日本国有鉄道労働運動史【鉄労視点】

日本国有鉄道労働運動史、鉄労視点で綴るblogです

国労内で民同右派による分裂運動(新潟闘争前) Ⅲ

前回は、動労国労が解雇者を専従役員に据えたことで、国鉄当局が反発したところまで書かせて貰いました。

今回は、解雇者の専従役員のことについて少しだけ掘り下げてお話をさせていただこうと思います。

専従役員とは

専従役員とは一般的には下記のように定義されています。

労働組合の活動に専念する者。使用者により従業員としての身分が保障されながら、一定期間組合活動に専念する在籍専従者と、それ以外の非在籍専従者(離職専従者)とに分けられる。一般には前者をさす

引用:コトバンク

kotobank.jp

国鉄の専従役員もILO87条が批准されることで、組合専従者とする場合、期間5年、組合専従期間は勤務時間に反映されないなどの組合にすれば改悪とも言える部分もあったようです。

 

さて、ここで改めて昭和30年代の国鉄の専従者の歴史について振り返ってみたいと思います。

国労の場合ですが、専従役員再任までのきっかけは以下の通りでした。

昭和29年

国鉄、年末闘争の3割休暇戦術等が公労法第17条違反であるとして、国労本部委員長他、三役幹部と企画部長岩井章ならびに地方役員、合計18名を23日付けで解雇 1/22

今回は地方における末端の組合員に対しても責任を追究したことから、組合側を強く刺激することとなった

注:鉄労の資料では、1/22解雇発令は、国労本部委員長他の三幹部並びに岩井章企画部長であり、1/23に地方役員が解雇となっています。もう少しその辺を確認して加筆修正します。

国鉄当局、解雇者が再選の場合は組合を法外組合と認め、団体交渉等に応じないと国労に警告 5/12

国労第13回全国大会等開催 山形県上ノ山 5/15

第13回全国大会及び第36回中央委員会が開催され、29年度の運動方針として、業務方針や党幹部の決定を行った
運動方針は、不当処分の撤回、生活向上の闘争等五項目
国労は当局の警告にも関わらず、解雇された役員を再任したため、組合を法外組合と認め、団体交渉等に応じない事態となった

当局からの警告を無視した組合幹部

国鉄当局は、国労内の民同左派が台頭しており、国労は当局からの事前の警告に対して、さほど大きな問題ではないと軽く考えていたようです、実際には本格的な警告であったわけで、その後国労はその対応に苦労することとなります。

その辺を国鉄民主化への道から引用してみたいと思います。

期日も迫り、いよいよ役員達も上ノ山(山形県上ノ山温泉)へ出発しようとした矢先へ、国鉄当局から、「解雇処分を受けた三役を、大会で再選した場合には、"法外組合"となるから団体交渉は出来ない」という警告があった。

13日に、副総裁の天坊と職員局長の井上が、委員長の柴谷と副委員長の土門に会って、この警告をしたという・・・・中略・・・・柴谷は、これを警告という正式なものとは思わず、当局が密かに腹の内を話してくれた、程度に受取。「組合でよく相談しましょう」と言って帰った、と言う。

 ところが、これが翌朝の各新聞に大きく報道された。新聞へ発表するための警告であったわけだ。政治好きと言われた"井上労政”の始まりだった。

国鉄民主化への道 P211~212

民同左派と革同派の主流派と、追いやられる民同右派

この背景には、当局からすれば民同左派と革同系が組合をどんどん左傾化していくことへのいらだちがあったように見えます。

当局側の言い分としては、国鉄等の公社の場合は、公共の福祉の上に公労法があり、国鉄法があるとして、少なくとも当時の当局としては、国労が今一度原点に帰ることを望んでの発言でもあったわけです。
それは、国有鉄道 1954年8月号 岐路に立つ労働問題で、以下のように述べています。

公共の福祉を擁護し確保するためには、国鉄の理事者は理事者としての義務があるのと同様に国鉄労働組合は、公労法上の組合としての義務のあることを忘れてはならない。
この義務は、公共の福祉のために課せられた責任であるともいえるであろう。
権利の主張に熱中するあまり、この義務と責任に対する感覚がまひしているような傾向が激しくなっている現実は、大いに反省すべきである。

これは、民同左派と革同派が国労内で力を付けて、いたことに対して当局もかなり神経質になっていたわけで、「権利の主張に熱中するあまり、この義務と責任に対する感覚がまひしている」の文言に国鉄当局の国労に対する考え方が凝縮されていることを理解いただけると思います。

しかし、国労はこの時点で当局のこうした思惑を理解できず、解雇者を三役に再選することで、戦う組合としての面子が立つとでも考えたのかも知れません。

実際、解雇処分を受けた元国労企画部長の岩井章は、委員長だけでも改選を主張してかなり煙たがられたそうですが、岩井本人としては、"法外組合"と言われることを恐れたと言われており、更には新生民同派(いわゆる民同右派)が分裂することを恐れたわけですが、結果的には民同右派は、管理局等の非限機関を中心とした職能別組合、更には新潟闘争での新組合の結成などに流れていくこととなります。

当局の警告は。結局は革同派や民同左派にしてみれば、解雇者を三役にすることで当局が首謀者を解雇したくても解雇できないから、処分反対闘争は自分たちの勝利になると判断したわけです。しかし当局は、当初の予定通り、法外組合として認定したため、24条協定の組合費などの控除が行われなくなりました。

この措置は昭和30年9月6日まで続いたようです。

続く

 

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