日本国有鉄道労働運動史【鉄労視点】

日本国有鉄道労働運動史、鉄労視点で綴るblogです

国労と賃金闘争の話、業績手当支給に政府が介入して大混乱を招くことに

三ヶ月近く更新もままなりませんでしたが、改めてアップさせていただこうと思います。

今回は時系列的に行けば新潟闘争そしてその前の白新線での要員問題などになるのですが、同じ話を繰り返すのもあまりよろしくないので、今回は一気に駒を進めて新潟闘争以降の話しに駒を進めたいと思います。

その前に、国労40年史に新潟闘争のことが書かれていたのですが、中々客観的に書かれておりますので、合わせてここで新潟闘争に至るまでの概略を引用しながら書かせていただこうと思います。

 

当時の国鉄当局と組合の関係はかなり強い緊張関係にあり、生産性運動以降のなれ合い的体質ではなく、当局は違法ストライキの首謀者を解雇などの処分攻撃を打つのですが、組合も解雇者を役員にすることで対抗、解雇者が組合の役員をやっているので解雇することが出来ないと言うことで、民同右派などからは敬遠されることとなりますが、昭和32年春闘では、国鉄当局側にも非があると言わざるを得ません。(もっとも、この点に関しては、「国有鉄道昭和32年6月号 仲裁裁定前後」と言う記事に出てくるのですが、政府は良好な労使関係を作るべきだと言いながらも実際には、国鉄などの公社の予算は、国でしばられていることから、自由にお金を動かせない。

新潟闘争の直接のきっかけとなったのは、国鉄当局が年度末手当を支払わないと言ったことから直接の要因で有り、結果的にそれが大きな問題へと発展していくことになります。

少しその辺を引用してみたいと思います。

闘争のきっかけは、国鉄当局による業績手当の支給中止からだった

新潟闘争に至る闘争のきっかけとなったのは、昭和32年春闘の後に予定されていた、最低賃金法 に関するストライキ【総評と連動して3月26日実施予定】を前に、当局が支給を中止すると言う措置を取ったためと言われているが、その当時の経緯を調べてみると以下のように記述されています。

総評は、前年の第6回大会で、賃金闘争方針について---

<広大な労働大衆の賃金水準を引き上げるために、最低賃金引き上げの統一闘争を起こす。地方別でも業種別でも、産業別でもよい。・・・・同時に、最低賃金8,000円を含む最低賃金法制定のために各組合毎に8,000円以上を要求する職場闘争を起こし、国会内外の共闘に発展させる。*1

と記述されているように国労としても最低賃金法獲得に向けて行動をしていた矢先、当局から業績手当は支給しないと言う通知がなされたことがその原因とされています。

こうした国鉄の動きに対して、大蔵省は国鉄当局と労使は双方で馴れ合ってヤミ賃金を支払っているのではないかという疑念を持ち、終始国鉄に対しては冷淡な態度であったと言われています。

その背景には、昭和28年に起こった鉄道会館問題などに関連するなれ合い体質という国鉄自身の脇の甘さにあったのですが、この辺は今回の話しからは関係ないので割愛します。

国鉄としてみれば、労使紛争を防ぐ手立てとして、賃金で片が付くのであれば国鉄としては払いたいという意向があったのですが、前述の通り大蔵省は当局と組合が馴れ合ってヤミ賃金を払っているして【決めつけて】それを阻止しようと、政府がストップを書けたのでした。

公社の賃金の決定権は大蔵省【現・財務省】?

この辺の事情を再び、公労協スト権奪還闘争史から再び引用してみたいと思います。

政府は、調停案協議、仲裁委員会持ち込みの態度を示し、各後者もその態度を受けて調停案に対する態度を明らかにしていなかった、各公社もその態度を受けて調停案に対する態度を明らかにしていなかった。

なお、この時の調停案は、国鉄にあってはかなり労働者側に有利なもので、労働の実態から見て必ずしも適当と言えないので速やかに是正の措置を講じること、本年度内に一時金【ここでは業績手当】を支給することといった内容であり、機労【後の動労】以外は、組合としては調停案で妥結するとしていましたが、こうした調停案を政府が一方的に認めないとしたわけです。*2

この背景には、政府の公社に対する考え方が有りました。

三公社のベースアップに政府が介入することで混乱を招くことに

三公社のベースアップに政府が介入することで混乱を招くことに

国鉄法改正は、政府の介入をしやすくするように

政府は、積極的に公社の経営に口を挟む形となります。

この点は、国鉄を公社化する時と何ら変化はありませんでした。
国鉄を公社化する際も、国鉄を常に監視下に置きたい政府、更には旧運輸省にしても、公社という組織に改編することの精神的劣等感もあり、最終的には極めて政府が介入しやすい組織ができあがってしまいました。

 

国鉄に対して政府が圧力をかけることに

その結果、国鉄自身は公共企業体と言うことで、民間的手法を取り入れてより効率的な経営を求められつつも、国鉄時代が予算に縛られ、その予算も国の承認がいることになり、自由性がかなり束縛されることとなりました。

国鉄の経営に関して、本来であれば企業でもなく政府の機関でもない位置づけの公共企業体ですが、斯様に国鉄運賃等の部分に政府が介入してくる背景には、昭和31年の国鉄法改正も大いに関連していると言えます。

日本国有鉄道法の一部を改正する法律 法律第百五号(昭三一・五・一五)

この法令改正により、役員の任免などにも政府の意向が強く関わることとなり、それに関連して賃金なども他の現業同様に政府が口を挟む形となり、この辺が国鉄の労使関係を悪化させた一因ではないかとも言えます。

 

国有鉄道法改正についての懸念事項として、日本国有鉄道法の一部改正についてと言う論文の中で、「役員の任免員の任免等についての政府の監督は強くなった」として、以下のような記述がなされています。*3

少し長いですが該当部分を引用します。

役員の任免責任についての政府の監督は強くなった。
役員の任命等について政府の監督を強化することは、今回の法律改正の大きな目的の一つであることは、さきに述べた提案理由の中にも明らかなところである。*4
すなわち、従来は、総裁は経営委員会の同意を得て内閣が任命することになっていたのを直接内閣が任命し、副総裁及び理事の任命には運輸大臣の認可を要し、監査委員会は運輸大臣が直接任命することになった。政府の意向が役員の任免に強く反映する事は、やむを得ないない事であるが行政と企業との分離という国鉄企業庁仲発足の経緯から、また企業を政治的影響から隔離するという立場から、さらには最近の公企業
等の最高責任者の選考にみる政治的色彩の強さ等からみてその運用についていささか
危惧の念を抱くむきのあった事は事実である。

と有るように、占領期間中はGHQ/SCAPの影響もあって、政府の配下におけなかったものの独立したことから再び政府の管轄下に置こうという意図が大きく働くようになり改正でした。

元々は自主性を持たせるべき組織として誕生した、国有鉄道でしたが、総裁の内閣による任命や副総裁以下の任免には運輸大臣の認可を要するなど、先祖帰りしたような部分が多々あったのは間違いないわけで、特に予算面に関しては政府の意向、最終的な名予算に関しては大蔵省の意向が働くなど、大幅に自主性を奪われてしまう事になります。

 

再び、ここで組合での派閥について見ていきたいと思います。

国労本部は、23日のストを指令するも、五月雨式に山猫ストが発生

国労40年史では、抜き打ちストと書かれていますが、実際には本部から14:00迄に解決しないならばストライキ突入を指示したとあります。

以下は、公労協スト権奪還闘争史から抜粋した内容と国鉄民主化への道を参照しながら時系列的に纏めたものです。

こうした、突然の政府介入に対して調停案を認めないとした訳ですが、以下のようなやりとりがあったようです。

3月22日 小倉俊夫国鉄副総裁から小柳国労委員長に電話があり、前述の通り26日の実力行使は総評による最低賃金確保に関する統一ストライキ・・・これに対して、政府の意向と言うことで払わないとなったため混乱が生じることになりました。

その後を時系列に書きますと以下のようになります。

 3/22 時間不明:小倉副総裁から小柳国労委員長への電話会談は決裂

 3/22 22:00   :交渉再開、24日は日曜日であり23日支払わなければ大混乱になると警告、国鉄当局側は政府と折衝するので3/23 9:00迄の猶予を提案

3/23    9:00  :兼松職員局長から国労に 9:30~運輸・大蔵大臣の政治折衝が行われる旨連絡

3/23  11:00  : 14:00迄に解決が付かない場合は実力行使をする旨通告ストを指令した 

・・・五月雨式に現場では職場大会などが開かれ、国労本部も収拾が付かない状態に

当時の大蔵大臣は後の首相池田勇人であり、大蔵省出身の池田にしてみれば0.12ヶ月分の業績手当はヤミ賃金であると決めつけていた節があったようで、雲隠れしていたそうです。

ここで問題となったのは、国鉄としては、業績手当が給与と一緒に支払われるように準備していたことであり、22日の夕刻に業績手当の支払いを待つように現場に連絡されたため、大きな職場では23日に月給を渡すのが不可能となり、職員は職場に来て給与が手当も延期されたことが延期となることを知った次第であったと言うことが大きな問題でした。結果的に、一部の分会では職場集会を始めるなどの混乱が生じ、東京駅でも午後3時頃からはホームに駅員の姿が見えなくなり、列車・電車の運行は混乱が生じることとなった。

この事態を見て事の重大さに気づいた政府は15:00頃、大蔵事務次官の平田と運輸事務次官の荒木が会って、15:50、運輸省国鉄総裁に業績手当の支払いを承認した

その後、国労・機労と当局の交渉が16:10から行われ17:00にはスト中止の指令が出されますが、各所で駅員が暴行されたり、駅長が監禁されたりして東京周辺の混乱が収まったのは24日の2:00であったと記録されています。

この山猫(抜き打ち)スト【最終的に国労本部が追認】では、旅客列車が111本【電車106本含む】他貨物列車も229本が運休したと記録されています。

国労では23日、分会毎に当局の指令より前に職場集会等に入る組織が多く、結果的に追認する形となった。

国労では23日、分会毎に当局の指令より前に職場集会等に入る組織が多く、結果的に追認する形となった。
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国鉄があった時代 JNR-era
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*1:公労協スト権奪還闘争史 P466

*2:公労協スト権奪還闘争史  P469

*3:雑誌 国有鉄道 昭和31年7月号 P4

*4:国鉄
の業務運営の現状にかんがみ経営委員会を廃止して、新たに理事会及び監査委員会を
設け、役員の任命等について政府の監督を強化し、財産の管理について規定を整備する』ことを主たるねらいにしている 雑誌 国有鉄道 昭和31年7月号 P3参照