日本国有鉄道労働運動史【鉄労視点】

日本国有鉄道労働運動史、鉄労視点で綴るblogです

新潟闘争後の国労新潟の動きを中心に (新組合結成)

二ヶ月近く更新が滞ってしまいましたが、再び国鉄民主化への道を参照しながら、他の資料も参照しながらアップさせていただこうと思います。

 

共産党・革同派の王国だった新潟鉄道管理局管内

新潟闘争前の新潟地本は、共産党・革同派の拠点であったそうで、新潟地本の委員長が列車に乗っていることが判ると、ホームに走って行って敬礼したと言った話も多々あったと、国鉄民主化への道では書かれていますが、現場長の命令よりも組合の命令が優先というおかしな雰囲気の職場であったそうです。

そんな中、共産党・革同派に反対するグループが新潟に生まれつつあり、昭和30年2月1日に「組合を守る会」が結成され、約600人が参加したとされています。

国鉄民主化への道から当該部分を引用させていただきます。

このような共産・革同中心の国労地本に反対するグループが、昭和30年2月1日に”組合を守る会”を結成「新潟地本は一定の政治感覚の人たちによって、組合民主主義が根底から浚われようとしている」との声明書を発表した。約600人が参加

と記述されています。

こうした動きに対して、国労新潟地本は”守る会潰し”に積極的に動くこととなります。

具体的には、いわゆる村八分的な扱いをすることであり、職場だけではなく、家族やその子供にまで及び、家族の交流禁止、子供も遊ばせないように指導するなどして、孤立化を図ることとし、結局1年半後の昭和31年9月5日には、”組合を守る会”自体が解散に追い込まれることとなりました。

新潟闘争勃発

こうして、組合を守る会自体が解体に追い込まれたその11ヶ月後、新潟闘争が勃発します。

新潟闘争中には各職場で国労から脱退する人が多数出たそうで、約200人くらいが国労から脱退したものの、新潟闘争終了後、脱退者が国労組合員から虐められたり村八分にされるという事案が発生したそうです、そこでかつて、”組合を守る会”の幹部だった人と話し合った結果、新しい組合を作ろうという話になったそうで各関係者に招集状を出したところ結成準備会に62名が出席したそうで、新潟地本の執行部が信頼できないと言う意見では一致したものの、どのような組合にするのかという点では意見がまとまら無かったと言われています。

何度か協議が重ねられた結果、職能組合ではなく新潟独自の組合を作ることを決定したそうです。その理由はあくまでも。国労新潟地本の改革を狙ったものであり、国労新潟地本の執行役員を入れ換えることが主な目的とされたためであったとされています。

その辺を再び、国鉄民主化への道から当該部分を引用させていただきます。

新潟だけで別の組合をつくることになった。その理由は、「共産・革同派に振り回されている国労新潟地本を”革正"するのが目的であるから、新組合が多数になったら国労に復帰しても良い、という態度・・・・つまり、国労本部支持、新潟地本否認という態度である。国労本部の進み方を非難して脱退した職能別組合とは、考え方が違っている」と言うわけだ。

と有るように、あくまでも新潟地本が、共産党や革同により執行部が抑えられていることへの不満の表れであったわけです。

結成準備会のメンバーは、総評事務局長の岩井章や、国労出身の参議院議員大和与一
中村正夫 国労書記長の野々山一三 等と面談して新組合結成について相談したと書かれています。

国労としては、結成準備会のメンバーであった赤津友三郎のこうした活動に対して、厳しい批判の目を向けていたそうで、国労新潟地本の「闘争日報」で以下のように書かれていたとされています。

再び、国鉄民主化への道から当該部分を引用させていただこうと思います。

地本の分裂をはかるためには手段を選ばなくなった赤津氏は、常軌を逸脱した行動に出ている。社会党員という肩書きを使って、三宅氏を介し社会党労働部長大和与一氏にあい、対中闘会談の機会を極めて政治的なものとした赤津氏は、19日上京し、野々山書記長に会い、笑止にも、地本と中闘・総評の固い団結にひびを入れようという、分裂主義の本領を遺憾なく発揮した。

といっている、意味がよくわからない文章だが、新潟地本は、赤津が総評や国労の幹部と会ったのは知っていたわけだ。

国労の新潟地本にしてみれば、組合が割れることは好ましくないこともあったと言えそうですが、常に監視はしていたと言うことになりそうです。

新組合には、国労新潟地本から約半数近くが集結

当時の様子を、国鉄部内紙、国鉄線昭和33年9月号の「新潟地方の実態を聞く

という座談会で、以下のように興味ある記事を見つけることが出来ました。

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記録的な記事ですので少し長いですが、引用してみたいと思います。

労使関係も円満に

司会 最後に、新潟は労働問題で去年の夏あたり天下に雄名を馳せましたが、その後の情勢についてお話し願えませんか。
豊島  うちの組合は革同*1に支配されていて、一にも二にも闘争主義で進んで来たのが実際の姿です。昨年七月までは処分はあったけれど、解雇は出ていませんでした。そういったこともあって、一般の組合員は組合の指導者に追随していたというのが実情でしょう。これが去年の新潟闘争によって大きな痛手を受けた。組合側の犠牲も解雇だけで20数名にのぼり、その後は非常に批判的になって来たのです。
 いま一つは、処分だけでなしに世論の支持を失った。いわゆる新潟闘争のときは100本の列車のうち10本位が運休し、遅延は3O分から6時聞にも上りました。通勤客に例をとると、お客さんは仕事が終って空腹と疲労で早く家に帰りたいと駅に来るのに、汽車が出ないのは闘争のためだというので、世論と当局と両方から反撃を受けた上に、大処分を受けて、これが良識ある組合員の批判となって現われたのが昨年9月1日の新地労*2という第二組合の誕生です。これが1万4000名の組合員のうち、現在3000名を超えて います。私の駅でも5割5分から6割近くがこの批判組合に入っています。

注:豊島氏は、当時新潟駅駅長

新潟地方の実態を聞く

ということで、昭和32年9月1日に上記に書かれていますように、新組合「新潟地方労働組合(以下「新地労」と略す)」が発足しており、国労組合員が徐々に、新組合に移行していることがうかがえます。

ここで赤津氏は、新組合が過半数を獲得したら、国労に復帰するとしていたわけですが、徐々にその勢力を伸ばして、昭和34年9月頃には、新潟管内の約半分は新組合が獲得していました。
実は、この年に国労書記長山田耻目は、前書記長の野々山からの引き継ぎで、新組合の赤津氏と交わした引き継ぎ事項の「新地労が過半数になったら国労に復帰すると言っていた、折衝すること」という項目があり、この折衝のため赤津氏らと面談していますが、その面談は結果的にはご破算で終わることになりました。

それは、単純に復帰ではなく、新潟地本の看板を革同中心の現執行部から、「新地労」に移せという旨の発言をしたからでした。

国鉄民主化の道では、以下のように語られています。

山田との会談で、赤津が「共産党を除いて、国労新潟地方本部の看板をこちらへよこせば、明日にでも復帰する」と言ったという。新地労を国労地本と認め、これまでの地本を否定するなどと言うことは、山田にとっては、もちろんできない相談だった。

こうして、当時の国労書記長と会談したそうですが、その会談で、新組合に「共産党を排除して、国労地方本部の看板をよこせば明日にでも国労に復帰する」と言ったそうですが、当然のことながら

少なくとも、こうした発言が本気で国労に戻る気が合って言ったのか否かは、今後更に補強すべき資料を探す必要がありますが、少なくとも革同・共産党派に押さえつけられていた新地労を結成したメンバーにしてみれば、かなり本気で迫ったことであろうことは間違いないかと思います。
しかし、この頃の国労の運動は更に過激さを増しており、民同右派は主流派から追いやられ、解雇者が三役を務めるなど、益々先鋭化していくなかで、現新潟地本の組合員を切捨てる形になるような方法は当然のことながらできない相談だと突っぱねるしかなかったと言えそうです。

 

なお、新潟闘争に関しては国労の資料なども参照していますが、よほど都合が悪かったと見えて、国労四〇年史では殆ど語られて居らず、今後更に他の資料で補強していく予定としております。

 

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*1:国鉄労働組合革新同志会共産党とは距離多くが共闘を否定しないグループ

*2:新潟地方労働組合

支社制度、具体的な取り組みを四国支社に見る【国鉄当局部内紙から参照】

鉄労視点と言いながら、今回は当局の支社制度設定の狙いなどを当時の資料を参照しながらご覧いただこうと思います。

 

本社の権限を降ろして支社で自発的な行動を期待

国鉄の制度が改革されて、支社制度が発足したのは昭和32年1月16日ですが、発足は、本社が権限を集中させてしまって全体が見えなくなっている事への反省もありました、そこで支社に権限を委譲させて、本社は企画部門などを中心にしていく方向性が示された訳で、昭和32年12月には公共企業体審議会が、「現行の支社制度を強化徹底し、独立採算制に近づける」ことを答申し、最近、産業計画会議は、「現在の国鉄は経営単位が過大なため中央の意思が末端にまで行き届かず、かつ、現在のような全国的プール計算では、経営努力によって黒字となりう る路線の赤字に対しでも経営者は不感症となり、赤字経営の原因も責任も不明確となるから、 事業の円滑な る運営を期待するためには、特殊会社による国鉄の分割経営を 行う」ことを勧告した。

産業計画会議 国鉄は根本的整備が必要である から抜粋

産業計画会議 国鉄は根本的整備が必要である から抜粋

とされており、国鉄という組織に対して、GHQの頃には、足下に置いておきたいとして、官僚制を温存させたものの、ここに来て公社は独立採算制を意識させたり、産業計画会議のように、国鉄を場合によっては特殊会社による分割せよと踏み込んでいます。

こうした背景もあり、国鉄本社の権限を降ろして、本社はスタッフとしていわゆる戦略を練る参謀として、支社を地域の実情に応じた地域会社としての機能を期待したもので、昭和32年の発足後も何回かにわたって、その権限が支社に降ろされることになりました。

支社による積極的経営を期待

支社制度の発足で、支社長の権限が拡大することとなり、人事権の拡大や工事費予算などの決裁も、3,000万円以下(現在であれば概ね3億円)の工事を計画し、施工することができるとされるなどとなっています。
当然のことながら、そうした権限があると言うことは、その責任もあると言うことになるのですが、どうしても上意下達が当たり前になっている官僚組織としての国鉄では、その辺がうまく機能していなかったきらいもあったように見えます。

最も、四国のように関西支社から分離した四国支社のように比較的小さな組織であったことから、支社と管理局が一体となることから、独自に経営改善計画を策定して、大きな改善を図り、業務の改善を図ったとされています。

以下にその概要を、箇条書きで書いてみたいと思います。

 旅客車について

  • 大量のディーゼル・カーを一挙に投入して、全線のDC化・無煙化を図る
  • 気動車の特性を生かして小単位の列車を可能な限り頻発
  • スピード・アップと準急の増発を行って輸送の近代化を図る
  • 中間簡易駅を増設して、速くて、安くて、待たずに乗れるをモットーに改善計画を推し進める

 貨物輸送について

  • 車扱貨物取扱駅の廃止を断行して一七二の貨物取扱駅を概ね三分の一程度の中心駅に集約、貨物列車のスピード・アップを図ると共に車両の生み出し、貨物の速達を企画
  • 集約駅の貨物設備改善計画を積極的に推進
  • 新鋭連絡船の建造を計画

最後の新造船の計画は、本社での決定事項となると思うので、本社への具体的計画という意味合いと理解しています。

 参考資料として

 更にこの辺を以下の国鉄線という雑誌にその当時の取り組みが書かれていましたので、併せて参照してみたいと思います。

一部抜粋して見たいと思います。

 四国支社では昨年の九月「四国鉄道の経営改善」を企画され、支社長みずから改善計画についての詳細な説明に当られ、本社としても斜陽化しつつある四国の鉄道を救う手段として、その方向はまことに尤もであるということで、方針的にも又ある程度予算的にもこれを了承することになったわけです。そこで支社では輸送改普、経営改善の実施に踏み切られて、徳島県を手始めとして既に数線にわたって実績をあげておられますし、また今後も引きつづき線区ごとの改善を実施して行かれるように伺っております。

 中略

まず最初に、終始この仕事に関係してこられた企画室長さんから大体の経緯を御説明願います。
瀬戸 四国は御承知のように地勢的にいろいろ不利な条件におかれておりまして、船舶、自動車、さらに最近では航空機などの交通機関にだんだん蚕食され、まさに救いがたい状態・・・言うなれば亡び行く斜陽鉄道の縮図といったようなありさまです。従って経営面も、33年度におきまして46億円の純収入をあげるのに74億円の経費を費やし、差引28億円の赤字を出しております。そういう状態のもとに、昨年4月支社が発足しまして、これを契機に従来の情性と依存性を一切断ち切り、支社だけの自主独立によって、この倒産しかかった四国の鉄道を建て直そうじゃないかということになったのです。建て直し策の骨子は、客貨の輸送方式を抜本的に改善して、近代社会に即応するサービスを提供するということで、そのために旅客輸送ではディーゼル化による思い切ったスピーディなフリーケント・サービスを行い、貨物輸送では車扱の集約と設備改替をして増収をはかっていこう、また内部的には経費を節約し、企業意欲に燃えた運営をしていこうということでありました。そうすれば、斜陽化のどん底にあえぐ四国の鉄道を再建することは決して不可能ではないという信念のもとに、支社発足直後の昨年五月、旧四鉄局時代の無煙化促進委員会を発展的に解消して、輸送近代化委員会というものをつくり、ディーゼル化、貨物輸送の近代化、輸送施設の精強と近代化、れから水陸連絡輸送の近代化、さらに保守修繕の合理化などを総合する具体的な愉送改善案を練りました

四国支社発足

国鉄昭和35年9月号

 四国支社は、元々は関西支社から分離したものですが、四国鉄道管理局と支社が一体化したので、より意思決定は早かったと思われます。
また、すでにまだまだ自動車道などが完成していない時期にあって、すでに厳しい状態であったことが新ためてうかがえます。

四国は、支社制度廃止後は四国総局として、独自の施策を行っており、すでに合理化などもある程度まで進めていましたから、九州・北海道で問題となった余剰人員問題もほおこらず一部、不採用があったようですが、希望した職員は殆ど採用されたと聞いています。

 

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国鉄における支社制度発足

国鉄発足と鉄道局の改編

この制度が発足する以前は、鉄道局に代わるものとして、地方機関を統括する制度として昭和25(1950)年8月1日に

国鉄発足直後の管理体制,国鉄,管理体制

国鉄発足直後の管理体制

この改正は、GHQの意向によるもので、経理と営業部門が本社直轄となっていました。
天王寺鉄道管理局50年史によりますと、元々天王寺管理部が改組して、天王寺鉄道管理局になったそうです。
管理局の仕事は、輸送および車両、施設の保守等の内面的業務の管理が中心で、運賃料金制度の確立や経理事務などは別途、営業事務所・経理事務所で行われることとなっていたそうです。

鉄道管理局(占領軍時代)

鉄道管理局(占領軍時代)

総支配人制度発足

その後、改めて講和条約発効後の昭和27年8月、改めて機構改革が進められ、営業および経理事務所が廃止され、管理局に統合されることとなるとともに、総支配人制度を発足させたと言われています。

地方運輸支配人地方営業支配人を設置
運輸支配人→社運輸総支配人直属で管内の鉄道管理局
営業支配人→本社営業局長直属で管内の地方営業事務所(営業の間接部門)

さらに、本社経理局長直属の地方経理事務所、本社資材局長直属の地方資材事務所、本社自動車局長直属の地方自動車事務所がそれぞれ誕生して、総支配人制度化では以下のような階層になっていました。

 

総支配人制度

総支配人制度

 しかし、総支配人制度で営業部門を統括したとは言え、制度が必ずしも国鉄の実情に合っていないとして、日本国有鉄道経営調査会の答申で、その権限を委譲させるために、支社制度を発足させることとしたのでした。

 

支社制度発足

総支配人をそのまま支社に置き換えた形となり、当初は6つの支社に分かれていました。【西部は、広島・九州全域】・関西支社【近畿・鳥取・島根・四国】が管轄となっていました。
下記の画像は、さらに九州・四国・新潟が分離した9支社時代の図になります。


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支社制度の一番大きな点は、本社から支社に権限が委譲されていたことでした。
組合の話題から外れますが、管理局と支社の関係についてお話をさせていただきました。

 

長々と鉄労視点で、この支社制度をお話申し上げたのかと申し上げますと、国鉄改革が叫ばれ出した当時の鉄労の意識したのはこうした支社制度であったと解釈しています。
支社制度をさらに権限を委譲して、深度化していくことを目指していたわけで当初から分割民営化を狙っていたわけではありませんでした。
ただ、マスコミなどが分割民営化に賛成なのかというニュアンスでとられてしまってそのまま引きずられていったというのがより正しいのではないかと考えています。

というのも、再建監理委員会も分割民営化に際して、参考にしたのが同じく、この支社制度であったからです。

現在の6分割の旅客会社と9分割されている支社の割り振りを見てた抱ければ共通点が見えてくると思うのですが、九州支社・四国支社・北海道支社は言うに及ばず、関東・東北・新潟が一体でJR東日本を構成し、中部支社の【金沢鉄道管理局】部分を西日本にくっつけたのが、現在のJR西日本に,さらに残りの部分がJR東海と言うことになります。

 

再建監理委員会も、鉄労も同じ制度の地図を見て、方や分圧民営化ありきであったので、分割した民間会社として考え、鉄労は分社化【必ずしも分割という意味ではなく、現在のホールディングス的な事を考えていたと思われます、ただし、当時の法令では独占禁止法の関係で持ち株会社が認められていなかったこともあり、分社=分割となってしまうため、どの辺が鉄労はトーンダウンしてしまったのではないかと解釈しています。

鉄労も、分割民営化までは当初から望んでいなかったというのが私の見解です。

 

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国労大会の模様から

いつもは、「国鉄民主化への道」から、アップさせていただくのですが、今回は少し毛色を変えて、国鉄部内紙(国有鉄道 昭和31年10月号)の記事「国労大会」から見ていこうと思います。
当時、機関車労組は、国労から分裂していましたが、まだ鉄労は誕生しておりませんが、翌年の新潟闘争の引き金となった、「白新線要員闘争」や、西宇部闘争(後述)に対して、国労の中で、闘いが中途半端でなかったのかという批判が出たりしています。

新潟闘争勃発前の話

話は前後するのですが、今回は初めての春闘後の動きとして、昭和31年に実施された国労大会の様子からお話しをさせていただこうと思います。

新潟及び広島の代議員から、春闘に対する批判が出ていましたが全体的には落ち着いた大会で会ったと記録されています。

ただ、新潟・広島の代議員からの批判が大きかったと書きましたが、この二つの拠点は革同派*1共産党の強い地域であり、国鉄本社でも注目していたそうです。

特に、この二つの地本が、春闘と関連して問題行動を起こすこととなります。

新潟は、白新線要員闘争として、当局と対立したもので、新潟闘争の伏線となった争いと言えるものでした。

そして、もう一つは、広島地本厚狭支部による山猫ストでした。

厚狭支部山猫ストは後ほど詳述しますが、厚狭支部に押し切られる形で本社が追認する形となり、翌年の新潟闘争では本部は地本の動きに同調することはなかったのですが、この頃から、本部も拠点における革同派や共産党派との距離を置くようになっていたと思われます。

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日本国有鉄道 昭和31年10月号

国労内で過激な運動を見せる、革同派や共産党

当時の国労大会の様子を国有鉄道 昭和31年10月号から引用したいと思います。

国鉄労組は、8月13日から18日まで6日間、伊勢市で、第15回定期全国大会を開催した。大会の主要議題は、役員改選、運動方針、賃金方針並びに業務方針の決定及び規約の改正であったが、大会の論議は、全会期を通じて、比較的低調であつた。
 広島、新潟等の代議員が、春季闘争、夏季闘争の妥結に際して、その妥結の条件があいまいであり、特にベース・アップの間題が明らかにされていない、春闘では、まだ戦う余力があったのに、なぜ打切ったのか、と云った批判西宇部白新線の闘争等に対し、本部の指導性が足りなかったために、全国的な闘争に盛り上げることが出来ず、あのような結末に終った、と云う批判等があり、夏季闘争と選挙闘争との混同等が指摘されたが、白熱的な論議がなされる、と云う乙ともなく、執行部の答弁に強い反論も行われなかった。

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ここで、春闘自体が中途半端に終わったと指摘しているわけですが、確かに調停案にに則り国鉄だけが先駆けて妥結した事へに対して、マスコミなどからは逆に批判されることになっているように、より左傾的組合からすれば不十分と感じたと言えそうです。

西宇部白新線の闘争とは?

西宇部白新線の闘争に関しては、白新線の闘争は、直接その後の新潟闘争への引き金となりましたので、下記のとおり弊ブログに詳細を書いていますので、改めて参照していただければと思いますが、概略を申し上げると、白新線というバイパス線が開通するにあたり。当局が算定した要員に対して組合側の要求する要員が過大(当局は68人、組合側は94人)であり、当局が譲歩して71人としたが納得せず、順法闘争や開通式典で組合が乱入したといった事例であり、最終的に要員が不足すれば再考するということで妥結することとなりました。共産党が背後にあり、人民闘争にさせないためにも、厳しい処分を科したかったものの、本社は「きつい処分をしない」という温情主義を示しました。

その結果、国労新潟地本は更に増長することとなり、その後の新潟闘争の伏線となるのでした。

blackcat-kat.hateblo.jp

西宇部闘争とは

昭和31年6月6日に行なわれた山猫スト労働組合の組合員の一部集団によって行われ、組合所定機関の承認を得ることなく独自に為されるストライキのこと)で、完全に組合管理の様相となり、宇部線小野田線が完全マヒ状態になってしまいました。

当時のヘビーユーザーである、宇部興産小野田セメント、日産化学、宇部ソーダ等の荷主からなんとかしてくれという苦情が本社に入ったそうです。

余談ですが。宇部興産の専用道路が建設される背景にはこうしたストライキが直接の原因であった事はよく知られた事実です。

このストライキも、元々は山猫ストですので、当然のことながら国労本部がうかがい知らないストでした。当時は現在のようなネット社会ではなく、地方の紛争であり東京の新聞は黙殺していたので、国労本部でもその実態は掴めていなかったそうです。

結局、広島地本からの要請で、国労本部が「闘争指令」を出したのは、上記の6月6日であり、闘争からすでに5日を経ていたのでした。

これには、国労も厚狭支部の闘争を山ネコストにしないための措置だったわけですが、その背景には情報の圧倒的不足と本部が介入することでなんとかしようとしたみたいです。

その辺を「国鉄民主化の道」から引用してみたいと思います。

31年6月6日に国鉄本社へ、「山陽本線の西宇部駅(現在の宇部駅)、小野田駅宇部港駅で職場闘争をしており 、宇部線小野田線が完全にマヒ状態になっている。なんとかしてくれ」と、両線沿線にある宇部興産小野田セメント・日産化学・宇部ソーダ等の荷主から、陳情してきた。山口県の一地方の紛争で、東京の新聞は黙殺していたので、国労本部さえも何が何だかよくわからなかった。

国労が広島地本からの要請で、「広島地本の厚狭支部の闘争を支持する」というような「闘争指令」をだしたのは、ストに入ってから5日目の6月6日になってからだ。厚狭支部の闘争を”山ネコ"にしないためと、本部が介入しないければ解決困難になってきたらしいので、"追認指令”をだしたわけだ。

国鉄民主化の道P237から引用

職制マヒ闘争で現場は疲弊していくことに

山猫ストとなれば、元々国鉄ストライキ自体が違法であるにも関わらず、さらなる違法状態になるわけですから、職員が解雇されても組合が守ることができないため、追認の指令を出すとともに、本部預かりすることで、組合員を守るとともに。早期の収集を図ろうとしたと考えられますが、結果的には首謀者である3駅(西宇部・小野田・宇部港)の組合員14名を懲戒免職、他減給44人、訓告95人の大量処分を発表したとされています。

最終的には、解雇者14名の内7名の処分を停職1年として、減らした連結手も1名減員するものの臨時補充員を1名入れると言うことで解決(実質的な当局側の譲歩)という形で収拾されましたが、このような当局側の温情主義と言いますか、譲歩が組合を更に増長させることとなり、前述の「西宇部白新線の闘争等に対し、本部の指導性が足りなかったために、全国的な闘争に盛り上げることが出来ず、あのような結末に終った」という発言に繋がったと言えそうです。

なお、宇部の闘争に関しては共産党白新線で行なった手法を取り入れたというか直接指導していたようで、職制をマヒさせる闘争であったことは明白であり、こうした職制マヒ闘争が昭和40年代には現場協議制に入っていくこととなるのですが、その辺は又後日詳細を明らかにしていきたいと思います。

 

続く

次回は、国鉄での支社制度発足について書かせていただきます。

 

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*1:(正式には、国鉄労働組合革新同志会 共産党とは距離を置きながらも共闘を否定しない社会党左派)

春闘のはじまり 第3話

久々に更新させていただきます。

今回も春闘の始まりと言うことで、国鉄民主化への道を底本にご覧頂こうと思います。

神武以来のストライキ

朝鮮動乱で、経済復興のきっかけを作った日本は、順調な経済発展を遂げ、家電製品の(電気洗濯機・電気冷蔵庫・テレビ)が「3種の神器」と言われ、昭和31年7月経済企画庁(当時の名称)から発表された第10回経済白書では、もはや戦後ではないとして高らかに謳っています。

戦後の一時期に比べれば、その欲望の熾烈さは明らかに減少した。もはや「戦後」ではない。我々はいまや異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる。そして近代化の進歩も速やかにしてかつ安定的な経済の成長によって初めて可能となるのである。

こうして、順調に発展する経済の中で総評は5波にわたる春闘スケジュールを策定したそうで、この闘争に国労も初めて参加することとなり、太田総評議長は、「春の闘争に,今年は国労も参加する。官民合同で、2・1ストを上回る大規模な統一闘争を展開する」と宣言したほか、「神武以来のストライキ」とぶち上げた。(いわゆる、太田ラッパ)を語ったと言われています。

よく戦後の歴史で言われる神武景気ですが、この言葉の発端は、太田薫であったと、自らの著書、「ひびけラッパ」で以下のように書いています。

引用してみたいと思います。

一番始めのラッパは、昭和31年、公労協が大挙して参加した春闘のときに、神武以来のストライキをやるといったことである。これが兜町だかジャーナリズムだかで取り上げられ、おりからの神武景気の枕言葉になったということである。

本人が言っているので間違い無いでしょうが、意外な人物が神武景気の名付け親になったと言えそうです。

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政府も積極的に介入するスト対策

総評の春闘の闘いに際して、それまでは、国労などに尻を叩く程度だった政府が積極的に労働問題で介入するようになってきたとされていますが、それは保革2大政党の誕誕生や、総評が太田・岩井体制が、従前の高野体制と比べて、自民党にとっては組みやすい相手であったという点があったそうです。以下国鉄民主化の時代から引用してみたいと思います。

政府の方も強硬な態度を見せた。今まで労働問題では、陰で国鉄当局などの尻を叩いている程度だったが、この年政府は、積極的に表面に出てきた。理由は、

  1. 前年の秋に、社会党が統一されたため。保革二大政党の対立という形になったこと。自社ともに意気込んでいたこと。
  2. この夏に参議院議員の改選があること【宣伝戦を展開、発信が派手になった。「今度の党争は、政党とジャーナリズムを大きくしていく」と、国労の幹部の中にも派手な発言を危惧する声が出ていた。「毎日新聞」の解説では、"掛け声党争"とからかっていた)。
  3. 労相が労働問題の権威と自認する前衆議院労働委員長の倉石忠雄だったこと。
  4. 政府・与党に"陽性"な太田・岩井の総評なら、同じ土俵で相撲が取れる、と言う気持ちもあったことなどである。

とあるように、自民党してみれば、新たな総評の体制に対しても万全の準備が出来たという意思表示とも取れたようでした。

その辺は、国有鉄道 昭和31年5月号春季闘争に当時の様子が出ていましたが、前述の通り、保守合同が行われたことで、日経連は、賃金の引き上げを抑えるため。公労協のベースアップ阻止を目指して、動き始めたところ、政府(自民党)も保守合同が行われたことから、公労協のベースアップ阻止に積極的に動くこととなったそうです。

国鉄の賃金アップはどうなった?

国鉄のベースアップは、国労が平均一二%(2000円)の賃金アップを要求して交渉が決裂昭和30年11月28日に調停申請、機関車労組も職種別賃金を獲得するとして2100円程度を要求して、12月7日に調停申請を行うことに。

その後、二ヶ月ほどはそのままとなり、昭和31年2月14日から23日間までの10日間、職場集会などで数本の列車が遅延した程度で有り、第二波は、2月28日から3月2日までの4日間、勤務時間に食い込む職場集会で、貨物列車が数本運休、旅客・貨物列車も約10本ほどが遅れたと記録されていますが。

この第二波が行われた時期になって、調停案が示されることとなりましたが、この調停案が物議を醸すこととなりました。

以下は、国鉄の部内紙国有鉄道の昭和31年5月号 春季闘争と言う記事の一部をキャプチャーしたものですが、総評に対して民間経営者が、極端な賃上げを阻止するため対抗しようとするのに対して、政府も公労協の値上げを阻止することで方針が一致、そこで二人三脚でその歩を進めようとする中で、国鉄が調停案を呑んで、妥結しようとしたことに対して、当局と組合が馴合をしているのではないか、悪い意味で国鉄一家なのではないかと政府からも批判されたと書かれています。

このときは、年末一時金として5000円の支給が、当時は世界的に経済はデフレ傾向と言われる時代で有ったことから経営者側は内部留保に努め、賃金の上昇には消極的であっただけに、国鉄だけが先駆けて妥結した事への違和感があったかと思います。

国鉄にしてみれば、年度末手当の前倒しで有ると判断しており、国労も調停案はベースアップを認めているので、5000円の支給は暫定措置だとして、妥結することとなったことが、馴合と思われたのだと弁明しています。

 

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 これにより、条件を付けて3月5日には国労と妥結、企労も「給与体系の専門委員会を設置する」と言う条件を付けて妥結しています。

このように、まだまだ当局なり現場での職場を管理者がコントロール出来ていたことは、良くも悪くも国鉄一家と呼ばれるような、職場体制があったことも注目しておくべきだと考えられます。

 

総評がぶち上げた「神武以来のストライキ」は、国鉄に関してはほぼ不発に終わり、この闘争による解雇者はおらず、最高で9ヶ月の減給処分だけでした。

 

その後も、国労は職場における職制と職員の分断をことあるごとに図っており、それが昭和40年頃の現場協議制へと繋がっていくことになります。

 

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社会統一と保守合同(番外編)

55年体制始まる

昭和30年(1955)は、政治にとって非常の興味深い年でもありました。

左派と右派で分裂の危機にあった、日本社会党保が再統一を図り、ともに保守政党である、自由党民主党が合同して、現在の自由民主党が誕生することとなりました。

これにより、保守党である、自由民主党は、憲法改正発議のギリギリの2/3弱を維持し、社会党が残り1/3(他に日本共産党、無所属など)による保守合同が実現した年でも有りました。

この体制は、「一と二分の一政党制」とも呼ばれたそうで、政権党である自民党憲法改正発議をするのは定数が足らず、社会党も1/3のため、政権を獲得することは出来ない万年野党という体制が固まったと言えるもので、政治的には安定するものの、こうした体制が長く続いたことが。現在における政治家の質の低下に繋がっているといえましょう。

日本社会党統一大会宣誓書

日本社会党統一大会宣誓書

引用 〔日本社会党統一大会宣誓書〕 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

自由民主党結成大会

自由民主党結成大会

画像 wikipedia 保守合同 - Wikipedia

 

日本社会党は、神田の共立講堂で10月13日に統一大会が開かれ、自由民主党は、遅れること約1ヶ月11月15日に東京神田の中央大学講堂で結党大会が開かれたそうです。

尚、これに先立ち日本社会党は、10月12日に解党大会をそれぞれ右派と左派で別々に開催しています。

こうして誕生した、55年体制は、自由民主党は万年与党としての地位を獲得する代わりに憲法改正の発議を行えず、社会党にしても万年野党となるものの、改憲を阻止できる抑止力なり、双方の思惑が一致したと言えます。

社会党保守合同の意義

社会党が分裂した背景には、サンフランシスコ講和条約を巡って全面講和を支持する左派社会党と、一部講和を認める右派との間で大きく意見が分かれたことが一番の原因でした。

元々社会党左派は、非共産党系の労農派マルクス主義を標榜する政治路線を目指したグループが中心で有り、共産党とは距離を置きつつ、社会主義社会を目指すとしていたのに対し、社会党右派は、議会制度の枠組みの中で、「富の再分配」による平等を目指す社会主義であり、社会党と名乗るもののより正確には中道と呼べるもので、社会主義革命などを一切指向していないという点が異なっていました。

社会党が合同を果たした理由は、米ソ冷戦による緊張の中で、全面講和を主張し、その後も『護憲と反安保』を掲げ米軍への基地提供や再軍備に対する反対運動を推進する社会党左派は、戦争の記憶が生々しい中にあっては、その存在意義を高めていくこととなりました。

その反面、議会制度の枠組みの中で、「富の再分配」による平等を目指すという、理想を目指す社会党右派は、議席の確保に苦労しており、保守政党が分裂(当時は前述の通り、自由党民主党に分裂していたことから、社会党が再統一することで政権を奪取できるという思惑が働いたからでした。

こうした実情に対して、財界からの要望や、社会党が統一したことを受けて自由党民主党が合同し、自由民主党が誕生することとなりました。

最後に、自由民主党のホームページ「自由民主党結成」の部分から引用させていただきます。

環境の中で、国民も政治家も、実に多くのことを体験し、学びました。そして、やがてその貴重な体験と反省の中から、わが国が真に議会制民主政治を確立して、政局を安定させ、経済の飛躍的発展と福祉国家の建設をはかるためには、自由民主主義勢力が大同団結し、一方、社会党も一本となって現実的な社会党に脱皮し、二大政党による健全な議会政治の発展をはかる以外にない、という強い要望が国民の間にも、政治家の間にも芽生えてきたのでした。

このような国民世論の強い要望と、自由民主主義政党内部での反省も加わって、「保守合同」への動きは、二十八年ごろから活発化したのですが、二十九年十一月の改進党と日本自由党の合同による「日本民主党」の結成を経て、三十年五月の民主・自由両党幹部会談、同年六月の鳩山民主・緒方自由両党総裁の党首会談から、本格的な自由民主勢力の合同への動きが始まったのです。

とくに、この鳩山・緒方会談は、「保守勢力を結集し、政局を安定させる」ことで意見の一致をみた歴史的な会談でした。

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春闘のはじまり 第2話

春闘のはじまり第2話として、今回も引き続き、鉄労の国鉄民主化への道を底本にして、ご覧いただこうと思います。

昭和30年、国鉄にとって大きな変換点

さて、春闘が始まった昭和30年、国鉄を取り巻く環境として、下記の通り二つの大きな出来事がありました。

です、生産性本部はご存じの通り後にマル生運動であり、生産性本部の指導の下、生産性運動が始まったことはご存じの通りです。

なお、十河総裁の就任は、長崎惣之助総裁が紫雲丸の沈没事故を受けて、辞表を提出したことを受けたもので、当初は、運輸大臣三木武夫が「国鉄の刷新と信用回復のため、有力な財界人を起用する」として、元東京銀行頭取の浜口雄彦浜口雄幸の長男)

濱口雄彦 元東京銀行頭取、元全国銀行協会連合会会長

濱口雄彦 元東京銀行頭取、元全国銀行協会連合会会長

に打診するも固辞され、最終的に、三木武吉鳩山一郎国鉄OBでもある、十河信二を推薦。結果的に十河が、「最後のご奉公と思い、線路を枕に討ち死する覚悟で引き受けた」と承諾したそうです。

三木武夫運輸相は、国鉄OBを採用しないと言ったのにということで、マスコミから厳しいところを突かれたと書いています。

二回の沈没事故の責任を負って辞任した、不運の長崎総裁

長崎総裁は桜木町事故の責任を負って辞任した、加賀山総裁の後を受けて、就任したものの、洞爺丸事故、更に紫雲丸事故と2回の重大海難事故に遭遇しています。
ただし、就任中には交流電化の推進や、非電化線区の気動車化等を推進するなど動力近代化等には尽力されています。

国鉄は発足当初から、波乱含みで総裁が任期まで続かないというジンクスがありました。

長崎惣之助総裁 紫雲丸の沈没事故の責任を負って辞任した

長崎惣之助総裁 紫雲丸の沈没事故の責任を負って辞任した

 

十河総裁誕生

十河総裁の誕生は、年齢的にも、就任の時点で71歳と高齢であったこと、(現在以上に、70歳という年齢は高齢であった)こと、さらに、「線路を枕に討ち死する覚悟」と言った談話は、時代錯誤であるとして、マスコミも冷ややかな眼で見ていたそうです。

十河総裁のユニークな視点というか時代を超越していたと思わせるのは、「組合を国鉄経営に参加させよう」と画策したことでした。

当然部内では反対をしたのですが、学者にも意見を聞こうと言うことで、石井照久や、大河内一男と言った学者にも意見を聞いたそうです。

結果としては、参加したとしても経営責任は負えないだろうとして、実現することはありませんでした。

その辺を、「国鉄民主化への道」から引用したいと思います。

十河は「この際、組合を国鉄経営に参加させ、責任の一端を担わせる必要がある。国鉄の最高意思決定機関である理事会に、組合の代表を加えてはどうか」と国鉄の幹部に提案したという。谷は

 この十河さんの余りにも進歩的な着想に、われわれは戸惑った。日本国 有鉄道の建前上認められないなどと抗弁しても、十河さんには通用しな い・・・中略・・・、大河内一男、石井照久等当代一流の学者にお越し をねがって、総裁を囲んで討議してもらった。結論は、組合が経営に対 して発言権を保持する事を希望しても経営の責任を分担する考えは無い だろうというところに落着いた。

 と書かれています。

結果的に、この問題はここで終わりとなりましたが、こうした考えに至った背景には、後藤新平が提唱した、国鉄大家族主義の考え方の則ったものであったようですが、戦後の国鉄の中では、むしろ組合は対立すべき存在となりつつ有り、十河総裁自身も考えを改めていくことになるのが、後述する、昭和32年3月23日に実施された、いわゆる「抜き打ちスト」であり、その流れを受けて、国労分割の元となる、新潟闘争に繋がっていくのでした。

国労内での熾烈な派閥抗争(都区に民同右派と左派)

国労では解雇されても再選されている三名の役員の処遇で揉めていました。

その三名のうち、横山書記長(民同左派)(横山利秋)は2月の総選挙で、愛知一区から出馬、衆議院に転出しており、更に、この度の総評事務局長に、岩井章(当時は国労企画部長)を立候補させることで国労内でも意見の統一がなされていませんでした。

そして、もう一人の解雇者、柴谷委員長(柴谷要)も、翌年の参議院選挙全国区に出馬する意欲を見せていました。

国労の内部でもその辺の葛藤と言いますか意見は分かれていたそうで、柴谷委員長を再選という方向もあるものの、民同右派(労使協調路線派)としては、柴谷委員長を参議院に送りだし、解雇されても再選している役員を排除したい民同右派の思惑も有り、しきりに働きかけたとされています。
この背景には、昭和29年5月12日に、「解雇者が再選の場合は組合を法外組合と認め、団体交渉等に応じないと国労に警告」したにも関わらず、国労が解雇者を役員として再任したことから、国労と当局の対立が激化したことが原因でした。

国労全国大会等開催 5/15

山形県上ノ山で、第十三回全国大会及び第三十六回中央委員会が開催され、29年度の運動方針として、業務方針や党幹部の決定を行った
運動方針は、不当処分の撤回、生活向上の闘争等五項目
国労は当局の警告にも関わらず、解雇された役員を再任したため、組合を法外組合と認め、団体交渉等に応じない事態となった

 国鉄があった時代 昭和29年前半

この昭和30年の国労大会では、革同派(国鉄労働組合革新同志会)が、「不当解雇反対のシンボルである柴谷委員長を再選させる」のが筋ではないかとして下記のような批判をしたと言います。「国鉄民主化の道から」引用したいと思います。

「横山書記長は既に衆議院に出てしまった。更に柴谷委員長を参議院に、岩井企画部長を総評に出すことは、失業対策では無いか。多くの解雇者を国労に残し、最高幹部は逃げていくのですか」という皮肉な演説もあった。

そうですが、これに関しては革同派の細井宗一が内部を抑えたようで、表面上は国労は一枚岩として新役員が選出されることとなった。
その背景には、下記のように国鉄当局が、組合役員の地位に関して、公共企業体労働関係法 第4条第三項による疑義を発したからでした。

すなわち、国鉄職員でないものが国労の役員に就任することは、公共企業体労働関係法から見ても違法で有り、違法状態の組合役員を擁する組合とは交渉なり便宜供与はできないとしたのでした。

 *1

  国鉄当局、被解雇者の組合役員再選を理由に団交拒否 5/27

解雇通告を受けた三役再選は適法と認め難いからその違法な状態を解消しない限り従来通りの労働関係を継続することは出来ないと正式通告
夏期手当問題その他について、国鉄労組から団体交渉の申入れをうけた国鉄当局は、組合幹部との会見に、被解題者を役員とする国鉄労組は法外組合である旨の正式通告を行い、かかる違法状態がつづく限り、団体交渉はもとより、組合に対する諸々の便宜の供与をとりやめることを伝えた

 こうした背景があったことから、国労としてはなんとしても、解雇役員が国労の幹部役員としていることを解消する事が目標でありました。

結局、最終日の7月20日に、国労は新役員として、下記の三名を選出することになりました。

この改選により、新執行部は下記の通りとなりました。

  • 委員長 小柳勇(民同左派、門司)
  • 副委員長 土門幸一(革同派 秋田)
  • 書記長 鈴木清(民同左派、東京)

であり、土門幸一は、解雇処分を受けていたが、再選させることで、民同左派が革同派を説得したそうです。新生民同派は、土門幸一だけは対立候補を立てるものの、民同左派のグループに圧される結果となり、昨年同様民同左派と革同派が支配する国労となりました。

 国労中央委員会役員選出 7/20

委員長に小柳勇、副委員長に土門幸一。書記長に鈴木清の各氏が当選。なお岩井企画部長を総評事務局長候補に推薦を決定した

 国鉄があった時代

国鉄当局でも、解雇処分を受けている土門幸一を役員にしたことについて、当局でも、正常化したか否かで議論があったそうですが、最終的には9月5日には、「努力が認められる」として翌6日、国労に対して、便宜供与復活など制式に団体交渉を行うことを通知しています。

 国労への便宜供与復活を通告 9/6

解雇役員問題に起因した国労を正式の相手としなかった国鉄当局は、方針を変更して、これまでのかたくなな態度を綬和、団交をおこなう事を決定、専従者に対する賃金の支給、組休及び定期組合費の賃金控除等の国労に対する便宜供与を旧にもどすことを組合側に通告

国鉄があった時代

 

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*1:第四条 職員は、組合を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる。但し、管理又は監督の地位にある者及び機密の事務を取扱う者は、組合を結成し、又はこれに加入することができない。

 2 省略

 3 公共企業体の職員でなければ、その公共企業体の職員の組合の組合員又はその役員となることができない。