いつもは、「国鉄民主化への道」から、アップさせていただくのですが、今回は少し毛色を変えて、国鉄部内紙(国有鉄道 昭和31年10月号)の記事「国労大会」から見ていこうと思います。
当時、機関車労組は、国労から分裂していましたが、まだ鉄労は誕生しておりませんが、翌年の新潟闘争の引き金となった、「白新線要員闘争」や、西宇部闘争(後述)に対して、国労の中で、闘いが中途半端でなかったのかという批判が出たりしています。
新潟闘争勃発前の話
話は前後するのですが、今回は初めての春闘後の動きとして、昭和31年に実施された国労大会の様子からお話しをさせていただこうと思います。
新潟及び広島の代議員から、春闘に対する批判が出ていましたが全体的には落ち着いた大会で会ったと記録されています。
ただ、新潟・広島の代議員からの批判が大きかったと書きましたが、この二つの拠点は革同派*1や共産党の強い地域であり、国鉄本社でも注目していたそうです。
特に、この二つの地本が、春闘と関連して問題行動を起こすこととなります。
新潟は、白新線要員闘争として、当局と対立したもので、新潟闘争の伏線となった争いと言えるものでした。
厚狭支部の山猫ストは後ほど詳述しますが、厚狭支部に押し切られる形で本社が追認する形となり、翌年の新潟闘争では本部は地本の動きに同調することはなかったのですが、この頃から、本部も拠点における革同派や共産党派との距離を置くようになっていたと思われます。
国労内で過激な運動を見せる、革同派や共産党派
当時の国労大会の様子を国有鉄道 昭和31年10月号から引用したいと思います。
国鉄労組は、8月13日から18日まで6日間、伊勢市で、第15回定期全国大会を開催した。大会の主要議題は、役員改選、運動方針、賃金方針並びに業務方針の決定及び規約の改正であったが、大会の論議は、全会期を通じて、比較的低調であつた。
広島、新潟等の代議員が、春季闘争、夏季闘争の妥結に際して、その妥結の条件があいまいであり、特にベース・アップの間題が明らかにされていない、春闘では、まだ戦う余力があったのに、なぜ打切ったのか、と云った批判、西宇部、白新線の闘争等に対し、本部の指導性が足りなかったために、全国的な闘争に盛り上げることが出来ず、あのような結末に終った、と云う批判等があり、夏季闘争と選挙闘争との混同等が指摘されたが、白熱的な論議がなされる、と云う乙ともなく、執行部の答弁に強い反論も行われなかった。
ここで、春闘自体が中途半端に終わったと指摘しているわけですが、確かに調停案にに則り国鉄だけが先駆けて妥結した事へに対して、マスコミなどからは逆に批判されることになっているように、より左傾的組合からすれば不十分と感じたと言えそうです。
西宇部・白新線の闘争とは?
西宇部、白新線の闘争に関しては、白新線の闘争は、直接その後の新潟闘争への引き金となりましたので、下記のとおり弊ブログに詳細を書いていますので、改めて参照していただければと思いますが、概略を申し上げると、白新線というバイパス線が開通するにあたり。当局が算定した要員に対して組合側の要求する要員が過大(当局は68人、組合側は94人)であり、当局が譲歩して71人としたが納得せず、順法闘争や開通式典で組合が乱入したといった事例であり、最終的に要員が不足すれば再考するということで妥結することとなりました。共産党が背後にあり、人民闘争にさせないためにも、厳しい処分を科したかったものの、本社は「きつい処分をしない」という温情主義を示しました。
その結果、国労新潟地本は更に増長することとなり、その後の新潟闘争の伏線となるのでした。
西宇部闘争とは
昭和31年6月6日に行なわれた山猫スト(労働組合の組合員の一部集団によって行われ、組合所定機関の承認を得ることなく独自に為されるストライキのこと)で、完全に組合管理の様相となり、宇部線と小野田線が完全マヒ状態になってしまいました。
当時のヘビーユーザーである、宇部興産。小野田セメント、日産化学、宇部ソーダ等の荷主からなんとかしてくれという苦情が本社に入ったそうです。
余談ですが。宇部興産の専用道路が建設される背景にはこうしたストライキが直接の原因であった事はよく知られた事実です。
このストライキも、元々は山猫ストですので、当然のことながら国労本部がうかがい知らないストでした。当時は現在のようなネット社会ではなく、地方の紛争であり東京の新聞は黙殺していたので、国労本部でもその実態は掴めていなかったそうです。
結局、広島地本からの要請で、国労本部が「闘争指令」を出したのは、上記の6月6日であり、闘争からすでに5日を経ていたのでした。
これには、国労も厚狭支部の闘争を山ネコストにしないための措置だったわけですが、その背景には情報の圧倒的不足と本部が介入することでなんとかしようとしたみたいです。
31年6月6日に国鉄本社へ、「山陽本線の西宇部駅(現在の宇部駅)、小野田駅、宇部港駅で職場闘争をしており 、宇部線と小野田線が完全にマヒ状態になっている。なんとかしてくれ」と、両線沿線にある宇部興産・小野田セメント・日産化学・宇部ソーダ等の荷主から、陳情してきた。山口県の一地方の紛争で、東京の新聞は黙殺していたので、国労本部さえも何が何だかよくわからなかった。
国労が広島地本からの要請で、「広島地本の厚狭支部の闘争を支持する」というような「闘争指令」をだしたのは、ストに入ってから5日目の6月6日になってからだ。厚狭支部の闘争を”山ネコ"にしないためと、本部が介入しないければ解決困難になってきたらしいので、"追認指令”をだしたわけだ。
職制マヒ闘争で現場は疲弊していくことに
山猫ストとなれば、元々国鉄のストライキ自体が違法であるにも関わらず、さらなる違法状態になるわけですから、職員が解雇されても組合が守ることができないため、追認の指令を出すとともに、本部預かりすることで、組合員を守るとともに。早期の収集を図ろうとしたと考えられますが、結果的には首謀者である3駅(西宇部・小野田・宇部港)の組合員14名を懲戒免職、他減給44人、訓告95人の大量処分を発表したとされています。
最終的には、解雇者14名の内7名の処分を停職1年として、減らした連結手も1名減員するものの臨時補充員を1名入れると言うことで解決(実質的な当局側の譲歩)という形で収拾されましたが、このような当局側の温情主義と言いますか、譲歩が組合を更に増長させることとなり、前述の「西宇部、白新線の闘争等に対し、本部の指導性が足りなかったために、全国的な闘争に盛り上げることが出来ず、あのような結末に終った」という発言に繋がったと言えそうです。
なお、宇部の闘争に関しては共産党が白新線で行なった手法を取り入れたというか直接指導していたようで、職制をマヒさせる闘争であったことは明白であり、こうした職制マヒ闘争が昭和40年代には現場協議制に入っていくこととなるのですが、その辺は又後日詳細を明らかにしていきたいと思います。
続く
次回は、国鉄での支社制度発足について書かせていただきます。
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