国労中央本部の指示が届かない?指令ボイコット及び指令以上の過激な行動する分会も・・・・一枚岩ではない国労を露呈
再び2ヶ月ほど空けてしまいましたので、改めてアップさせていただきます。
政府が国鉄の労働者処分を検討していると思われる発言をして物議を醸すことに
前述の通り、国鉄で行われた抜き打ちストなどに対して、処分が検討されていたわけであるが、当時の労相、松浦周太郎は以下のような発言をした。
労相の松浦周太郎は、32年5月3日、名古屋での記者会見で「国労の解雇処分は、40人、31人、18人という3案がある。処分するにも革同派と民同派のバランスを考えている。他の公社には解雇は出ないだろう」と語った。各新聞は大きく報道した。「調停案や仲裁裁定をめぐる問題で、公社当局をおさえて全面に出てきた政府は、処分まで自分の手でやる気でいるようだ」と国鉄当局の話題になった。*1
国会でもこの問題は話題に
結局、この労相の談話は、国会内でも問題となり、特に社会党からはこのような発言以前に、仲裁裁定がきちんと行われていないことが問題であり、処分を行うという発言以前に、政府がきちんと仲裁裁定を実施しなかったことにその問題があるとして追求したとされています。
当該部分を引用してみたいと思います。
社会党が一重点をおいたのは処分問題であったように思う。
ことにこの問題で社会党を刺戟したのは、松浦労働大臣の名古屋における記者会見問
題であり、いま一つはこれに関連して政府の処分干渉問題である。
しかも社会党の強く主張したのは、いわゆる三、五波闘争に入る前夜の岸、鈴木両党首会談における「処分は慎重に考慮する。」という点であった。一方自民党は主として3月23日の実力行使を対象とし国民の世論を背景として法律を守れと叫び、いやしくも法に違反するものには断固たる措置をとれと政府を鞭撻した。社会党の処分反対の論拠は、仲裁々定を政府が完全に実施していないで一方的に処分するのは片手落であること、二十三日の実力行使はあげて政府の責任であること、処分は公社の責任であるのに不当に枠をはめて政府をもって干渉したこと、岸、鈴木会談の約束をじゅうりんしたことなどであった。
国労、午後2時から業績手当て問題で、スト突入 3/23
政府は国鉄当局を通じて、業績手当支払いを承認しないと通告、理由は3月26日に実施を予定していたストライキを中止することが条件であるとして26日のストライキを中止しない限り業績手当を支給しないと説明されるが、午後2時を経ても支払われないことから、国労は順法闘争並びに職場大会に突入、る国鉄の貨物輸送は文字通り麻痺状態となった、運輸大臣の支給命令で5時に解除
引用終わり
とあるように、現在であれば差別用語と非難を受けそうですが、当時の社会情勢及び歴史的資料として、当時の文言をそのままでアップさせていただきました。
ただ、ここで社会党が問題にしているように、仲裁裁定を完全実施しなかった政府に問題があるとわけで、これに関しては社会党の見解に賛成せざるを得ないわけです。
以下は私見ですが、政府が仲裁裁定を反故にしたことで結果的に国鉄の組合を更に左傾化させていく結果となる訳ですが。政府の判断がアクセルを踏むべきところで、ブレーキを踏んでしまう、そんな傾向があるように思えてなりません。
その結果、組合は余計に階級闘争にのめり込むこととなり、組合と当局の分断が図られることとなったと言えそうです。
国鉄当局で処分発表
5月9日、国鉄本社並びに鉄道管理局で処分者の発表が行われた。解雇処分通告を受けたものは、国労24人、機労4人と発表され、その日の夕刊の見出しは「解雇28人、停職、減給など705人の大量処分」と発表されました。
実際には、23人、処分者を当局が水増しして発表していたからと言われている。*2
国労・機労は処分撤回闘争を実施
処分発表の二日後、国労・機労は処分に反対する闘争を実施、国労は全国1,000カ所の職場で3時間の職場集会と順法闘争、機労は各支部で一カ所を指定して3時間の職場集会を実施したとされています。
春闘処分を巡って動き 5/11・12
国労・機労の春闘に対する責任者の処分は、28名の解雇、675名の停職・減給などという未曾有の大量処分となったが、組合はこの処分を不当とし、648の駅と操車場で3時間の職場大会を実施し輸送に大きな支障を与えた。しかし一部の地本は指令返上
しかし、ここに書いていますように、一部の地本で指令返上をしたことは、国労本部の幹部にはショックが大きかったようです。
指令返上もしくは拒否した分会は下記の通りでした
こうしてみますと、大阪地区での指令返上等が目立ちます。
特に、大阪・京都・神戸各駅及び吹田操車場(駅)が指令返上したというのは、中々意味深いものです。
逆に国労本部の指示を無視する地本も
このように、本部の指令に対して堂々と指令を無視する分会もある反面、勝手に指示以上の運動をする分会もありました。
その一つが革同の拠点でも有った広島であり、概要は以下のようなものでした。
国労が6月4日5日両日に直接輸送業務に支障を来さない、非現業の鉄道管理局や保線区等列車の運行に直接影響がない職場で、夏期手当の要求を求めて3時間程度の職場集会を指令したところ、広島の第二支部(本局・機関区・広島駅を除いた各職場)が、中央本部、並びに広島地本の指令を無視して、輸送に混乱を来す、車掌区と客車区を職場集会の拠点に指定、出勤者の半分が職場集会に出席したことから現場は大混乱となったもので、慌てた国労中央本部は、慌てて5日午前11時に闘争中止を指令したというものであり、職場集会の支持に指示に従わない分会がある反面、同じく中央の指示に従わず更に過激な運動を行う組合が出てきたことは、国労本部も強い危機感を持ったと言われています。
国労大会は荒れることに
こうした危機感を包含したまま、国労大会は6月22日~27日まで松山市で開催されたそうですが、ここではやはり、指令返上が続いた関西と、その反面中央の指示を無視して更に過激に走った広島の二つが問題とされたそうです。
この辺に関しては、国労大会を傍聴した、朝日新聞論説委員の江幡清氏が、「国労松山大会を聴いて」という記事を国有鉄道という部内紙に寄稿していますので、抜粋して見たいと思います。
国鉄労組は、総評や官公労の中心的な組合として、組合外部からは強い組合といわれ、自分でも強い、強いと思い込んでいたわけであるが、それが春闘を経過してみると、組織のあちこちに弱点がでてきた、強いはずのその足もとに大きな穴があいておっていつ崩れるかもしれないという危機を痛感させられた、ということである。
組合の統一をまもるために何とかしなければならない、ということを身にしみて感じたわけで、それだけでも大会の成果は一応あったといえる。*3
国労としても、改めて組織のほころびが出ていることに気づかされるわけですが、ここで体制を建て直そうとしていた矢先の7月9日、新潟闘争が勃発するわけです。
この大会は紛糾し、弱い大阪と強すぎる広島として延々10時間議論が続いたと言われています。(23時まで議論が行われている)最終的に以下のように纏めたとされている。
「指令返上は良くないことを素直に認める。本部も地方も欠陥は認め、指令返上が右派幹部の引き回しである、と言うような運動方針の文句は削除する。また広島の闘争については、ハネ上がりだと決めつけることはせず、全般的に横に広げるようにする。今後戦術的に誤りを犯さないことにする」
と言ういささか総花的な形で集約を行うのですが、この国労の性質は国鉄末期まで変わることはありませんでした。
革同派は国鉄の中では、共産党により近いところで活動しているところがあり、国労大会でもかなり抵抗したとされています。
特に、革同・共産派の相田一男(新潟)(その後新潟闘争の首謀者の一人)は、以下のように発言したとされています。
「牛には角も足も尾もある。それぞれ役目が違う。足ばかり大事にすると角が衰えて、角のない牛ができる。地方に指令権を移せ。10月にゼネストを打て」と喚いていた。*4
と書かれていたように、国労の中でも革同と呼ばれるグループは、国労の中でも特に過激であり、その拠点は新潟と先ほど出てきた広島でした。
続く
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