日本国有鉄道労働運動史【鉄労視点】

日本国有鉄道労働運動史、鉄労視点で綴るblogです

新潟闘争とはどのような闘争だったのか 第三話

本日は、出張先から書いているため、十分な資料が手元にないことから、国鉄の部内紙等を参考に、新潟闘争について語ってみたいと思います。

元々は賃上げ闘争の問題から発生した歪みが、結果的にこれほど大きくなってしまったのはどうした理由からでしょうか。

新潟闘争がこれほど大きな闘争となった背景を考える

その一つには、組合と当局の対立があったことは言を待ちませんが、それ以外にも、地本と本部、もしくは、民同左派と革同との主導権争いといった派閥争いも原因の一つではないかと考えています。

国労は、3つのグループで構成されていた

国労は、民同左派・右派、革同、共産党で構成されていました

国労は3つのグループで構成されていた

国労という組織が、共産党系のグループ、共産党とは距離を置きながらも共闘を否定しない国鉄労働組合革新同志会(革同)、共産党には批判的な国鉄民主化同盟(民同)という3つのグループがありました。
さらに、国鉄民主化同盟が、右派と左派に分かれていました。

そして、新潟闘争の直接のきっかけを作ったのは、昭和31年3月23日に行われた、自然発生的なストライキでした。
弊サイト国鉄があった時代で、その時系列を追ってみたいと思います。

 国労春季闘争激化。第3波に入る。 3/11・12
岸総理と鈴木社会党委員長によるあっせんが行われるに至ったが、事態は好転せず

国労、午後2時から業績手当て問題で職場大会などの抜き打ちストを実施、運輸大臣の支給命令で5時に解除 3/23

この闘争に関しては、国労本部が指示を出したものではないものの、実質的には容認しており、国労50年史には下記のように書かれています。

三月一六日には、仲裁裁定の完全実施を要求する公労協の統一職場大会が計画されていたが、その前日、岸信介首相と鈴木茂三郎社会党委員長とのトップ会談で、政府が仲裁裁定の完全実施を約束したため、中止された。以降、完全実施が慣行化した。続いて計画されていた 最低賃金制を目指す国労のスト計画に対して、国鉄当局は業績手当の支給を中止するという措置で対抗した。憤激した組合員は三月二三日、自然発生的にストに入り、国労本部もこのストを公認した。いわゆる抜き打ちストであった。

とここまでは、国労も容認する抜き打ちストが行われたわけですが、このストに対して当局は700名以上の大量の処分を発令、解雇者も多数出すこととなりました。

これに対して、国労も反応し、国労では6月の国労大会で、処分反対闘争を賃上げや反合理化同様重要な闘争方針としました。

再び弊サイト国鉄があった時代を参照したいと思います。

 

国労処分反対闘争実施の計画を発表 4/10

国労では、中央委員会を開き、処分反対闘争を行うことを決定、不当処分が行われた場合は、その翌々日から直ちにに3月23日の抜打ち職場大会を上回る実力行使を展開するという方針をたて、公労脇も同調、総評も長期的反対闘争の勢態を整えることとしている

衆議院社会労働委員会では、公共企業体労働委員会 藤林、中山両委員を参考人として招致 4/20

裁定の内容について説明を聴取、藤林委員長が、1,200円まるまる増額するのが適当である旨の発言をめぐって、その態度が批判された他、松浦労相が春闘の責任者として40~18名の馘首、700名程度の戒告等の処分を用意している旨を発表し、政府、労使ともどもを混乱におとし入れる事態が発生

当局は春闘責任者28名の解雇、675名の停職減給を発表 5/8

国労、機旁の春闘に対する責任者の処分は28名の解雇、675名の停職減給などという未曾有の大処分となった、処分発表に当り、総裁は国鉄の使命と秩序維持のためにも処分を決定せざるを得なかった旨の声明を発表

春闘処分を巡って動き 5/11・12

国労・機労の春闘に対する責任者の処分は、28名の解雇、675名の停職・減給などという未曾有の大量処分となったが、組合はこの処分を不当とし、全国的に処分反対抗議闘争を展開し、また輸送に大きな支障を与えた

国労、処分に反対して、運転部門以外で半日職場大会を開催 6/4

国鉄当局、処分反対闘争の処分、解雇1人など発令 6/6

新潟地本、処分撤回職場集会で貨物71本運休 6/13

国労第16回定期大会開催、解雇三役を再選 6/22~6/27

 松山において国鉄労組の全国大会が開催された、結局、国民の信頼をかちえなけれぱならないこと、より姿勢を低くするとも、組合の統一ある行動は守られねばならぬことに結論を見出した
しかし、役員の改選に当っては、解雇された3役が再選されるという結果になり、今後団体交渉などについて再び問題を残すこととなり、その成行は注目される

以上、弊サイトから引用

国労は、世論も考慮し処分撤回闘争の中止方針を決断

これに対抗して、国労等は処分撤回闘争を行うも、当局は管理局単位での処分を展開するという泥沼に陥っていくのでした。

国労としては、これ以上の闘争は不利と判断して、国労第16回定期大会で、「より姿勢を低くするとも、組合の統一ある行動は守られねばならぬことに結論を見出した」とあるように、過激な戦いを避けようという方向性に進んでいくのですが、ここで注目していただきたいのが、6月4日の職場大会は、運転職場以外で開催したのに対して、新潟地本は13日に貨物71本を運休させる職場大会を開催したとしています。
国労大会の前とはいえ、概ねこの頃では本部の方針は決定しているでしょうから、そのように考えると、新潟地本の動きは突出していると言えます。

ここに、国労という組織の難しさが出てくるのでした。
国労という組織自体は、決して一枚岩ではなく、最初に記したように、大きく分けて三つのグループ、更に、その中で複数のグループに分裂していました。
新潟地本は、広島地本同様、革同の拠点であり国労本部としても、やっかいな存在であったと推測されます。
再び、国労の50年史を参照してみたいと思います。

国鉄本社は現地管理局に対し、一切の妥協をしてはならないと指示した。この動きとは別に警察当局が地本幹部を逮捕したことから再び組合員の抗議行動が強化された 。政府も、閣議国鉄当局の強硬方針を支持することを決定した。この局面で、国労本部は 、新潟闘争を全国化して全面的対決を強めるか、逆に実力闘争を中止するかの選択を迫られた。この選択は、新潟地本が革同系執行部の主導権元に有ったこともあり、53年以来、民同左派と革同の連合により比較的安定してきた中執の中で激しい論争が展開された。論議の結果は、戦術転換論が多数を占め新潟闘争は打ち切られた。総評首脳部も、この方針を支持し、8月の総評大会で収拾が確認された。この新潟闘争を契機に、第二組合が結成された。

国労に向けられる厳しい世論

ここにあるように、ここで国労は、革同の流れに沿って更に強力な新潟闘争を全国的なものとするのか、否かの選択を迫られますが、当時の陸上輸送は、鉄道が主体であり、世論は国鉄とりわけ、国鉄労働者には厳しい目を向けていました。

「迷惑するのはいつも国民だが、こんどの場合、農民と水産業者の闘争反対デモは圧巻だった。『少しばかり文化的な労働者だといって、同じ労働者のわれわれのクピをしめるつもりか。』とどなった声は、組合側にとっても泣きどころであったようだ。」(週刊読売8月4日号)

国鉄昭和32年10月号の記事から引用

国鉄線昭和32年10月号の記事から抜粋

国鉄線昭和32年10月号の記事から抜粋

国労執行部としては、革同の流れに乗りたくない、本部の威厳を守りたいといった気持ちもあったかと思います。
結果的に、国労本部預かりという形で収拾を図ったものの、新潟地本の中では燻ったものがあったのでしょう、それがその後の職能別組合の分離に繋がっていくのですが、そのあたりは改めて、次回以降に記述させていただきます。

  

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文責 加藤好啓

国鉄があった時代 JNR-era
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新潟闘争とはどのような闘争だったのか 第二話

本日も、国鉄労働運動史(鉄労視点)ということで、新潟闘争について鉄労の国鉄民主化への道を参照しながら、書かせていただこうと思います。

最初にいつも申し上げていることですが、鉄労に肩入れするとか、国労に肩入れすると言うことではなく、事実に基づき淡々とその事実そして中立的視点から見た場合の感想を書くに留めておき

新潟闘争に関しては、当時の資料【国鉄線】なども参照しているのですが、いかんせん60年以上前の話であり、私自身が生まれる前の出来事ですので、資料による検証に留まってしまうのですが、出来る限り整理してアップさせていただきます。

新潟闘争では、ゲリラ戦術【スターマイン職場集会が初めて導入された】

今回の新潟闘争の発端は、前回も書きましたが。新潟地本の委員長であった、中村満夫氏と、同地本の執行委員長佐藤昭二氏の2名であり、佐藤昭二氏は、今回の事件で宮内駅に軟禁された、越後滝谷駅駅長中島忠蔵氏の部下でした。

実は、この解雇された部下が、その後駅長並びに家族を脅す事件も起こしており【後述】ました、今回も新潟闘争に関する話を続けさせていただこうと思います。

前回は、下記の記述で終わっていたかと思います。

 その際、闘争に指定された場所は下記のとおりでした。
 新潟・新津・酒田・吉田・小出・柏崎・直江津各駅と長岡操車場です。

 しかし、これはあくまでも当局の目をくらますおとりであったことが当日になって判明、ゲリラ作戦により現場は大混乱となってしまったとされています。

国労新潟地本は、上記のように複数の拠点で職場大会を開催するという指示を出しました。
職場大会ですから、当然のことながら職場放棄と言うことになりその間、業務は停滞することになります。

当局は事前情報に基づき、要員を配置するも空振りに

そこで、当局側としても事前に職場大会が予定されている主要駅に、助勤者(中間駅の助役や駅長)130人を、予定されている主要駅などに配置したそうです。

しかし、これは新潟地本の陽動作戦であり、新潟地本は、ゲリラ戦術で当局の目を欺いたのです。

ゲリラ戦術は、新潟地本が初めてであったそうで、職場大会に指定された主要駅では何も起こらず、逆に管理職を引き上げられた中間駅が狙われることになりました。

狙われたのは中間の有人駅

当然のことながら、主要駅に中間駅の駅長や助役が留守の責任者(当務駅長)は予備助役等であり、いわゆる中間管理職であり、組合員でした。
こうした中間駅に、真夜中に四,五人の組合活動家が現れて、職場大会を開き、助役等が不在の中間駅に押しかけて駅員を強制的にタクシーやバスで連れ去ってしまって駅を無人にすると言ったことが行われたそうです。
また。当務駅長が助役など非組合員である場合は実力行使として、信号扱いてこ等の作業の邪魔をしたと記録されています。
当時は自動信号化ではなく、単線区間も多く、列車を出そうとしても相手方の駅からの応答が全くないため、相手方の駅に行ってみますと、組合の活動家が逃げた後であったりと言うことが多々あったそうです。
ちなみに、当時のタブレット閉塞の場合は、双方の駅で専用電話を使って連絡を取り合い、信号てこを操作、タブレット閉塞機と呼ばれる機械から通票を取り出して、通票を取り出すことになるのですが、電話に出させないようにまた、タブレット閉塞機の操作をさせないように妨害して列車の出発をさせなかったのとして、
移動職場大会が開催され、中間駅に立ち寄り、組合員をバスに無理矢理乗せてバスの中で逃走の経過報告などを行い、その後就業させたそうです、ただこの闘いは、闘争が激しくなるとそのまま旅館に収容してしまったとも書かれています。
他にも、機動職場大会と呼ばれるものもあり、これは活動家が列車に乗り込み、駅毎に下車して運転扱いを阻止しつつ、組合員を集めて報告会を開くというもので、同じように次の停車駅で駅員配置が為されている駅で同じように駅員に対して職場大会を開くといった具合で、列車そのものを遅延させていくと言う業務妨害を行ったりしたそうです。
他にも、貨物列車に活動家が乗り込んできて、車掌を連れ去ったりということで、当局は手の着けようがなく、結局旅客列車8本、貨物列車に至っては31本が運休することとなり、全列車が遅延することとなりました。

警察の介入を要請した新潟鉄道管理局

これに対して、新潟局は警察力の導入を要請して、最悪の場合公安だけで対応できませんので、警察力の介入を要請

国労新潟地本は当局の行動に危機感を抱き、無期限闘争の許可を求めたとされています。
この辺の事情を、国鉄民主化の道から引用させていただこうと思います。

7月11日
新鉄局長の河村勝は、11日の午前、県警本部長の中野をたずね、闘争の模様を説明し、最悪の事態が起こった場合の応援を依頼した。このような河村の動きを知った新潟地本は、国労本部に、「局長が県警本部へ最悪の場合警察力行使を要請したことは、闘争を中止すれば、直ちに処分が行われる。無期限闘争を許可してほしい」と要請した。国労本部は筋の通らない理由だと言って許可せず、「新潟地本は12日から、当分の間、各支部一カ所ずつの職場を指定し、朝6時から夕6時までの間、一時間の職場大会、順法闘争を行うこと」と戦線縮小を指令した

引用終わり

ここで、新潟地本は共産党が強く、国労本部は民同左派と右派が存在しており、必ずしも国労新潟地本にしてみれば、国労本部は頼りになる存在ではなかったという事の注目していただきたいと思います。
さらに、国労本部は最終的には新潟闘争を収拾させるために、権限を全て中央に引き上げさせるており、新潟地本レベルでの解決を拒否しています。
この辺も、新潟闘争を見ていく上で重要なキーポイントになるかと思います。

姉妹blogである、日本国有鉄道労働運動史を参照しましたが、国労にしてみれば新潟闘争は余り触れられたくないのか、国労史には余り詳しく触れられていません、ただ国労にしてみれば何も得ることが殆どなかった、闘争であったことは間違いなかったかと思います。

駅長への暴行事件が発生

さらに、この7月11日の夜には、前述の越後滝谷駅に勤務していた元駅員が駅長を脅す事件がおこります。

同駅駅長が代務車掌として乗務しようとしたのを阻止して、宮内駅の詰め所に軟禁したことで、解雇された佐藤昭二他四人の組合幹部が駅にハイヤーで乗り付け、約一時間に亘って駅長とその家族を脅した事件が発生しました。

鉄労の記述では、事務室から引きずり出す暴力行為が有ったとされていますが、この点に関しては、国鉄線(国鉄部内紙)の昭和32年12月号、窓辺のひとときというコラムでその一部始終が書かれていました。

国労新潟地本の言い分では、暴力行為はなく、和気藹々とした雰囲気の中で話し合いが行われたとし、また駅近くの官舎に住む奥さんに対する強迫行為も、佐藤氏が解雇されたことについて、上申書を見せてもらうように誠意を尽くしてお願いしたと記していますが、実際には駅長に対しても、又奥さんに対しても、最初は職場のことは判りませんからと最初は断ったにも関わらず、再び官舎に来たため、身の危険を感じて駅に向かったとされています。
更に、その報を受けて長男が父母の身を案じて、約一kmの道のりを駐在所に赴き救いを求めに言ったとも記述されています。

全文引用するわけにもいきませんので、当該部分のみを一部引用させていただきます。

組合側の言い分

第一点の暴力を働いた云々については、五名の諸君は一中島駅長に対して問題の「上申書」の内容を見せるよう要求をした。しかし中島駅長は見せないばかりか、きわめてゴウマンな態度を示したので、その瞬間的な場面においては、かなり大声をはり上げたとは事実である。しかしいわれているようなひどい言葉遣いはしていないし、富岡氏が手をネジ上げたなどということも全くのデタラメである、ただその時にたまたまお客さんが一人いたので駅長の了解を求めて、ホームまで出てもらった。それからは駅長も含めてみんなが車座になって駅長のオゴリでだされた菓子をつまみながら、いとも和気靄々たる雰囲気の中に話し合いをつづけていたのであって、決して、脅迫、暴力に価する言動のなかったことはこの情景によってもはっきりしているところである、
第二点の駅長夫人つるし上げ事件であるが、中島駅長に対して「上申書」の内容を見せるよう要求したが、見せてくれそうもないので、佐藤氏の場合、越後滝谷駅の職員であるし、従って駅長以下職員とも同僚の間柄であり、もちろん夫人もよく知っていた。そこで夫人に頼んで駅長に進言してもらったら、或は見せてくれるかも知れんという淡い希望をもって、佐藤、富岡両氏が官舎に行き、夫人がまだ起きていたので、事情を話してていねいに頼んだのである。夫人も「私もうちの息子がある会社を首になった経験がありますので、佐藤さんの首を切られた御気持はよくわかります」と同情し、心よく引きうけて駅へきたのである

 組合側としては、誠意を持って対応したと取れる発言をしています。

それに対して、当事者である駅長は下記のとおり証言しています。

中島駅長の証言

三時七分、長岡上り最終列車の取扱をし、次の上下列車に対する運行情況を聞いたところ、闘争による遅延のため当分列車もなく、業務も一段落したので、起番の駅員一名(三名は休養中)に来訪の弘済会職員一名の三一名で卓を囲み、菓子を食べながら雑談をした。間もなく一台のハイヤーが来た。私は十日、十一日と早朝二日間にわたり、やられたので、長岡公安室よりあらかじめ応援に来たのではないかと思い立上り窓越しに見たところ、佐藤昭二君の姿が見えたので又かと思い、そのまま腰掛に腰を下ろした。
佐藤昭二に続いて、富岡泰治氏と待合室改札口より事務室に、しかも先頭の佐藤氏は一言の挨拶もなく無言のまま入り、富岡氏は事務室入口より「オイ!コラ!駅長、貴様の上申書によって佐藤昭二は首になった。オメオメと駅長づらをして赤い帽子をかぶっていやがる」深夜寒村の駅舎も割れんばかりの大声でどなり、暴力をもって私の左手をいきなり引張った。私が立上るや続いて右手も引張り、そして小突くように強引に入口の方に連行された。
私「何も暴力に訴えなくても話をしようじゃないか。」
富岡「貴様部下を首にしていながら、よくも駅長だなどとどの面下げて言われるか。今日は貴様をやってつけやるから来い。」と踏張る私を、今度は右手を内側にねじり、事務室の外の廊下に引張りだし、更に、「おれは東京の魚河岸に勤めていた事もある。命は惜しくない。貴様らの二人や三人刺すのは朝めし前だ」とどなり、待合室中央まで引張り出し、更に胸倉をとり小突きながら、「向うの田んぼのふちで貴様の命のやりとりをするから来い」とおどかされた。

中略

最初佐藤、富岡の両氏が駅より約八十米離れている私の宿舎を訪れ、先ず富岡氏が「この度駅長の上申書によって佐藤昭二は首になった。駅長の家族としてこれをどう思いますか。この件につき後で後悔されてを困るから駅に来てぐれ」と荒々しい言葉で言われたのであるが、家内は深夜の来訪に恐ろしくなり、「職場の事は何も分りませんから行きません」とはっきり断った。五分位すると更に富岡、桑原の両氏が再び訪れ、前記のような事で呼出しに来た。家内も子供も、若し二度も断れば、どんな仕返しをうけるか知れないと思い、又、家内は私の身を案じ、止むなく呼出されて来たのであった。私の長男は、父や母の身を案じ、田んぼの畦道を彼等に気付かれない様に約1km余の駐在巡査に救を求めに走行した

 と証言しています。

新潟闘争、中島駅長証言 昭和32年国鉄線12月号から引用

新潟闘争、中島駅長証言

当然のことながら、この件では、警察が入ったとされました。

また。11日の職場集会は、結局46カ所で行われ、旅客列車14本、貨物列車64本が運休することとなりました。

更に新潟闘争は続くのですが、長くなりそうなので、続きは又別の機会にさせていただきます。

 

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新潟闘争とはどのような闘争だったのか 第一話

 

いよいよ、今回から鉄労の本を参照しながら、新潟闘争以降の動きを見ていきたいと思います。
今回参考にさせていただくのは、鉄労友愛会議編纂の、国鉄民主化への道という書籍からになります。
Facebookのお友達の方から、国有鉄道史を研究されているのであれば、参考になるのではないかと譲っていただいた一冊であり、鉄労関係の本は余りで回っていないだけに大変貴重な一冊であります。
また、お陰様で更に国鉄歴史の研究に弾みがついたことも事実であります。
本当に個々頃より感謝いたします。

それでは、さっそく鉄労の母体となったとも言える新潟地方労働組合のお話をはじめさせていただきます。

新潟闘争の発端は、地本委員長の解雇から始まった

新潟闘争の発端は、国労が夏期手当獲得闘争で、2名の解雇者を発令しました。
その直接の原因は、越後滝谷駅長が車掌区関係の闘争の影響で、代務車掌として乗務を命ぜられたことから、乗務しようとしたところ、液のポイント小屋に連れて行かれて軟禁された事が解雇の直接の原因であったとされています。
その当時の記述を、国鉄民主化への道、第三章、地方総連合と職能労連の章から引用したいと思います。

二人を懲戒免職にした理由について、当局側の記録では「越後滝谷駅長中島が、6月13日の車掌区関係の闘争で、代務車掌として乗務を命ぜられ、乗務しようとしたところ、S、N(いずれも、実名で記載されていますが、ここではイニシャルに止めておきます)らに、宮内駅のポイント小屋に軟禁された。これが2名の免職の直接の原因となった」

新潟は広島とともに革同派が強い拠点

既に書きましたが、新潟地本は元々共産党系の革同派*1が強い拠点であり、昭和28年12月にもだ規模な闘争を行っており、この軟禁に関わったNという人物は、新潟地本の委員長(共産党員)をしており、当局側としては、解雇するための理由が出来た。
逆説的に言えば、国労新潟地本にすれば、大将を取られた・・・みたいなイメージでしょうか。

すぐさま、国労本部は「10日・11日の2日間、各支部一カ所ずつの職場を指定して、3時間の職場大会を行うこと。指定する業務機関は地方本部に一任する」という指示を出したそうです。

国労本部は、職場大会の開催を指令

ここで注目すべき点は、職場大会を3時間、各支部一カ所と極めて限定的に開催することを指定していることであり、さほど強い指令と言えませんでした
これは、当時国鉄当局が地方局に職員処分一任していたからでした。

新潟局としては、処分を当局(本社)から一任されているわけですから、軟禁した首謀者に地本の委員長がいたことを奇貨として、解雇処分を発令する機会としたわけです。

当然のことながら、大将(地本委員長)を処分された新潟地本は、処分が発令された9日昼から順法闘争に入り、さらに本部からの指令通り「10.11日の両日は、各支部一カ所3時間の職場大会を開け」との闘争指令を出します。

その際、闘争に指定された場所は下記のとおりでした。
新潟・新津・酒田・吉田・小出・柏崎・直江津各駅と長岡操車場です。

しかし、これはあくまでも当局の目をくらますおとりであったことが当日になって判明、ゲリラ作戦により現場は大混乱となってしまったとされています。

その辺は、改めて記述させていただきます。

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*1:国鉄労働組合革新同志会の略

新潟闘争の伏線となった、白新線要員事件

今回から、新潟闘争の実際について鉄労友愛会議編纂の「国鉄民主化への道」を参考に書、鉄労の誕生のきっかけとなった、新潟闘争から始めたいと思います。

新潟闘争の伏線となった、白新線要員闘争

新潟闘争が起こったのは、昭和32年ですが、実はこの前年、昭和31年4月12日に白新線要員問題が起こりました。
国鉄当局が注目したのは、共産党が実権を握っていると言うことで、国鉄当局側もかなり重点監視の対象としていました、結果的にこの要員措置に対しての処分が弱かったことが翌年の新潟闘争の伏線になったと思われます。

実際、白新線開業日には祝賀列車を国労赤旗で飾られ、出発が25分遅れたほか、新潟管内の列車が平均20分遅れ、貨物列車が20本運休するなど、大きな影響を及ぼしたようです。

元々のどのような交渉であったか、抜粋したいと思います。

ことの始まりは、4月12日、白新線(新潟~新発田間27.3km)が開通に伴う要員問題が話し合われることとなり、当局の68人配置に対し、組合側は94人(交通年鑑での記事では106人)の配置を要求し、議論は平行線となりました。
組合は即日、順法闘争を指示、翌日には公共企業体調停委員会から「誠意を持って交渉するように勧告【実質的に命令】があり、当局は3人譲歩して71人としましたが組合側は納得せず、再び順法闘争に突入しました。
4月15日には、更に順法闘争の強化を指示、車両に至っては組合管理の様相を呈した飾り付けの祝賀列車のため、発車が25分ほど遅れたほか、組合員が祝賀会場である白山中学校に現れ労働歌を合唱するなど異様な雰囲気であったと言います
4月17日 当局、減給二人、戒告19人の処分を発表
4月19日 公共企業体調停員会があっせんに乗り出すも不調
4月21日 平常作業を行った上で要員に不足するが生じる場合は、再び考慮するとして一応の妥結

 

最終的には、18日・19日にも連続して処分を発して、最終的に71名に+3名を追加した74名で決着したと書かれています。【交通年鑑、昭和32年から追記】

 下記は、交通年鑑昭和32年 104ページから引用したものです。

新潟闘争の伏線となった、白新線要員事件

白新線要員事件

結果的に、当局側が組合に譲歩した形であり、国鉄本社も強い処分にしないように指示したのですが、こうした結果が翌年の新潟闘争の伏線になったと思われます。

国労新潟地本は、共産党の拠点

当時の新潟鉄道管理局長は、本社の労働課長も経験した河村勝【後の民社党議員】であり、後に大鉄局長になる総務部長は、闘争の指示を出しているのが共産党であり、人民闘争的(祝賀列車の国労赤旗飾る付けなどは人民電車を想起させる)ことから、強い処分を求めたと書かれています。
歴史に、IFはありませんが、ここで小さな芽を潰しておいたなら、翌年の新潟闘争は発生しなかったかもしれません。

結果的に、組合としては当局与し易い(くみしやすい)と思われてしまったと思われます。

ja.wikipedia.org

歴史にIFは無いけれど

実は、国鉄はこの後も肝心の所で、強く前に踏み出せず、マル生運動などで組合に譲歩するなどの事例があるのですが、国鉄の悪弊というよりも、官僚の保身主義からでたものと思われるのは私だけでしょうか。

 

申し訳ありません。
新潟闘争まで進めたかったのですが、その前段である白新線の闘争で力尽きました。m(_ _)m

 

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鉄労誕生までのお話 第2話

正直、鉄労視点で書かれた組合関係の記事というのは意外と少ないのですが、当時の資料などを参照しつつ、弊サイト、国鉄があった時代並びに、関連blog、日本国有鉄道 労働運動史等をリンクさせながらお話を進めさせていただければと思っています。

しかし、改めて資料を探していきますと、これまた非常に色々と奥が深そうで、正直自分でも始めなければ良かったと少しだけ後悔しています。苦笑

まぁ、後悔していると言いながら、新しいことを発見できることにわくわくしている自分がいるんですけどね。苦笑

さて、ここで今一度新潟闘争について簡単に振り返ってみますと、「国労新潟地本の処分反対闘争により、7月9日2名の解雇者を出した」ことからはじまったものでした。

戦争もそうですが、最初のきっかけは本当にちょっとしたボタンの掛け違いから始まるものです。

この辺を最初に、弊サイト国鉄があった時代から引用してみようと思います。  

国労、処分に反対して、運転部門以外で半日職場大会を開催 6/4
新潟地本、処分撤回職場集会で貨物71本運休 6/13
国労第16回定期大会開催、解雇三役を再選 6/22~6/27
松山において国鉄労組の全国大会が開催された、結局、国民の信頼をかちえなけれぱならないこと、より姿勢を低くするとも、組合の統一ある行動は守られねばならぬことに結諭を見出した。
しかし、役員の改選に当っては、解雇された3役が再選されるという結果になり、今後団体交渉などについて再び問題を残すこととなり、その成行は注目される 

新潟地本幹部2人に当局から懲戒免職処分 7/8
新潟闘争、国労、当局の処分に反対し闘争に突入 7/9

6月13日行われた国労新潟地本の処分反対闘争により、7月9日2名の解雇者を出したことからはじまった新潟の闘争は、勤務時間内職場集会、強力な順法闘争が併せて行われ、日本海縦貫貨物輸送を完全にマヒさせ、運休、遅延が拡大。各所で鉄道公安と衝突となり、農民代表から抗議を受けるほどであった
16日開かれた中央執行委員会において採決の結果20対8で中止指令を出すこととなり、すべては中央部に移されることとなった
国労新潟地本、国鉄春闘処分に対し直江津など二駅で職場大会→処分反対闘争に突入 7/10→7/16 中止指令
この結果、裏縦貫貨物輸送マヒしており。16日の闘争中止指令後も交渉はこうちゃく。藤林公企体労働委員会会長あっせんに乗出すことに
国労の動きに合わせ、国鉄機関車労組(後の動労)新潟支部も無期限超勤拒否、臨時列車運転拒否 など闘争に参加 7/11
国労スト参加者、さらに5人検挙。全職場無期限の職場集会、当局も一歩も引かず自体は泥沼化 7/15
新潟地区全列車が停止 7/16
中央闘争部よりストライキの中止指令 7/18
新潟闘争、中央で折衝を始めるも平行線の議論 7/19
労使双方の折衝が行われているが、当局側としては、国労と真正面から対決することも辞さないと言う強硬姿勢を崩さず、解雇処分を受けた役員と話合とは行わないとして、組合側の確約を要請するという強い態度を維持しており、組合側は、民同左派、革同派との調整や共闘関係から主流派(民同右派)が窮地に追いこまれているという情況下にあり、互いの思惑も含めて収拾のつかない状態となっている
膠着状態を打開すべく藤林公企体労働委員会会長が、あっせんに乗り出す事となったが、当局は、解雇者以外の組合代表者が決まるまでは団交は行わないと強硬な態度を崩さず、現行の労働協約は、組合が現状を維持する限り期間満了とともに消滅するものであるという基本方針を決定している。(関連:当局、組合費の控除廃止 10/23)組合側は、解雇された幹部を団交から除いては、かねて不当であるとして来た処分を事実上認めることとなり、かつは大闘争を中止した後でもあるので内部をまとめる上からも不都合であると、団交拒否禁止の仮処分を申請している状態であり、その出口は見えない
さらに、組合員の中には、国労の運動方針々不満とし、団交権を確立し、当面の問題を解決しようとする非現業組合結成の動きさえ現われてきており。国労は事態が一向に進展しないので、とにかく9月25日までは列車に影響を与えるような実力行使は行わない、大会の決定どおり、全国的な闘争は9月末から年末闘争にまで発展させるということを決定するに至った

 

総評大会で、新潟問題が論議される 8/3

 新潟地区の全列車が止まるほどの、全面的ストライキであり、左翼側視点で見てみますと、革同*1による労働者の闘いであるとして、「『国際労働運動』」というサイトに新潟闘争に関する話題が下記のように記されていました。

全文引用というわけにも行きませんので、その一部を引用させていただきます。  

▼革同の拠点だった新潟
 スト権を剥奪されている国労は、順法闘争か職場集会という闘争手段をもって事実上のストライキをかちとってきた。労働者として当然の実力闘争であった。全国各地で時間内職場集会として激突が繰り広げられた。とりわけ激しく闘ったのが国労新潟地本だった。
 革同の拠点だった国労新潟地本は、度重なる処分攻撃に対して、7月10日から激しい実力闘争に突入した。1週間にわたって列車を次々止め、大きな影響が出た。

中略

 闘いの爆発による輸送の大混乱に対して、新潟鉄道管理局の河村局長は事態収拾の姿勢を示さず、「こうなったら、どちらがへたばるか、とことんまでやる」とうそぶいた。河村は積極的に警察権力の出動を要請し、それと一体化して闘いの鎮圧に奔走した。だが、闘いは連日続き、11日は45カ所、958人が参加。12日も17カ所、13日32カ所、14日64カ所に及び、列車運行はまったくがたがたになった。まさに力勝負だった。敵の大言壮語は、労働者の迫力に圧倒された者の虚勢でしかなかった。
 15日には権力の弾圧で5人が検挙され、それに抗議して全職場無期限の職場集会の指令が下りた。142カ所3,082人が参加、運休は旅客19本、貨物列車114本。
 16日もその態勢は続き、全列車が止まった。これに対し、本部中闘より新潟地本に中止指令が下りた。そして地本がこれを受け入れて闘争態勢を解除した途端、4人に免職が発表された。翌17日には15人の免職処分が追加された。

 革同とは、国鉄労働組合革新同志会と呼ばれる組織で、共産党とは距離を置きながらも共闘を否定しない派閥として誕生しました

さて、ここで国鉄に対する、

と言った具合で、国労(特に新潟地本の闘争は苛烈を極めていました。

上記のように、農民代表から抗議を受けるほどであったということで、全国的にも注目されることとなり、新聞はもとより、週刊誌などにも記事が載ったそうで、国鉄線の記事にその辺が載っていましたので、抜粋させていただこうと思います。

  •  週刊朝日
    国鉄労組のムチャな実力行使によって大きな被害を受けた漁民や農民が、なぜ事態を嘆いたり。嘆願したりしているだけですましているのだろうか。強いものにはかなわないという気持がそうさせているのだろうか。そのような国民のアキラメを逆用して、国鉄労組は繰返し実力行使を行い、国鉄当励も相すみませんというだけでこのような事態をほったらかしているのではないかとさえ思われる。」(八月四日号、今日の焦点欄)
  •  サンデー毎日
    「ケンカは勝手だが、そのたびに迷惑をこうむるのは一般国民だということを、もう少し反省してもらいたいね。」(サンデー毎日、八月四日号)
  •  週刊読売
    「迷惑するのはいつも国民だが、こんどの場合、農民と水産業者の闘争反対デモは圧巻だった。『少しばかり文化的な労働者だといって、同じ方慟者のわれわれのクピをしめるっもりか。』とどなった声は、組合側にとっても、泣きどころであったようだ。」(週刊読売、八月四日号)

等の声が上がったようです。

 

この闘争を通じて、国労の中でも新生民同(民同右派)のグループが離脱のための運動を始めます。

再び弊サイト、国鉄があった時代を8月。、9月を中心に見ていこうと思います。

国労内民同右派による分裂組織準備会開催 7/21
総評大会で、新潟問題が論議される 8/3

新潟地方労働組合1,550名が発足 9/1
→参考 新潟闘争に関して綴らせていただきました、国鉄労働組合史詳細解説 19 日本国有鉄道 労働運動史

新潟局同様に、仙台地方と青函局に、ついで旭川局で国労から分裂した組合員による新組合が誕生し。東京。多度津との合計1,340名で職能別労働組合連合を準備 9/4

第48回国労中央委員会開催 9/11~9/14

秋季、年末闘争の方針決定と新潟闘争や第2組合問題の批判を申心議題とする国鉄労組第48回中 央委員会は、9月11日から東京 駅八重州口の国労会館で開催
今回は、新規約によって開催された初めての中央委員会であり、全員122名が出席したが、職能別組合部成の中心となっていろ菅原委員に対し、中央委員としての資格を喪失したものとするとの方針を取られることとなった
第1日目は、本部の新潟闘争打り、第2組合結成について議論され、第2日目、賃金改訂につき現在まで組合と当局との問に到達した結論を了承することとなり、3日目、秋季、年末闘争の運動方針が審議され、大会招集の緊急動議があり、紛糾をかさね、会期を1日延長して審議が行われ、10月に臨時大会開催の必要があれば、招集すること、小柳委員長から組繊の再検討を行い、10月闘争を既定方針どおりすすめるという表明があり終了した

 この年表によりますと、国労右派のグループは、こうした過激な運動について行けずに7月21日には、分裂組織準備会開催 し、9月1日には、1,550名の民同右派が「新潟地方労働組合」を発足させていきます。

さらに、その三日後には、全国で同様の動きがあり「職能別労働組合連合」の準備が行われることとなりました。国際労働運動のサイトでは3,000名のと言う記述がなされていますが、おそらく新潟地方労働組合と、職能別労働組合連合の人数を併せて3,000名と表現したものと推測されます。

以下に、再び国際労働運動のサイトからの記事を引用したいと思います。

▼第2組合との闘い
 闘争の中止と当局の処分に呼応するように第2組合の策動が表面化した。明らかに河村局長ら当局によってそそのかされた動きだった。つまり、第2組合策動は国労つぶしの不当労働行為そのものだった。そして9月1日に、国鉄新潟地方労働組合(新地労)が3千人で結成に至った。このことは、「闘えば分裂する」「闘っても勝てない」という戦後日本労働運動の「常識」を定着させるかのようであった。
 だが、それは違う。資本と国家権力とは労働者階級の利害は相いれないのであって、闘って打ち倒す以外に方法はないのだ。そのことを7月の連日の闘いの中で知った多くの労働者が存在した。そしてそれは創成期の革命的共産主義運動と深く結びつき、突き動かした。59年の革共同全国委員会の結成は、まさに新潟闘争を継承してかちとられたものだ。
 (注)革同 国労革新同志会。当時の労農党系、「マルクス・レーニン主義、社共統一促進」を掲げる。その後、日本共産党と一体化し、国労内の日共グループという存在に転化。民同を補完する役割に甘んじることになる。

www.zenshin.org個人的にはかなり無理強いした発言にも思えるのですが、当時の左派勢力の考え方の中心が、階級闘争であり、資本階級である経営者層は、プロレタリアートである労働者の敵であるとして闘うことを煽るわけですが、

前述のように、

「迷惑するのはいつも国民だが、こんどの場合、農民と水産業者の闘争反対デモは圧巻だった。『少しばかり文化的な労働者だといって、同じ方慟者のわれわれのクピをしめるっもりか。』とどなった声

にもあるように、労働運動の理想論に走り、結果的に国民の信頼を得られなかったのではないかと思われますし、こうした闘争により、国鉄内では新生民同(民同右派)が、新潟地方労働組合の発足を機に、他の地域でも職能労連として組織され、昭和36年9月17日には、国鉄地方労働組合連合となりました。

現業機関等を中心とした、地方総連も発足、この二つは、「新国鉄労働組合連合」として、昭和37年12月1日(11月30日とする資料もあり)に「新国鉄労働組合連合」(新国労)として発足します。

この組織が、今回のお話の中心となる鉄労の前身となります。

余談ですが、国鉄末期に国労革マル派が中心となって分裂した組織は、「新国労」ではなく、「真国労」となったのは、すでに鉄労で、その名前が使われていたこともありました。

 

鉄労誕生

鉄労誕生までの組合の流れ

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新潟闘争に関連する記事

も併せてご覧ください。

 

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*1:(注1)

鉄労誕生までのお話 1話

鉄労視点で書かせていただくといいながら、そのままになっていましたが、本日よりスタートさせていただきます。

鉄労という組織はいつ誕生したのか、元々はどのような組合だったのか、その辺からスタートしたいと思います。

国鉄労働組合

国鉄労働組合

鉄労も、元は国労から分離した組織

最初にお断りしておきますと、鉄労も、動労もそうですが、元々は国鉄労働組合から分化した組織です。
その中から最初に分離したのが昭和26(1951)年に分裂した機関車労組でした。
機関車労組と言ってもピンと来ない方も多いかと思いますが、動労の前身で、機関車乗務員並びに検修要員だけで構成された組合であり、後に鬼の動労とか革マル動労などと呼ばれましたが、結成当初は機関車乗務員の待遇改善(戦前に存在した格差賃金の獲得)を主な目的としたもので、穏健派が主流を占めており、使用者側とも良好な関係を保っており、運転局長・常務理事を経験した木島虎蔵氏を組織内候補として応援するなど、運転局との関係は良好でした。
動労が、革マルに浸食されていくのは、昭和30年代に入ってからですが、本題から外れますので、省略します。
さて、肝心の鉄労ですが、その芽は昭和32年の新潟闘争まで遡ることになります。
国労は、元々国鉄職員の殆どが結集して作られた組合であるため、その考え方はまちまちで。共産党系の指示を受けるグループもいれば共産党の指示に反対する反共のグループも存在したわけで、国鉄民主化同盟と呼ばれるグループ(民同)さらには、共産党とは距離を置くが共闘は否定しないという国鉄労働組合革新同志会(革同)という三つのグループが昭和23(1948)年までにできていたわけで、すでにこの時点で国労は1枚岩ではなかったと言えます。

鉄労を結成したのは、民同右派と呼ばれるグループ

鉄労は、特に国労の中では民同と呼ばれるグループから派生した組合になります。
民同派は、日本社会党(現在の社民党)を支持するグループでしたが、社会党の中にも右派と左派があったように、民同派の中にも右派と左派が存在しました。

そんな中で、昭和32(1957)年には、新潟で大規模な闘争が行われることとなりました。
発端は、6月13日国労新潟地本の処分反対闘争を行った際に、2名の解雇者を出したことで、組合側が反発したもので、弊サイト国鉄があった時代には、下記のように記述されています。

国鉄があった時代、昭和32年から引用

新潟闘争、国労、当局の処分に反対し闘争に突入 7/9

6月13日行われた国労新潟地本の処分反対闘争により、7月9日2名の解雇者を出したことからはじまった新潟の闘争は、勤務時間内職場集会、強力な順法闘争が併せて行われ、日本海縦貫貨物輸送を完全にマヒさせ、運休、遅延が拡大。各所で鉄道公安と衝突となり、農民代表から抗議を受けるほどであった
16日開かれた中央執行委員会において採決の結果20対8で中止指令を出すこととなり、すべては中央部に移されることとなった

岸内閣成立。運輸大臣に中村三之丞氏が就任 7/10
国労新潟地本、国鉄春闘処分に対し直江津など二駅で職場大会→処分反対闘争に突入 7/10→7/16 中止指令

この結果、裏縦貫貨物輸送マヒしており。16日の闘争中止指令後も交渉は膠着。藤林公企体労働委員会会長あっせんに乗り出すことに


国労の動きに合わせ、国鉄機関車労組(後の動労)新潟支部も無期限超勤拒否、臨時列車運転拒否 など闘争に参加 7/11

国労スト参加者、さらに5人検挙。全職場無期限の職場集会、当局も一歩も引かず自体は泥沼化 7/15

新潟地区全列車が停止 7/16

当局更に、15人免職処分を追加 7/17

中央闘争部よりストライキの中止指令 7/18
国鉄当局は今回の争議に対して4人の免職発表 7/18

新潟闘争、中央で折衝を始めるも平行線の議論 7/19

労使双方の折衝が行われているが、当局側としては、国労と真正面から対決することも辞さないと言う強硬姿勢を崩さず、解雇処分を受けた役員と話し合いとは行わないとして、組合側の確約を要請するという強い態度を維持しており、組合側は、民同左派、革同派との調整や共闘関係から主流派(民同右派)が窮地に追いこまれているという情況下にあり、互いの思惑も含めて収拾のつかない状態となっている
膠着状態を打開すべく藤林公企体労働委員会会長が、あっせんに乗り出す事となったが、当局は、解雇者以外の組合代表者が決まるまでは団交は行わないと強硬な態度を崩さず、現行の労働協約は、組合が現状を維持する限り期間満了とともに消滅するものであるという基本方針を決定している。(関連:当局、組合費の控除廃止 10/23) 組合側は、解雇された幹部を団交から除いては、かねて不当であるとして来た処分を事実上認めることとなり、かつは大闘争を中止した後でもあるので内部をまとめる上からも不都合であると、団交拒否禁止の仮処分を申請している状態であり、その出口は見えない
さらに、組合員の中には、国労の運動方針を不満とし、団交権を確立し、当面の問題を解決しようとする非現業組合結成の動きさえ現れてきており。国労は事態が一向に進展しないので、とにかく9月25日までは列車に影響を与えるような実力行使は行わない、大会の決定どおり、全国的な闘争は9月末から年末闘争にまで発展させるということを決定するに至った→参考: 新潟闘争

whitecat-kat.hatenablog.com

 国鉄があった時代昭和32年後半

 

と言った具合で、かなり強力な闘争となりました。
実は、昭和32年は3月頃から強力な闘争を繰り返しており、国鉄当局もかなり強気で処分を発令しており、昭和50年頃のマルセイ運動以降に見られる当局との癒着ぶりを思うとガチで対決していました。

そんな中で、新潟の非現業国労組合員(管理局員)の中から国労の動きに同調できないとして分裂する動きが出てきます。

すみません、新潟闘争までで力尽きそうですので、鉄労誕生までは2回に分けさせていただきます。m(_ _)m

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鉄労視点による労働運動史

こちらでは、鉄労視点による労働運動史として書いていきたいと思います。

国鉄には、国労から派生した、動労、鉄労、更に動労から派生した全動労、千葉動労などがありますが、こうした組合のうち、民同右派の鉄労視点から見た労働運動としてアップさせていただければと思います。

 

なお、「国鉄民主化への道」を底本に、国有鉄道国鉄線など国鉄部内誌なども参考にしながら比較検討しながら書いていきます。

 

ただし、更新は一か月一回程度出来れば良いかなぁという程度ですので気長にお願い致します。

 

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