日本国有鉄道労働運動史【鉄労視点】

日本国有鉄道労働運動史、鉄労視点で綴るblogです

国労と賃金闘争の話、業績手当支給に政府が介入して大混乱を招くことに

三ヶ月近く更新もままなりませんでしたが、改めてアップさせていただこうと思います。

今回は時系列的に行けば新潟闘争そしてその前の白新線での要員問題などになるのですが、同じ話を繰り返すのもあまりよろしくないので、今回は一気に駒を進めて新潟闘争以降の話しに駒を進めたいと思います。

その前に、国労40年史に新潟闘争のことが書かれていたのですが、中々客観的に書かれておりますので、合わせてここで新潟闘争に至るまでの概略を引用しながら書かせていただこうと思います。

 

当時の国鉄当局と組合の関係はかなり強い緊張関係にあり、生産性運動以降のなれ合い的体質ではなく、当局は違法ストライキの首謀者を解雇などの処分攻撃を打つのですが、組合も解雇者を役員にすることで対抗、解雇者が組合の役員をやっているので解雇することが出来ないと言うことで、民同右派などからは敬遠されることとなりますが、昭和32年春闘では、国鉄当局側にも非があると言わざるを得ません。(もっとも、この点に関しては、「国有鉄道昭和32年6月号 仲裁裁定前後」と言う記事に出てくるのですが、政府は良好な労使関係を作るべきだと言いながらも実際には、国鉄などの公社の予算は、国でしばられていることから、自由にお金を動かせない。

新潟闘争の直接のきっかけとなったのは、国鉄当局が年度末手当を支払わないと言ったことから直接の要因で有り、結果的にそれが大きな問題へと発展していくことになります。

少しその辺を引用してみたいと思います。

闘争のきっかけは、国鉄当局による業績手当の支給中止からだった

新潟闘争に至る闘争のきっかけとなったのは、昭和32年春闘の後に予定されていた、最低賃金法 に関するストライキ【総評と連動して3月26日実施予定】を前に、当局が支給を中止すると言う措置を取ったためと言われているが、その当時の経緯を調べてみると以下のように記述されています。

総評は、前年の第6回大会で、賃金闘争方針について---

<広大な労働大衆の賃金水準を引き上げるために、最低賃金引き上げの統一闘争を起こす。地方別でも業種別でも、産業別でもよい。・・・・同時に、最低賃金8,000円を含む最低賃金法制定のために各組合毎に8,000円以上を要求する職場闘争を起こし、国会内外の共闘に発展させる。*1

と記述されているように国労としても最低賃金法獲得に向けて行動をしていた矢先、当局から業績手当は支給しないと言う通知がなされたことがその原因とされています。

こうした国鉄の動きに対して、大蔵省は国鉄当局と労使は双方で馴れ合ってヤミ賃金を支払っているのではないかという疑念を持ち、終始国鉄に対しては冷淡な態度であったと言われています。

その背景には、昭和28年に起こった鉄道会館問題などに関連するなれ合い体質という国鉄自身の脇の甘さにあったのですが、この辺は今回の話しからは関係ないので割愛します。

国鉄としてみれば、労使紛争を防ぐ手立てとして、賃金で片が付くのであれば国鉄としては払いたいという意向があったのですが、前述の通り大蔵省は当局と組合が馴れ合ってヤミ賃金を払っているして【決めつけて】それを阻止しようと、政府がストップを書けたのでした。

公社の賃金の決定権は大蔵省【現・財務省】?

この辺の事情を再び、公労協スト権奪還闘争史から再び引用してみたいと思います。

政府は、調停案協議、仲裁委員会持ち込みの態度を示し、各後者もその態度を受けて調停案に対する態度を明らかにしていなかった、各公社もその態度を受けて調停案に対する態度を明らかにしていなかった。

なお、この時の調停案は、国鉄にあってはかなり労働者側に有利なもので、労働の実態から見て必ずしも適当と言えないので速やかに是正の措置を講じること、本年度内に一時金【ここでは業績手当】を支給することといった内容であり、機労【後の動労】以外は、組合としては調停案で妥結するとしていましたが、こうした調停案を政府が一方的に認めないとしたわけです。*2

この背景には、政府の公社に対する考え方が有りました。

三公社のベースアップに政府が介入することで混乱を招くことに

三公社のベースアップに政府が介入することで混乱を招くことに

国鉄法改正は、政府の介入をしやすくするように

政府は、積極的に公社の経営に口を挟む形となります。

この点は、国鉄を公社化する時と何ら変化はありませんでした。
国鉄を公社化する際も、国鉄を常に監視下に置きたい政府、更には旧運輸省にしても、公社という組織に改編することの精神的劣等感もあり、最終的には極めて政府が介入しやすい組織ができあがってしまいました。

 

国鉄に対して政府が圧力をかけることに

その結果、国鉄自身は公共企業体と言うことで、民間的手法を取り入れてより効率的な経営を求められつつも、国鉄時代が予算に縛られ、その予算も国の承認がいることになり、自由性がかなり束縛されることとなりました。

国鉄の経営に関して、本来であれば企業でもなく政府の機関でもない位置づけの公共企業体ですが、斯様に国鉄運賃等の部分に政府が介入してくる背景には、昭和31年の国鉄法改正も大いに関連していると言えます。

日本国有鉄道法の一部を改正する法律 法律第百五号(昭三一・五・一五)

この法令改正により、役員の任免などにも政府の意向が強く関わることとなり、それに関連して賃金なども他の現業同様に政府が口を挟む形となり、この辺が国鉄の労使関係を悪化させた一因ではないかとも言えます。

 

国有鉄道法改正についての懸念事項として、日本国有鉄道法の一部改正についてと言う論文の中で、「役員の任免員の任免等についての政府の監督は強くなった」として、以下のような記述がなされています。*3

少し長いですが該当部分を引用します。

役員の任免世帯についての政府の監督は強くなった。
役員の任命等について政府の監督を強化することは、今回の法律改正の大きな目的の一つであることは、さきに述べた提案理由の中にも明らかなところである。*4
すなわち、従来は、総裁は経営委員会の同意を得て内閣が任命することになっていたのを直接内閣が任命し、副総裁及び理事の任命には運輸大臣の認可を要し、監査委員会は運輸大臣が直接任命することになった。政府の意向が役員の任免に強く反映する事は、やむを得ないない事であるが行政と企業との分離という国鉄企業庁仲発足の経緯から、また企業を政治的影響から隔離するという立場から、さらには最近の公企業
等の最高責任者の選考にみる政治的色彩の強さ等からみてその運用についていささか
危惧の念を抱くむきのあった事は事実である。

と有るように、占領期間中はGHQ/SCAPの影響もあって、政府の配下におけなかったものの独立したことから再び政府の管轄下に置こうという意図が大きく働くようになり改正でした。

元々は自主性を持たせるべき組織として誕生した、国有鉄道でしたが、総裁の内閣による任命や副総裁以下の任免には運輸大臣の認可を要するなど、先祖帰りしたような部分が多々あったのは間違いないわけで、特に予算面に関しては政府の意向、最終的な名予算に関しては大蔵省の意向が働くなど、大幅に自主性を奪われてしまう事になります。

 

再び、ここで組合での派閥について見ていきたいと思います。

国労本部は、23日のストを指令するも、五月雨式に山猫ストが発生

国労40年史では、抜き打ちストと書かれていますが、実際には本部から14:00迄に解決しないならばストライキ突入を指示したとありますが、実際には一部の分会ではので、40年史の記述は誤りと言うことになります。

以下は、公労協スト権奪還闘争史から抜粋した内容と国鉄民主化への道を参照しながら時系列的に纏めたものです。

こうした、突然の政府介入して調停案を認めないとした訳ですが、以下のようなやりとりがあったようです。

3月22日 小倉俊夫国鉄副総裁から小柳国労委員長に電話があり、前述の通り26日の実力行使は総評による最低賃金確保に関する統一ストライキ・・・これに対して、政府の意向と言うことで払わないとなったため混乱が生じることになりました。

その後を時系列に書きますと以下のようになります。

 3/22 時間不明:小倉副総裁から小柳国労委員長への電話会談は決裂

 3/22 22:00   :交渉再開、24日は日曜日であり23日支払わなければ大混乱になると警告、国鉄当局側は政府と折衝するので3/23 9:00迄の猶予を提案

3/23    9:00  :兼松職員局長から国労に 9:30~運輸・大蔵大臣の政治折衝が行われる旨連絡

3/23  11:00  : 14:00迄に解決が付かない場合は実力行使をする旨通告ストを指令した 

・・・五月雨式に現場では職場大会などが開かれ、国労本部も収拾が付かない状態に

当時の大蔵大臣は後の首相池田勇人であり、大蔵省出身の池田にしてみれば0.12ヶ月分の業績手当はヤミ賃金であると決めつけていた節があったようで、雲隠れしていたそうです。

ここで問題となったのは、業績手当が給与と一緒に支払われるように準備していましたが、22日の夕刻に業績手当の支払いを待つように現場に連絡されたため、大きな職場では23日に月給を渡すのが不可能となり、職員は職場に来て給与が手当も延期されたことが延期となることを知った次第であったわけで、一部の分会では職場集会を始めるなどの混乱が生じ、東京駅でも午後3時頃からはホームに駅員の姿が見えなくなり、列車・電車の運行は混乱が生じることとなった。

この事態を見て事の重大さに気づいた政府は15:00頃、大蔵事務次官の平田と運輸事務次官の荒木が会って、3:50、運輸省国鉄総裁に業績手当の支払いを承認した

その後、国労・機労と当局の交渉が16:10から行われ17:00にはスト中止の指令が出されますが、各所で駅員が暴行されたり、駅長が監禁されたりして東京周辺の混乱が収まったのは24日の2:00であったと記録されています。

この山猫(抜き打ち)スト【最終的に国労本部が追認】では、旅客列車が111本【電車106本含む】他貨物列車も229本が運休したと記録されています。

国労では23日、分会毎に当局の指令より前に職場集会等に入る組織が多く、結果的に追認する形となった。

国労では23日、分会毎に当局の指令より前に職場集会等に入る組織が多く、結果的に追認する形となった。
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*1:公労協スト権奪還闘争史 P466

*2:公労協スト権奪還闘争史  P469

*3:雑誌 国有鉄道 昭和31年7月号 P4

*4:国鉄
の業務運営の現状にかんがみ経営委員会を廃止して、新たに理事会及び監査委員会を
設け、役員の任命等について政府の監督を強化し、財産の管理について規定を整備する』ことを主たるねらいにしている 雑誌 国有鉄道 昭和31年7月号 P3参照

国労と賃金闘争の話、国鉄と政府、そして組合と

久々に更新させていただきます。

今回は、当時の春闘に関して、国鉄当局・組合の関係を中心にご覧いただきます。

今回は新潟闘争前等、昭和32年(1957)春闘を取り上げています。

国労内にあるいくつかの派閥

今回は鉄労視点とは言いながらも、国労内の動きに注目していこうと思います。国労という組織は機関車労組が分裂したとはいえ、依然国鉄を代表する組合でしたが、必ずしも1枚岩という訳ではなく、大きく分ければ社会党を支持する民同・革同派や、共産党系等が存在していました。

国労という組織の中には、左派と言える革同派とより穏健な民同派があった

国労という組織の中には、左派と言える革同派とより穏健な民同派があった

1957春闘が、新潟闘争のきっかけとなった重要な位置づけ

特にここで注目したいのは、昭和32年に行われた春闘で、総評の戦術委員会では春闘の決戦時期を3月11日から15日までの連続4日間と指定し、国労・機労も第一派として3月11日、12日と実施することとしていました。

更に、公労委(公共企業体労働委員会)の斡旋案がなかなかまとまらないと言うこともあり、調停案を出せずにいたと言われています。

この調停案が出せなかった背景には、労使間の問題ではなく、むしろ公社間の賃金格差をつけるのか否かという点で揉めていたからといわれています。

後に、石田総裁国会で発言して物議を醸したたばこ巻き事件がありましたが、その10年ほど前に、当時の職員局長兼松学も、たばこを巻いている職場と国鉄が同じ賃金という旨の発言をして専売公社からクレームが来たとも言われています。

100円の攻防、政府・当局と組合と

こうした中で公労委における調停は続けられ、3月6日には国鉄側では労使双方で1300円【労組側の主張は1300円、当局側は当初1100円】で決着がつくかと思われたが、公共企業体労働委員会に藤林敬三委員長は、国鉄・労使双方で決定した妥結案が気に入らないとして、1200円でなければという。

国鉄の差額賃金を認めようとしなかったわけで、委員会を途中で退席してしまったそうです。結果的に調停作業は二日ほどストップ、3月8日まで姿を見せなかったと言われています。

この辺に関しましては、国労の資料によればかなりきつい職場闘争と順法闘争を繰り返しており、これにより当局側に譲歩させたと、国労権利闘争史には以下のように記述されています。

以下、国労権利闘争史 P103から引用

賃金の引き上げ等につき1月27日公労委に調停を申請した。しかし調停も難航し、翌57年2月末にいたり、ついに国労は2波にわたる実力行使に踏み切ったのである。こうした中で3月9日になってようやく公労委は調停案を提示した。その内容は賃金1200円引き上げ等であった。国労は、この調停案に不満を表明しつつも、「政府・当局が本調停案を実施するための必要な予算措置を講じ、直ちに当方との間に具体的に協定を締結することに応じるならば・・・これに応諾する用意のある」ことを表明した。これに対して政府は、調停案を拒否し、ただちに仲裁に持ち込む*1ことを決め、社会党首脳との会見でも早期の仲裁を言明したのであった。しかしそれも束の間。政府は12日の政府・与党連絡会議でこの方針を変更し、仲裁申請の時期を遅らせることを決定してしまった。

ここで注目すべきは、当時の宰相は岸信介であり、政府として公社などの現業機関に対して、積極的に介入しようとした点は注目しなくてはなりません。

これにより、国労は再び強力な闘争に入ることになります。

以下は、国鉄における労働争議を弊サイト国鉄があった時代から抜粋したものです。

当時の年表から抜粋

新賃金、年度末手当等を要求して闘争体制を整えていた組合側は、予定通り第一波闘争に突入 2/21

国労春闘第二波闘争(半日職場大会) 2/26

国労春季闘争激化。第3波に入る。岸総理と鈴木社会党委員長によるあっせんが行われるに至ったが、事態は好転せず。23日手当支払問題をめぐり、国労は拠点1200駅と客貨車区で午前中3時間の職場大会(実質的な抜き打ちスト)を実施、輸送不足に悩んでいる国鉄の貨物輸送は文字通り麻痺状態となった 3/11・3/12

国労、午後2時から業績手当て問題で、スト突入 3/23

政府は国鉄当局を通じて、業績手当支払いを承認しないと通告、理由は3月26日に実施を予定していたストライキを中止することが条件であるとして26日のストライキを中止しない限り業績手当を支給しないと説明されるが、午後2時を経ても支払われないことから、国労は順法闘争並びに職場大会に突入、る国鉄の貨物輸送は文字通り麻痺状態となった、運輸大臣の支給命令で5時に解除

以上のように今回は国労春闘を見ていただいたわけですが、実はこに春闘の後で行われた、解雇者を含む処分が多数出されたことから国労が処分撤回闘争を指示するのですが、これがその後の新潟闘争へつながることになりますが、その辺は次回説明させていただきます。

jnrera.starfree.jp

 少なくとも当局としては、出しても良いとしていたの対して更にそれを曲げてしまおうとした点に問題があるわけです。

結局、この斡旋案も政府に押し切られる形で3月9日、総評が高原闘争として提示した二日前の3月9日に三公社の労使に対し、一律1200円増額という調停案を提示した。

 

国鉄としては1300円でも良かったのだが政府の許可が下りず、労使双方にしこりを残すこととなり、政府は国鉄を非難し、当局もそれに反論する姿勢を見せることとなりました。

結論から言うと、国鉄の賃金は平均と比べると高いが、他の公社などと比べて勤務時間が長くかつ、平均年齢が高いことも要因であり、現状では他の公務員と比するとむしろ安いくらいであると解説しています。また、「国鉄民主化の道P247」には、職員局長兼松学の見解として以下のような談話が週刊朝日の3月31日号に掲載されていました。

国鉄の経営者の立場に立てば、後100円出せば組合と話がつく、また出せるだけの余裕がある時は出したい。国鉄がもうかっている時は、その内幾らかを組合員のフトコロに返すのが大争議を引き起こすよりは安上がりだ。鉄道事業では、人件費が五〇%と言うのは常識、いま国鉄は42%だがら、あと1,2%出しても企業上ちっともおかしくない。ところが予算にしばられて、その自由がきかない。国鉄総裁は汽車を動かすだけで、大蔵大臣のハンコがなければ、金は出せない。まるで禁治産者みたいだ。組合としては、政治闘争にならざるを得まい。好ましくないが、制度上、労組を政治闘争に追いやっている。国鉄経理上、調停案を受け入れられる場合でも、その自由がない。いわば無能力者を相手に交渉する組合も気の毒だ。

と書かれています。

このように、政府側は公共企業体という組織にあり方を理解していないと、当局も組合側も嘆いており、結果的に当局あっても組合にしてもやるせないものだと言うことが言えそうです。

結局、組合を更に左派へ左派へと追いやったのは、国鉄当局と言うよりも政府であったのではないかと言えるかもしれません。

続く

 

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*1:仲裁裁定は労働関係調整法により、労働委員会に設けられる仲裁委員会が労働争議の解決のために下す判断。労働協約と同一の効力をもつもので、当局・労働者双方を拘束する

もう一つの国労からの分裂、職能労連

国労から分裂した、新生民同派

国労の新潟闘争は、新潟地方労組を結成することとなりましたが、それ以外にも国労を脱退した、「労働問題研究会」というグループがありました。

彼らは、国労内の新生民同派(いわゆる民同派右派のグループ)と呼ばれており、職能別の組合とすることを目的としていました。

新潟闘争前の、昭和32年6月松山市で開催された国労大会で下記のように解雇された職員が専従役員に選任されたことに対して反発を感じたわけで、っくろうないに設けられていた職能別協議会を発展させて、職能別組織として再編しようと考えたそうです。

国労第16回定期大会開催、解雇三役を再選 6/22~6/27

松山において国鉄労組の全国大会が開催された、結局、国民の信頼をかちえなけれぱならないこと、より姿勢を低くするとも、組合の統一ある行動は守られねばならぬことに結諭を見出した
しかし、役員の改選に当っては、解雇された3役が再選されるという結果になり、今後団体交渉などについて再び問題を残すこととなり、その成行は注目される

jnrera.starfree.jp 職能労連とは?

鉄労【その前身は新国労】は、新潟闘争から生まれた新潟地方労組さらにはその少し前に結成準備を行っていた職能労連を母体として国労の民同右派と後に呼ばれるグループで、民社党を支持していました。

国鉄の職能労連、正式名称は国鉄職能別労働組合会議と呼ばれる組織でしたが、新潟地労とは別の経緯で国労から分裂したものの、労使協調と反共、を活動方針にしている組合である点は共通しており、全日本海員組合(海員)」・「全国繊維産業労働組合同盟(全繊同盟)」・「全国映画演劇労働組合(全映演)」・「全国石炭鉱業労働組合(全炭鉱)」と呼ばれる、民間の右派組合によって設立された全日本労働組合会議から、設立に際して支援を受けたと言われています。

職能労連設立までの時系列を見てこうと思います。

当時、職能労連結成に対して二つのグループがありました。

その一つが、職能別組織を考えていた、国労内にあった、職能別協議会(職能別派)であり、この組織を母体としての組織作りを考えていました。

これとは別に、旭川市では、「労働問題研究会」と呼ばれるグループで、組織の指導には、戦前の転向で戦後は反共理論を展開する、鍋山貞親と三田村四郎が指導していると批判していたそうです。

1957年7月4日 「労働問題研究会(労研派)」が新組合結成準備会を設置

1957年7月21日 労研派と、職能別派による合同会議を開き、新組合の組織について協議し、職能別で行く方針が決定されました。

1957年11月20日~21日 東京茗荷谷ホールにて結成大会が開催され、新組合への参加者は、11,800人と発表

1957年11月26日 国鉄本社と最初の団体交渉を実施、年末手当1.8ヶ月分で妥結

ちなみに、

結成大会前の、職能別組合の結成状況は以下の通りでした。

昭和32年10月職能労連結成状況

昭和32年10月職能労連結成状況

職能労連が誕生した背景には、総評における社会党の考え方も

総評は社会党を支持してきましたが、サンフランシスコ講和条約日米安全保障条約の調印において、全面講和か単独講和かで世論が割れたとき、共産主義ソ連、中国【中華人民共和国】との講和を含める全面講和を支持する左派と、そうした共産主義を排除したい右派に分裂、社会党を支持する総評にあっても、単独講和を支持する社会党右派を支持する右派労組(全日本海員組合(海員)・全国繊維産業労働組合同盟(全繊同盟)・全国映画演劇労働組合(全映演))が中心となって、総評を離脱していました。
こうした流れの中、国労では懲戒免職された職員が組合専従役員として就任することとなりこれに反発する、新生民同派【民同右派と呼ばれるグループ】は反発しますが、解雇された職員が組合専従役員となるため、当局は解雇できずその運動はさらに過激となることになります。

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そうした流れもあり、さらに国鉄部内では非現職員(管理局などの勤務者)は、現業と比べて勤務条件が異なることから事業所ごとの待遇改善を図るべきだという気運もあり、国労内に設置されていた

職能別会議を発展的解消する形で、職能労連結成、さらに労研派も合流

職能労連結成


を発展解消することを目的として設立されることとなったわけです。

 

新潟地労も職能労連も、総評から脱退した全日本労働組合会議の構成員である、全日本海員組合の支援の元、設立に至っており、設立当初から全日本海員組合とは近しい関係にあったと言われています。

 

参考資料

最後に、参考資料として

二人の指導者とはどんな人物だったのか。

鍋山貞親・・・戦前に獄中で転向を声明、「コミンテルンの指導を受けての共産主義運動ではなく、天皇を尊重した社会主義運動を行う」と言うもので、戦後も民社党・同盟の理論的・戦術的ブレーンとして活躍したとされています。

戦前、獄中で転向した鍋山貞親、戦後も民社党・同盟の理論的。戦術的ブレーンとして活躍

鍋山貞親 画像wikipedia

三田村四郎・・・元警察官であったが、社会主義運動に関心を示し、服務規律違反に問われて免職、その後は戦前の労働運動を指導するも、戦時中は拘禁されることに、獄中で鍋山貞親が転向したことを知り、転向を表明するが釈放されず、戦後のGHQの解放指令で出獄、戦後は一貫して労使協調・反共を基調とする労働運動を指導とされています。

戦後一貫して、労使協調・反共を基調とす流浪同運動を指導した、三田村四郎

三田村四郎 画像wikipedia

続く

 

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新組合結成、その後 国労から脱退する組合員

長らく空けてしまいましたが、久々に更新させていただこうと思います。

「現在の国労新潟地本の執行部は信頼できない」として、新たに「国鉄新潟地方労働組合」が昭和32年8月24日に新組合結成準備大会を開催したそうです。

翌日が国労新潟地本の定期大会であったので、反省を促す意味を込めてあったのではないかとされています。

この時点では、その後新組合は誕生しておらず、新組合結成に動く代表者は、国労新潟地本の代議員として定期大会に出席し、あるものは地本批判をしたとされています。

その辺を、国鉄民主化への道から引用してみたいと思います。

”新組合結成準備大会"は、8月24日午後一時から、新潟市の小林ホテルで開かれた。約150人が参集、準備委員長に赤津友三郎、副委員長に丸山久一、事務局長に上野政勝をを選出した。この準備大会には、国労委員長の小柳勇が来て、新組合結成を中止するよう説得した。・・・・中略・・・赤津は小柳に、新組合結成中止の条件として、「地本執行部が辞任し(地本三役をはじめ、役員のほとんどが解雇処分を受けている)、民主的な役員が選ばれること、運動方針の"政党支持の自由”を"社会党”一本にしぼること」を要求したという。

*1

と有りますように、ここで注目していただきたいのが、新組合結成中止の条件として、

「"社会党”一本にしぼること」という表現に違和感をもたれら方も居るかもしれませんが、当時の国労では、革同派・共産派と言った派閥もあり(革同派・・・革マル派などに分離する過激派)などを新潟地本から切り離すことを要求しているわけです。

この主張は一貫しており、新しく設立される組合が過半数を確保できれば、国労に復帰するという主張をしていたことからも窺えます。

実際に、新潟では新組合結成の二年後には新組合が過半数を獲得しており、復帰に向けての話し合いが行われますが、現行の新潟地本を否定して、新組合を本流に戻せという主張は当然のことながら国労としては受け入れられず、新組合は独自の歩みを始めることになるのはもう少し先の話になります。

さらに、結成大会の時点では国労から脱退して居らず、翌日の新潟地本の定期大会では前述の通り代議員として、出席して地本批判をした代議員もいたそうです。

再び、国鉄民主化の道から引用してみたいと思います。

乳許雄大会の前日に、新組合結成を正式に表明したのは、地本の反省を促すいみもあったという。そうして、赤津や上野は、まだ国労を脱退しては居らず、国労新潟地本の代議員として地本大会に出席(新組合結成派の代議員は22人)、上野などは、一時間にわたり地本批判の演説をした。

ここで出てくる、赤津は、新組合の準備委員長、上野は、新組合の事務局長でした。

 

結成前の話が長くなりましたが、前述の通り、国鉄新潟地方労働組合は、昭和32年9月1日に結成大会が開催されることとなり。

9月1日、午後零時45分から、新潟市・海員会館で開催され正式に発足することとなります。

こうして、誕生した国鉄新潟地方労働組合は、二年後にはほぼ過半数を確保、その後も昭和53年2月の組合員構成を見ると以下のようになっていたそうです。

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昭和53年時点での新潟鉄道管理局組合員別割合

f:id:whitecat_kat:20211218231703p:plain

上記の新潟鉄道管理局管内職員数

新潟地本で、新潟地方労働組合が誕生したのか、その背景には新潟地本が広島等もそうでしたが、共産・革同派が抑えていたことが大きかったと言われていますが、それ以上に、職員の無関心もあったのではないかという分析も有ります。

実際、多くの組合員は新潟闘争以後、こぞって新組合へと流れていったわけですから、多くの職員は組合運動には無関心であり、ただただ、盲従するままに従っていたわけですが、その辺は当時の職員の意識などを含めて色々な資料等を検証して行きたいと考えております。

なお、多くの職員は組合運動には興味が無かったのでは無いかと言うことで、当時の国鉄本社・総裁室調査役の河村勝氏(後の国鉄常務理事)が、昭和34年6月号の交通技術に寄稿した、「無関心の共謀」という随筆で、以下のように記されています。

私は戦後の労働問題を通じて組合民主主義について多くの疑問を持つてきたが 、 最近 3年半の新潟での経験のなかで、組合員の80%は組合運動に対して無関心であるという説を唱えている。1昨年の新潟闘争では新潟地本の殆んど全組合員が参加し指導者の腕1本の合図で瞬時にして職場を放棄し、列車の運行を停止した。2年たらずを経過した今日、新潟地本を批判する新潟地方労組の勢力はすでに新潟地本を凌駕している。独裁者の権威の前に沈黙し盲従する大衆の「無関心の共謀」をそこに見ないわけにはゆかない。もしほんとうにあの闘争が組合員個々の自覚にもとずいて行なわれたものであるならば「鋼鉄の新潟地本」の組織がかくも脆く崩れ去るはずはないからだ。大衆の自覚の前には独裁者の権威はまことにはかないものに過ぎない、ひとたび自覚した大衆はふたたび盲従・無関心の世界に戻ることはない。

また、国鉄線 昭和33年9月号の座談会記事 「新潟地区の実態を聞く」という記事の中で、労使関係の話が出ており、3000名ほどが国労を脱退して、国鉄新潟地方労働組合に加入しており、新潟駅でも6割ほどの職員が国鉄新潟地方労働組合に加入したと発言しています。

昭和33年9月 国鉄線

昭和33年9月 国鉄線 新潟地区の実態を聞くからキャプチャー



実際に、こうした組合員の無関心という問題、実は現在の政治の世界にも当てはまると思えてなりません。

 

続く

 

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*1:国鉄民主化の道、P271から引用

新潟闘争後 新組合結成と国労新潟

新潟闘争後、新地労誕生

新潟闘争中に、各職場から国労を脱退した職員は、200名近くになったそうですが、闘争終了後抗した脱退者が、国労組合員から虐められたり、村八分にされたりしたそうで、新潟闘争前の昭和30年2月1日に「組合を守る会」を結成したものの、当時の新潟地本から、村八分にされたり、虐められることがあったことから、そうした事態を危惧した、元「組合を守る会」の幹部が話し合って、新しい組合を作ろうという話になり、第一回の結成準備会が昭和32年8月4日に開催され

  • 「現在の国労新潟地本の執行部は信頼できない」

この点で、意見が一致したものの、どのような組合を作るかについては結論が出なかったとしています。

何度か準備会が開催され議論が重ねられる中で、職能別組合ではなく、新潟だけの独自の組合を作ろうという結論になったと言われています。

ここで、国鉄で導入されていた職能組合について補足させていただきますと、仙台地区で非現業を中心とした、職能別組合が結成の動きがあったようです。

国鉄の労政と労働運動 有賀宗吉著 下巻 P175から引用したいと思います。

「非現業関係組合結成準備の趣意書」

私たちは管理局を中心とする非現業関係の組合員の労働条件改善を図る推進機関として、総務経理協議会があり、組合本部の諮問に応ずるばかりでなく、直接・間接に当たってきたのでありますが、国鉄労働組合が単一組織になった以前を含めて、私たちの要望事項は今日まで殆ど何一つ解決していないのであります。

 中略

(1)非現業3%定員削減反対、(2)被服の全員貸与(3)級別定数枠の撤廃、(4)旅費単価の引き上げ、(5)当直指令の待遇改善、(6)超過勤務手当の増額

等13項目にわたる要求を改めて確認し、中闘に働きかけ・・・中略

 しかし、結果は現業、非現業の区別はしないから、地方本部でそれぞれ団交するというような、曖昧なゴマカシ方で妥結したのであります。

・・・中略。にも拘わらず組合費は一般組合員よりも高額な組合費を徴収されているので、これでは全く非現業部門にいる組合員は浮かばれないと思います。

・・・中略。

以上の点を合わせ、私たちの労働条件は現業の労働条件と異なり、仕事上の責任体制からもその高度性が要求される職種であり、・・・中略

現在の組合の中にあっては、非現業関係及び直轄職場を含めての問題解決は、もはや望みなしと判断し、ここに管理部門を一丸とする新組合を結成し、問題解決に邁進することを決定したのであります。

 

昭和32年6月14日

                         仙台地方非現業連絡協議会

長文になりましたが、一部省略しながら掲載させていただきました。

ここで書いていますように、非現業【いわゆる管理局などに勤務する職員】の待遇が現業機関と比べて改善が遅れていたことが窺えますが、私がいた頃の郵政局も似たようなもので、制服はもちろん貸与されないのはともかくとして、超過勤務手当が十分な原資がないため、殆ど末席には配分されないなどただ働きが横行することになりました。

国労新潟地本自体を正常な形に戻すために

新組合の方向性では、現在の新潟地本は、共産党や革同派に振り回される状況であり、国労新潟地本自体を正常な形に戻す【革正する*1】事が目的であるとして、新組合が過半数を占めれば国労に復帰しても良いと言うスタンスでした。
実際に、過半数を制するのですが、その際は現新潟地本ではなく、新しい組合を新たな新潟地本として指名するようにと言うことであり、結果的には決裂することとなります。【後述】

結成準備会の赤津友三郎、渡辺由司、岩川修二らは、総評の岩井章、国労出身の参議院議員大和与一、中村政雄、国労書記長の野々山一三らに会って話しあいがもたれたと記述されています。

 

新潟地本には対立するものの、国労本部にはシンパシーを感じる新組合、国鉄新潟地方労組

新潟地本には対立するものの、国労本部にはシンパシーを感じる新組合

新組合、国鉄新潟地方労働組合 結成

こうした流れを経て、昭和32年9月1日は、「国鉄新潟地方労働組合」が結成され、1036名が新組合に結集したとされています。【当時の新潟鉄道管理局管内の職員は14,861名で非組合員が約2,000名)だったそうですが、数年で過半数国鉄新潟地方労働組合」が占めることとなります。

新組合の基本的な考え方は

とし、「組合員のための組合」「誰でもついてこれる組合」の体制を確立する事が強調されたと言われています。また、国労新潟地本自体を正常な形に戻すということで、「国労に復帰することを究極の目的とする」という点は、綱領ではなく、確認事項となりました。

組合結成には全日本海員組合が応援

なお、この組合の結成に際しては、幹部が貯金通帳を赤津に提出して、「組合財政が確立するまで」という借用書を書いたほか、新組合のために全日本海員組合が新潟信用組合に2000万円を預託したと言われており、全面的に全日本海員組合が新地労を応援したとされています。

 

続く

 

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*1:改めただすこと

新潟闘争後の国労新潟の動きを中心に (新組合結成)

二ヶ月近く更新が滞ってしまいましたが、再び国鉄民主化への道を参照しながら、他の資料も参照しながらアップさせていただこうと思います。

 

共産党・革同派の王国だった新潟鉄道管理局管内

新潟闘争前の新潟地本は、共産党・革同派の拠点であったそうで、新潟地本の委員長が列車に乗っていることが判ると、ホームに走って行って敬礼したと言った話も多々あったと、国鉄民主化への道では書かれていますが、現場長の命令よりも組合の命令が優先というおかしな雰囲気の職場であったそうです。

そんな中、共産党・革同派に反対するグループが新潟に生まれつつあり、昭和30年2月1日に「組合を守る会」が結成され、約600人が参加したとされています。

国鉄民主化への道から当該部分を引用させていただきます。

このような共産・革同中心の国労地本に反対するグループが、昭和30年2月1日に”組合を守る会”を結成「新潟地本は一定の政治感覚の人たちによって、組合民主主義が根底から浚われようとしている」との声明書を発表した。約600人が参加

と記述されています。

こうした動きに対して、国労新潟地本は”守る会潰し”に積極的に動くこととなります。

具体的には、いわゆる村八分的な扱いをすることであり、職場だけではなく、家族やその子供にまで及び、家族の交流禁止、子供も遊ばせないように指導するなどして、孤立化を図ることとし、結局1年半後の昭和31年9月5日には、”組合を守る会”自体が解散に追い込まれることとなりました。

新潟闘争勃発

こうして、組合を守る会自体が解体に追い込まれたその11ヶ月後、新潟闘争が勃発します。

新潟闘争中には各職場で国労から脱退する人が多数出たそうで、約200人くらいが国労から脱退したものの、新潟闘争終了後、脱退者が国労組合員から虐められたり村八分にされるという事案が発生したそうです、そこでかつて、”組合を守る会”の幹部だった人と話し合った結果、新しい組合を作ろうという話になったそうで各関係者に招集状を出したところ結成準備会に62名が出席したそうで、新潟地本の執行部が信頼できないと言う意見では一致したものの、どのような組合にするのかという点では意見がまとまら無かったと言われています。

何度か協議が重ねられた結果、職能組合ではなく新潟独自の組合を作ることを決定したそうです。その理由はあくまでも。国労新潟地本の改革を狙ったものであり、国労新潟地本の執行役員を入れ換えることが主な目的とされたためであったとされています。

その辺を再び、国鉄民主化への道から当該部分を引用させていただきます。

新潟だけで別の組合をつくることになった。その理由は、「共産・革同派に振り回されている国労新潟地本を”革正"するのが目的であるから、新組合が多数になったら国労に復帰しても良い、という態度・・・・つまり、国労本部支持、新潟地本否認という態度である。国労本部の進み方を非難して脱退した職能別組合とは、考え方が違っている」と言うわけだ。

と有るように、あくまでも新潟地本が、共産党や革同により執行部が抑えられていることへの不満の表れであったわけです。

結成準備会のメンバーは、総評事務局長の岩井章や、国労出身の参議院議員大和与一
中村正夫 国労書記長の野々山一三 等と面談して新組合結成について相談したと書かれています。

国労としては、結成準備会のメンバーであった赤津友三郎のこうした活動に対して、厳しい批判の目を向けていたそうで、国労新潟地本の「闘争日報」で以下のように書かれていたとされています。

再び、国鉄民主化への道から当該部分を引用させていただこうと思います。

地本の分裂をはかるためには手段を選ばなくなった赤津氏は、常軌を逸脱した行動に出ている。社会党員という肩書きを使って、三宅氏を介し社会党労働部長大和与一氏にあい、対中闘会談の機会を極めて政治的なものとした赤津氏は、19日上京し、野々山書記長に会い、笑止にも、地本と中闘・総評の固い団結にひびを入れようという、分裂主義の本領を遺憾なく発揮した。

といっている、意味がよくわからない文章だが、新潟地本は、赤津が総評や国労の幹部と会ったのは知っていたわけだ。

国労の新潟地本にしてみれば、組合が割れることは好ましくないこともあったと言えそうですが、常に監視はしていたと言うことになりそうです。

新組合には、国労新潟地本から約半数近くが集結

当時の様子を、国鉄部内紙、国鉄線昭和33年9月号の「新潟地方の実態を聞く

という座談会で、以下のように興味ある記事を見つけることが出来ました。

f:id:whitecat_kat:20210907123527j:plain

記録的な記事ですので少し長いですが、引用してみたいと思います。

労使関係も円満に

司会 最後に、新潟は労働問題で去年の夏あたり天下に雄名を馳せましたが、その後の情勢についてお話し願えませんか。
豊島  うちの組合は革同*1に支配されていて、一にも二にも闘争主義で進んで来たのが実際の姿です。昨年七月までは処分はあったけれど、解雇は出ていませんでした。そういったこともあって、一般の組合員は組合の指導者に追随していたというのが実情でしょう。これが去年の新潟闘争によって大きな痛手を受けた。組合側の犠牲も解雇だけで20数名にのぼり、その後は非常に批判的になって来たのです。
 いま一つは、処分だけでなしに世論の支持を失った。いわゆる新潟闘争のときは100本の列車のうち10本位が運休し、遅延は3O分から6時聞にも上りました。通勤客に例をとると、お客さんは仕事が終って空腹と疲労で早く家に帰りたいと駅に来るのに、汽車が出ないのは闘争のためだというので、世論と当局と両方から反撃を受けた上に、大処分を受けて、これが良識ある組合員の批判となって現われたのが昨年9月1日の新地労*2という第二組合の誕生です。これが1万4000名の組合員のうち、現在3000名を超えて います。私の駅でも5割5分から6割近くがこの批判組合に入っています。

注:豊島氏は、当時新潟駅駅長

新潟地方の実態を聞く

ということで、昭和32年9月1日に上記に書かれていますように、新組合「新潟地方労働組合(以下「新地労」と略す)」が発足しており、国労組合員が徐々に、新組合に移行していることがうかがえます。

ここで赤津氏は、新組合が過半数を獲得したら、国労に復帰するとしていたわけですが、徐々にその勢力を伸ばして、昭和34年9月頃には、新潟管内の約半分は新組合が獲得していました。
実は、この年に国労書記長山田耻目は、前書記長の野々山からの引き継ぎで、新組合の赤津氏と交わした引き継ぎ事項の「新地労が過半数になったら国労に復帰すると言っていた、折衝すること」という項目があり、この折衝のため赤津氏らと面談していますが、その面談は結果的にはご破算で終わることになりました。

それは、単純に復帰ではなく、新潟地本の看板を革同中心の現執行部から、「新地労」に移せという旨の発言をしたからでした。

国鉄民主化の道では、以下のように語られています。

山田との会談で、赤津が「共産党を除いて、国労新潟地方本部の看板をこちらへよこせば、明日にでも復帰する」と言ったという。新地労を国労地本と認め、これまでの地本を否定するなどと言うことは、山田にとっては、もちろんできない相談だった。

こうして、当時の国労書記長と会談したそうですが、その会談で、新組合に「共産党を排除して、国労地方本部の看板をよこせば明日にでも国労に復帰する」と言ったそうですが、当然のことながら

少なくとも、こうした発言が本気で国労に戻る気が合って言ったのか否かは、今後更に補強すべき資料を探す必要がありますが、少なくとも革同・共産党派に押さえつけられていた新地労を結成したメンバーにしてみれば、かなり本気で迫ったことであろうことは間違いないかと思います。
しかし、この頃の国労の運動は更に過激さを増しており、民同右派は主流派から追いやられ、解雇者が三役を務めるなど、益々先鋭化していくなかで、現新潟地本の組合員を切捨てる形になるような方法は当然のことながらできない相談だと突っぱねるしかなかったと言えそうです。

 

なお、新潟闘争に関しては国労の資料なども参照していますが、よほど都合が悪かったと見えて、国労四〇年史では殆ど語られて居らず、今後更に他の資料で補強していく予定としております。

 

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*1:国鉄労働組合革新同志会共産党とは距離多くが共闘を否定しないグループ

*2:新潟地方労働組合

支社制度、具体的な取り組みを四国支社に見る【国鉄当局部内紙から参照】

鉄労視点と言いながら、今回は当局の支社制度設定の狙いなどを当時の資料を参照しながらご覧いただこうと思います。

 

本社の権限を降ろして支社で自発的な行動を期待

国鉄の制度が改革されて、支社制度が発足したのは昭和32年1月16日ですが、発足は、本社が権限を集中させてしまって全体が見えなくなっている事への反省もありました、そこで支社に権限を委譲させて、本社は企画部門などを中心にしていく方向性が示された訳で、昭和32年12月には公共企業体審議会が、「現行の支社制度を強化徹底し、独立採算制に近づける」ことを答申し、最近、産業計画会議は、「現在の国鉄は経営単位が過大なため中央の意思が末端にまで行き届かず、かつ、現在のような全国的プール計算では、経営努力によって黒字となりう る路線の赤字に対しでも経営者は不感症となり、赤字経営の原因も責任も不明確となるから、 事業の円滑な る運営を期待するためには、特殊会社による国鉄の分割経営を 行う」ことを勧告した。

産業計画会議 国鉄は根本的整備が必要である から抜粋

産業計画会議 国鉄は根本的整備が必要である から抜粋

とされており、国鉄という組織に対して、GHQの頃には、足下に置いておきたいとして、官僚制を温存させたものの、ここに来て公社は独立採算制を意識させたり、産業計画会議のように、国鉄を場合によっては特殊会社による分割せよと踏み込んでいます。

こうした背景もあり、国鉄本社の権限を降ろして、本社はスタッフとしていわゆる戦略を練る参謀として、支社を地域の実情に応じた地域会社としての機能を期待したもので、昭和32年の発足後も何回かにわたって、その権限が支社に降ろされることになりました。

支社による積極的経営を期待

支社制度の発足で、支社長の権限が拡大することとなり、人事権の拡大や工事費予算などの決裁も、3,000万円以下(現在であれば概ね3億円)の工事を計画し、施工することができるとされるなどとなっています。
当然のことながら、そうした権限があると言うことは、その責任もあると言うことになるのですが、どうしても上意下達が当たり前になっている官僚組織としての国鉄では、その辺がうまく機能していなかったきらいもあったように見えます。

最も、四国のように関西支社から分離した四国支社のように比較的小さな組織であったことから、支社と管理局が一体となることから、独自に経営改善計画を策定して、大きな改善を図り、業務の改善を図ったとされています。

以下にその概要を、箇条書きで書いてみたいと思います。

 旅客車について

  • 大量のディーゼル・カーを一挙に投入して、全線のDC化・無煙化を図る
  • 気動車の特性を生かして小単位の列車を可能な限り頻発
  • スピード・アップと準急の増発を行って輸送の近代化を図る
  • 中間簡易駅を増設して、速くて、安くて、待たずに乗れるをモットーに改善計画を推し進める

 貨物輸送について

  • 車扱貨物取扱駅の廃止を断行して一七二の貨物取扱駅を概ね三分の一程度の中心駅に集約、貨物列車のスピード・アップを図ると共に車両の生み出し、貨物の速達を企画
  • 集約駅の貨物設備改善計画を積極的に推進
  • 新鋭連絡船の建造を計画

最後の新造船の計画は、本社での決定事項となると思うので、本社への具体的計画という意味合いと理解しています。

 参考資料として

 更にこの辺を以下の国鉄線という雑誌にその当時の取り組みが書かれていましたので、併せて参照してみたいと思います。

一部抜粋して見たいと思います。

 四国支社では昨年の九月「四国鉄道の経営改善」を企画され、支社長みずから改善計画についての詳細な説明に当られ、本社としても斜陽化しつつある四国の鉄道を救う手段として、その方向はまことに尤もであるということで、方針的にも又ある程度予算的にもこれを了承することになったわけです。そこで支社では輸送改普、経営改善の実施に踏み切られて、徳島県を手始めとして既に数線にわたって実績をあげておられますし、また今後も引きつづき線区ごとの改善を実施して行かれるように伺っております。

 中略

まず最初に、終始この仕事に関係してこられた企画室長さんから大体の経緯を御説明願います。
瀬戸 四国は御承知のように地勢的にいろいろ不利な条件におかれておりまして、船舶、自動車、さらに最近では航空機などの交通機関にだんだん蚕食され、まさに救いがたい状態・・・言うなれば亡び行く斜陽鉄道の縮図といったようなありさまです。従って経営面も、33年度におきまして46億円の純収入をあげるのに74億円の経費を費やし、差引28億円の赤字を出しております。そういう状態のもとに、昨年4月支社が発足しまして、これを契機に従来の情性と依存性を一切断ち切り、支社だけの自主独立によって、この倒産しかかった四国の鉄道を建て直そうじゃないかということになったのです。建て直し策の骨子は、客貨の輸送方式を抜本的に改善して、近代社会に即応するサービスを提供するということで、そのために旅客輸送ではディーゼル化による思い切ったスピーディなフリーケント・サービスを行い、貨物輸送では車扱の集約と設備改替をして増収をはかっていこう、また内部的には経費を節約し、企業意欲に燃えた運営をしていこうということでありました。そうすれば、斜陽化のどん底にあえぐ四国の鉄道を再建することは決して不可能ではないという信念のもとに、支社発足直後の昨年五月、旧四鉄局時代の無煙化促進委員会を発展的に解消して、輸送近代化委員会というものをつくり、ディーゼル化、貨物輸送の近代化、輸送施設の精強と近代化、れから水陸連絡輸送の近代化、さらに保守修繕の合理化などを総合する具体的な愉送改善案を練りました

四国支社発足

国鉄昭和35年9月号

 四国支社は、元々は関西支社から分離したものですが、四国鉄道管理局と支社が一体化したので、より意思決定は早かったと思われます。
また、すでにまだまだ自動車道などが完成していない時期にあって、すでに厳しい状態であったことが新ためてうかがえます。

四国は、支社制度廃止後は四国総局として、独自の施策を行っており、すでに合理化などもある程度まで進めていましたから、九州・北海道で問題となった余剰人員問題もほおこらず一部、不採用があったようですが、希望した職員は殆ど採用されたと聞いています。

 

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