引き受けた」と承諾したそうです。

三木武夫運輸相は、国鉄OBを採用しないと言ったのにということで、マスコミから厳しいところを突かれたと書いています。

二回の沈没事故の責任を負って辞任した、不運の長崎総裁

長崎総裁は桜木町事故の責任を負って辞任した、加賀山総裁の後を受けて、就任したものの、洞爺丸事故、更に紫雲丸事故と2回の重大海難事故に遭遇しています。
ただし、就任中には交流電化の推進や、非電化線区の気動車化等を推進するなど動力近代化等には尽力されています。

国鉄は発足当初から、波乱含みで総裁が任期まで続かないというジンクスがありました。

長崎惣之助総裁 紫雲丸の沈没事故の責任を負って辞任した

長崎惣之助総裁 紫雲丸の沈没事故の責任を負って辞任した

 

十河総裁誕生

十河総裁の誕生は、年齢的にも、就任の時点で71歳と高齢であったこと、(現在以上に、70歳という年齢は高齢であった)こと、さらに、「線路を枕に討ち死する覚悟」と言った談話は、時代錯誤であるとして、マスコミも冷ややかな眼で見ていたそうです。

十河総裁のユニークな視点というか時代を超越していたと思わせるのは、「組合を国鉄経営に参加させよう」と画策したことでした。

当然部内では反対をしたのですが、学者にも意見を聞こうと言うことで、石井照久や、大河内一男と言った学者にも意見を聞いたそうです。

結果としては、参加したとしても経営責任は負えないだろうとして、実現することはありませんでした。

その辺を、「国鉄民主化への道」から引用したいと思います。

十河は「この際、組合を国鉄経営に参加させ、責任の一端を担わせる必要がある。国鉄の最高意思決定機関である理事会に、組合の代表を加えてはどうか」と国鉄の幹部に提案したという。谷は

 この十河さんの余りにも進歩的な着想に、われわれは戸惑った。日本国 有鉄道の建前上認められないなどと抗弁しても、十河さんには通用しな い・・・中略・・・、大河内一男、石井照久等当代一流の学者にお越し をねがって、総裁を囲んで討議してもらった。結論は、組合が経営に対 して発言権を保持する事を希望しても経営の責任を分担する考えは無い だろうというところに落着いた。

 と書かれています。

結果的に、この問題はここで終わりとなりましたが、こうした考えに至った背景には、後藤新平が提唱した、国鉄大家族主義の考え方の則ったものであったようですが、戦後の国鉄の中では、むしろ組合は対立すべき存在となりつつ有り、十河総裁自身も考えを改めていくことになるのが、後述する、昭和32年3月23日に実施された、いわゆる「抜き打ちスト」であり、その流れを受けて、国労分割の元となる、新潟闘争に繋がっていくのでした。

国労内での熾烈な派閥抗争(都区に民同右派と左派)

国労では解雇されても再選されている三名の役員の処遇で揉めていました。

その三名のうち、横山書記長(民同左派)(横山利秋)は2月の総選挙で、愛知一区から出馬、衆議院に転出しており、更に、この度の総評事務局長に、岩井章(当時は国労企画部長)を立候補させることで国労内でも意見の統一がなされていませんでした。

そして、もう一人の解雇者、柴谷委員長(柴谷要)も、翌年の参議院選挙全国区に出馬する意欲を見せていました。

国労の内部でもその辺の葛藤と言いますか意見は分かれていたそうで、柴谷委員長を再選という方向もあるものの、民同右派(労使協調路線派)としては、柴谷委員長を参議院に送りだし、解雇されても再選している役員を排除したい民同右派の思惑も有り、しきりに働きかけたとされています。
この背景には、昭和29年5月12日に、「解雇者が再選の場合は組合を法外組合と認め、団体交渉等に応じないと国労に警告」したにも関わらず、国労が解雇者を役員として再任したことから、国労と当局の対立が激化したことが原因でした。

国労全国大会等開催 5/15

山形県上ノ山で、第十三回全国大会及び第三十六回中央委員会が開催され、29年度の運動方針として、業務方針や党幹部の決定を行った
運動方針は、不当処分の撤回、生活向上の闘争等五項目
国労は当局の警告にも関わらず、解雇された役員を再任したため、組合を法外組合と認め、団体交渉等に応じない事態となった

 国鉄があった時代 昭和29年前半

この昭和30年の国労大会では、革同派(国鉄労働組合革新同志会)が、「不当解雇反対のシンボルである柴谷委員長を再選させる」のが筋ではないかとして下記のような批判をしたと言います。「国鉄民主化の道から」引用したいと思います。

「横山書記長は既に衆議院に出てしまった。更に柴谷委員長を参議院に、岩井企画部長を総評に出すことは、失業対策では無いか。多くの解雇者を国労に残し、最高幹部は逃げていくのですか」という皮肉な演説もあった。

そうですが、これに関しては革同派の細井宗一が内部を抑えたようで、表面上は国労は一枚岩として新役員が選出されることとなった。
その背景には、下記のように国鉄当局が、組合役員の地位に関して、公共企業体労働関係法 第4条第三項による疑義を発したからでした。

すなわち、国鉄職員でないものが国労の役員に就任することは、公共企業体労働関係法から見ても違法で有り、違法状態の組合役員を擁する組合とは交渉なり便宜供与はできないとしたのでした。

 *1

  国鉄当局、被解雇者の組合役員再選を理由に団交拒否 5/27

解雇通告を受けた三役再選は適法と認め難いからその違法な状態を解消しない限り従来通りの労働関係を継続することは出来ないと正式通告
夏期手当問題その他について、国鉄労組から団体交渉の申入れをうけた国鉄当局は、組合幹部との会見に、被解題者を役員とする国鉄労組は法外組合である旨の正式通告を行い、かかる違法状態がつづく限り、団体交渉はもとより、組合に対する諸々の便宜の供与をとりやめることを伝えた

 こうした背景があったことから、国労としてはなんとしても、解雇役員が国労の幹部役員としていることを解消する事が目標でありました。

結局、最終日の7月20日に、国労は新役員として、下記の三名を選出することになりました。

この改選により、新執行部は下記の通りとなりました。

  • 委員長 小柳勇(民同左派、門司)
  • 副委員長 土門幸一(革同派 秋田)
  • 書記長 鈴木清(民同左派、東京)

であり、土門幸一は、解雇処分を受けていたが、再選させることで、民同左派が革同派を説得したそうです。新生民同派は、土門幸一だけは対立候補を立てるものの、民同左派のグループに圧される結果となり、昨年同様民同左派と革同派が支配する国労となりました。

 国労中央委員会役員選出 7/20

委員長に小柳勇、副委員長に土門幸一。書記長に鈴木清の各氏が当選。なお岩井企画部長を総評事務局長候補に推薦を決定した

 国鉄があった時代

国鉄当局でも、解雇処分を受けている土門幸一を役員にしたことについて、当局でも、正常化したか否かで議論があったそうですが、最終的には9月5日には、「努力が認められる」として翌6日、国労に対して、便宜供与復活など制式に団体交渉を行うことを通知しています。

 国労への便宜供与復活を通告 9/6

解雇役員問題に起因した国労を正式の相手としなかった国鉄当局は、方針を変更して、これまでのかたくなな態度を綬和、団交をおこなう事を決定、専従者に対する賃金の支給、組休及び定期組合費の賃金控除等の国労に対する便宜供与を旧にもどすことを組合側に通告

国鉄があった時代

 

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*1:第四条 職員は、組合を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる。但し、管理又は監督の地位にある者及び機密の事務を取扱う者は、組合を結成し、又はこれに加入することができない。

 2 省略

 3 公共企業体の職員でなければ、その公共企業体の職員の組合の組合員又はその役員となることができない。

春闘の始まりと労働組合

春闘のはじまり

春闘、最近は春闘と言っても、本当にストライキをしたりするわけでもないので形骸化したイメージがありますが、春闘という言葉が最初に使われたのはいつかご存じでしょうか?

春闘は、昭和29年、総評加盟の5つの単産*1(炭労、私鉄総連、合化労連、電産、紙パ労連)で「共闘会議」)を開催したのが最初で、その後、全国金属、化学同盟、電機労連が加わった、「8単産共闘会議」が行った統一行動が最初であったとされています。

何故、春闘を行ったのかについては、「酒井一三著 職場に労働運動を」に詳しく書かれていますので、引用したいと思います。

そこで春闘が始まるようになります。1955年(昭和30年)には8単産共闘がスタートします。翌年には正式な春闘共闘会議が発足するわけですが、なぜ春闘が始まったかというと資本主義の復活にともなって個別の闘いが全部各個撃破される。長期争議に持ち込まれて徹底的な弾圧を受ける。闘う組合が次つぎにつぶされていくと言う状況の中から"暗い夜道を一人で歩くんじゃなくって。お手々つないで行こうじゃないか"と言うのが実は春闘のスタートなんです。

引用終わり

と書かれているように、新たな動きが出てくるのですが、これは総評の指導者、高野実の「ぐるみ闘争」*2に対抗するものであったと言われています。

春闘の当初の目的は、資本家ではなく市場を失うことを恐れたから

春闘を導入したのは、総評内の太田薫が、炭労、私鉄総連、合化労連、電産、紙パ労連の五単産が「春期賃上げ共闘会議総決起大会」を開き、産業別統一闘争の強化を主張したことがはじまりと言われています。その根底には、高野実からの決別が有ったと言われています。

高野が、マルクス運動に忠実に、資本家階級対労働者階級の闘いを進め、かつ家族ぐるみ、地域ぐるみで闘おうとしていたことに対する反発で有り、日本の組合は横断的な職能別組合ではなく、企業内組合であるので、ストライキにより自社の製品が売れ無くなることで、市場を失うことの方が大きいので、産業別に、あるいは全労働者が一斉にストライキをすれば、全産業がストライキをしているので、市場を失うこともないのではないかという観点からスタートしたのが春闘の始まりだったのです。

春闘生みの親と言われる、太田薫

春闘生みの親と言われる、太田薫 wikipediaから引用

春闘には消極的だった国労

国労(当時は民同右派は分裂していない)も、八単産共闘に誘われたが、この時は国労春闘には消極的であり、その主な理由として、下記の点を上げていました。

  • 公共企業体の賃金は、国会での予算審議に関係があり、3月では遅すぎること
  • 特定の単産賃上げ闘争に絞るような印象を与える
  • 総評の中に小総評を作るようなものであり感心しない

といった意見がありましたが、国労出身の岩井章が、総評事務局長に選出され、太田薫がが副議長に戻ると、今度は国労は積極的に春闘に参加するようになり、昭和31年の春闘には積極的に参加、さらに、昭和32年には、国労は中心的な役割を果たすことになりました。

当時は、春闘とは言わず、春季闘争、春期攻勢、春期賃上げ闘争等と言われていたそうです。

仲裁裁定が改悪される事態に

国労が積極的に春闘で運動したことで、仲裁裁定について大きな動きがありました。

それは組合側からすれば、改悪と言えるものでした。

すなわち、「仲裁裁定の完全実施」という問題が形式的なものとなってしまったからです。結果的に、仲裁裁定に移行することで最終的に決定する、しかし、その完全実施は形だけのものとなってしまうことになります。

その辺を、「酒井一三著 職場に労働運動を」から再び引用したいと思います。

この春闘で、岸・鈴木会談があります。国労の闘いをバックに、当時の岸総理大臣と社会党の鈴木委員長との間の会談がもたれたわけなんであります。

この会談での中心問題は仲裁裁定は以後完全に実施するという約束であります。
しかしここで完全実施という約束は実は公労法を改正して以後形だけ完全実施する事になってしまうわけであります。それまでは調停委員会と仲裁委員会とは違った委員会だったんですが、以後は公共企業体労働委員会という一つの委員会にしておいて、調停も全部同じ委員に扱わせると言うことになります。仲裁裁定そのものも政府の意向を受け、結局実施できる程度のものしか出てこない、こういうふうな感じの労働委員会にされてしまいました。公益委員の任命は事実上は政府の任命(形式は国会の承認ですが)でありますから、労働者側の手の届かないところで公益委員会が決められる。そういう法律改正が実はバックにありました。

 

社会党鈴木委員長と岸信介首相

社会党鈴木委員長と岸信介首相

少し長いですが、全文引用させていただきました。
これにより、実質的に仲裁裁定が有名無実な形になってしまったとされていますが、国鉄の仲裁裁定が曲がりなりにも完全実施されることから、その後の春闘をみていますと、仲裁裁定ありきで行動しているパターンが多くみられるようになり、特に昭和40年代から50年代にかけては、ストライキは長期化の傾向が見られるのですがこれは後述したいと思います。

 

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*1:単産=産業別単一組合の略、

*2:闘争労働争議において、組合員だけでなく妻子を巻き込んだ家族ぐるみの闘争、地域の市民をも巻き込んだ地域ぐるみ(または街ぐるみ)の闘争の総称

新潟闘争とはどのような闘争だったのか 第十一話 鉄労の原点となった民主化同盟とは?

長らく更新できず、申し訳ありませんでした。

今回も、国鉄労働組合四〇年史と国鉄民主化の道を参考にお話を進めさせていただきます。

 

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国労の分裂は新潟闘争前からあった?

国労の分裂は、新潟闘争前からあったことが、国鉄民主化の道を参照しますと伺えます。

国労の中では、現在の自民党と同じでいわゆる派閥による勢力争いと言いますか、左派もいれば、革同派、新生民同派(いわゆる民同右派で、その後分裂)の大きく分けて3つの派閥による集合体で有り、国労としては中々一本化できないところにジレンマがありました。

実際、国労は昭和31年の伊勢大会では、派閥の解消を中心にした議論が開催された対し、昭和32年度の松山大会では、派閥解消どころか、派閥争いに夜討議が行われるという逆戻りをしてしまったそうで、そんな中で、ガス抜き対策というわけでもないでしょうが、規約を変更して、副委員長一人増やし、三六人体制として、新生民道派(国鉄民主化同盟)にポストが多く与えられる結果となりました。

大きすぎる組織(国労)故の悲哀

元々、国鉄という大組織ですの、皆が皆同じ考えというわけではなく、左右の思考の対立がありました。

国労というと最後まで国鉄分割民営化に反対したグループというイメージがつきまといますが、実際には、国鉄分割民営化直前に現実路線に舵を切った、鉄産総連は、国労の旧主流派(民同左派)であり、最後まで残ったのは、それまでの非主流派と言われた人たちでした。協会派や、革同派*1が残る形となりました。

ですので、国労労使協調路線ではない組合、鉄労・動労労使協調路線の組合という色分けは必ずしも正しいとは言えないわけです。
むしろ、したたかに振る舞ったのは、動労で有り、そうした意味で国労は気の毒な組合であったと言えるかもしれません。

国鉄民主化同盟とは?

先ほど、鉄産総連を作ったのは、民同左派と書きましたが、ここで言う民同とは、国鉄民主化同盟)というもので、元々は反共産党系のグループでしたが、以下に示すように歴史の流れの中で、徐々に共産党とは距離を置きつつも、過激な運動に走るグループと、純粋に労使協調路線を目指すグループに別れていくこととなり、純粋の労使協調路線を目指すグループは、民同右派と呼ばれ、逆にある程度実力行使を伴う運動をするグループが民同左派と呼ばれるようになり、昭和61年の修善寺臨時大会までは、民同左派が実権を握っており、労使協調路線とまでは、行かなくとも何とかバランスをとりながらと言ったところでした。

そこで、国労に限らず、日本において労使協調路線の組合がいつ頃からあったのかと言うことを紐解いてみますと、

ただ、組合内の上記のように複数の派閥が存在するため、

さて、国労と言う組織は当初から労使対立、階級闘争と言う言葉を使っていたわけではなく、発足当初は穏健で、むしろ、労使協調路線を目指す派閥もあったようです。

その辺を、大原社会問題研究所 日本労働年鑑 第25集 1953年版から引用させていただきます。

翌一九四八年の春、産別民主化同盟の発足とともに「国鉄民主化同盟」となり、一九四九年夏の行政整理によってレッド・パージが行われて以来、国鉄労組の主導権をにぎってきたのである。しかしその後一九四九年の越年闘争や、一九五〇年の春季闘争をめぐって民同内に新な左右対立がめばえるにいたった。民同はもともと反共を旗じるしにして、健全な労働運動をめざした穏健な性格のものであったにもかかわらず、その内部にすら左右対立を生ぜしめるにいたったことに注目すべきである

 と有りますように、国労では元々、健全な労使関係を目指す国鉄民主化同盟画素の主流派だったのですが、その中でも左右対立を生じたと書かれていますが、この原因の一つとして、国鉄発足後の仲裁裁定が完全に実施されなかったことが原因ではないかと言われています。

当時の食糧事情やインフレを考えれば、仲裁裁定の完全実施が行われていたならば、左右分裂も起こらず、国鉄の姿はもう少し代わったものになっていた可能性もあるといえそうです。
実際、当時の政府に金がなかったとしても、独立採算の建前があったとしてもその辺をきちんとしてこなかったことが、その後の労働運動をややこしくする原因を作ったと言えそうです。

新生民同の誕生

民主化同盟は、総評の平和3原則を受け入れるか否かで紛糾したことが発端になったと言われており、以下のように発言しています。

民主化同盟は、昭和26年1月の社会党による平和三原則を提唱したことを受けて、開催された、6月8日に開催された国労新潟大会で、民同派が右派と左派に分裂し、役員改選が行われ、執行部の2/3を左派が占めることになりました。
その後も、民同の右派と左派は対立を続けることになります。
民同の分裂に関しては、再び大原社会問題研究所 日本労働年鑑 第25集 1953年版から引用させていただきます。

平和三原則*2を運動方針に採択するかしないかをめぐる討論によって表面化した。しかもこの時に、右翼的な労働運動が、いわゆる「愛国労働運動」としてなのり出たことが特に注目されるのである。
すなわち、右翼的労働運動の総師である星加要は、大会における中闘原案の説明に際して次のように発言している。

今日労働者が手を握るべき国際主義の立場というものは、世界労連と自由世界労連の二つにわかれておるということであります。このことは一体何を意味するかというと、共産主義的なインターナショナルと、自由民主的なインターナショナルが世界にあるということであります。われわれはこの国際主義という場合に自由世界労連、民主的な自由な労働組合運動としての国際主義をとっておるのであります。

 

とありますように、労働運動は共産主義以外にも世界自由労連があるとして、われわれはそちらを進むべきだという発言をしているわけで。

この辺の発言が、その後の民社党結党などと繋がっていくのでしょうね。

結果的に、平和三原則を社会党も受け入れたことから、民主化同盟の中でも反発が起きて、旧来の民主化同盟は瓦解することとなり、新民主化同盟が誕生することとなりました。

その辺の事情を再び、大原社会問題研究所 日本労働年鑑 第25集 1953年版から引用させていただきます。

国鉄民主化同盟フラク会議総会において、

一、民同は反共連盟として発足した当初の存在意義が失われた、

二、民同組織が人事問題の利用に供されている、

三、フラクのごたごたに終始せず国鉄労組全体の発展を考えるべきである、

などの理由のもとに、ついに民主化同盟を解散するの余儀なきにいたった

 ここで出てくる、フラク会議とは、フラクションfraction活動のことらしいです。

組合運動の中に党員による小集団を組織して、政党などの方針を浸透させていく活動をさします。

こうした、国鉄民主化同盟自体が、反共連盟として発足したのに、社会党日本共産党とともに、平和三原則を導入したことに対して、上記のように「民同は反共連盟として発足した当初の存在意義が失われた」と言う発言に繋がったと言えます。

 

 

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*1:協会派→社会主義協会や、革同派→国鉄労組革新同志会

*2:社会党が昭和26年1月の党大会で,〈中立堅持,軍事基地提供反対,全面講和実現〉とする方針を決定したものであり、同年3月には総評全体も指示ずる方向を決めたもの

新潟闘争とはどのような闘争だったのか 第一〇話

本日から、新潟闘争以後のお話を進めさせていただこうと思います。

今回も、主たる資料は鉄労の、国鉄民主化の道を参考にしながら、国労四〇年史などを随時参照しながら書かせていただく予定としております。

新潟地本は、共産党・革同派の拠点?

新潟地区には当時1万3000名の国鉄労働者がおり、これら労働者が加盟していたのが、共産党国鉄労働組合革新同志会(革同)*1の派閥でした。

国労の地本委員長が列車に乗っていると判ると、通過列車であってもわざわざ敬礼する現場長もいたという逸話も残されています。

その辺を、鉄労編纂、「国鉄民主化への道」から引用してみたいと思います。

当時1万3千名の国鉄新潟労働者を、がっちり握っていた共産・革同は、鋼鉄の地本と豪語し。県評の中核体として振舞い・・・地本委員長が列車に乗っていることがわかれば、わざわざホームを走って行って、車窓から敬礼した現場長もかなりいたように伝えられているものである。現場長の命令により、組合指令が優先するような雰囲気の中では、国鉄業務の研究をする者は、"変わり者"か。当局への"機嫌取り"のように見られていた。

現場長といえば、もちろん駅長などでありますから、駅長が管理局長と同格か。それ以上に、組合の地本委員長に対して謙っていたと言うことになります。

そこで、国労側から改めてこの辺はどうであったのか見ていきますと、やはり国労としては新潟闘争はあまり触れられたくない内容なのか、かなりあっさりと書かれています。

要約すれば、国労としては当局が実施したスト参加者に対して大量処分を発令する当局に対してもっと強い姿勢で挑むとう考え方が根底にありましたが、新潟地本自体が共産党が強い拠点でもあることから、最終的には共産党とは組めないとして、新潟闘争に支援を行わない(資金援助も含めて)こととしたため、結果的に新潟地本側の敗北という形で終わります。

ただ、国労としては、民同左派と革同派でなんとかバランスを取りながら運営が行えている中で、新潟地本は前述の通り、共産党の拠点でもあることから、国労としては深入りをせずという方向になったと「国鉄労働組合四〇年史」には書かれています。
今度は、「国鉄労働組合四〇年史」から引用してみたいと思います。

ここまで来ると国労本部としては新潟闘争のたたかいを全国化して全面的な対決をするか、それともひとまず実力闘争を中止するかの選択を迫られることとなった。この問題をめぐっては、新潟地本が革同系執行部の元にあったこともあって、1953年以来、民同左派と革同の連合によって比較的安定してきた中執のなかでも激しい論争が展開された。論議の結果は戦術転換論が多数となり、新潟闘争は打ち切られた

 こうしてみると国労内でも、共産党の扱いに対しては批判的であったことがうかがえます。

新潟闘争前にあった、新組合結成の動き

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 国労の新潟闘争が勃発する前、時計に針を約2年ほど前に戻してみたいと思います。

昭和30年2月1日には共産・革同が支配する国労地本に反発する形で、"組合を守る会"が結成され、「組合民主主義が根底からさらわれようとしている」として、約600人が参加するのですが、これに驚いたのは新潟地本であり,"守る会潰し"が行われ、村八分戦術とでも言う嫌がらせを実施、(家族間の交流禁止や、無視にとどまらず、子供同士も遊ばないように指導すると言った徹底ぶり)したため、結局一年半後の昭和31年9月5日には"組合を守る会"は解散せざるを得なかったとしています。

解散後の11ヶ月後には新潟闘争が勃発するわけですが、新潟闘争では比較的早い時期から国労脱退者が出てくるのですが、これは過去の"組合を守る会"の存在、さらには、組合員の中に、新潟地本に対する反発が大きかったことは容易に窺えます。

脱退者は200人近くになったそうですが、やはり前回と同様、村八分的行為が行われたようで、"組合を守る会"の幹部と相談した結果、脱退者だけで新組合を作ることになったとしています。

その辺を、再び「国鉄民主化への道」から引用してみたいと思います。
脱退者は200人ぐらいになった。闘争終了後、この脱退者たちが、国労の組合員からいじめられたり、村八分的にされたりしたこともあったて、かつて"組合を守る会"の幹部だった人と色々と話し合った。その結果、新組合をつくろうということになり、本局営業部総務課の渡部徳哉(後に東京第三工事局次長)と総務部人事課に赤津友三郎(後に新地労初代委員長。新潟駅長、信越地方自動車部長)の連名で、「32年8月4日12時から。旧新潟駅前のの篠田旅館で、
(1)新潟地方労組設立について、
(2)職能別労働組合に対する態度について、
(3)社会党員協議会について。

協議したいから、万障繰り合わせてご出席願いたい」との招集状を出した。
 この結果大開準備会には、62人が出席した。「現在の国労新潟地本の執行部は信頼できない。これは相手にしない」という点では意見が一致したが、どういう形の新組合にするかについては意見がまとまらなかった。

少し長文になってしまいましたが、新潟闘争が起こる前にすでに、分裂の機運は有ったものの、新潟地本の組合側圧力で改革の萌芽は摘まれてしまいましたが、新潟闘争を経て再びそうした分裂の芽は地表に顔を出そうするのですが、まだこの時点では、どのような形の組合にするのかという方向性が決まらなかったと書かれていますが。

むしろ、簡単に決まらないほどに問題は複雑、かつ深いものであったと言えそうです。

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*1:革同派は、共産党とは距離を置くものの、共産党とは共闘する、いわゆるシンパとして、活躍するグループ