日本国有鉄道労働運動史【鉄労視点】

日本国有鉄道労働運動史、鉄労視点で綴るblogです

もう一つの国労からの分裂、職能労連

国労から分裂した、新生民同派

国労の新潟闘争は、新潟地方労組を結成することとなりましたが、それ以外にも国労を脱退した、「労働問題研究会」というグループがありました。

彼らは、国労内の新生民同派(いわゆる民同派右派のグループ)と呼ばれており、職能別の組合とすることを目的としていました。

新潟闘争前の、昭和32年6月松山市で開催された国労大会で下記のように解雇された職員が専従役員に選任されたことに対して反発を感じたわけで、っくろうないに設けられていた職能別協議会を発展させて、職能別組織として再編しようと考えたそうです。

国労第16回定期大会開催、解雇三役を再選 6/22~6/27

松山において国鉄労組の全国大会が開催された、結局、国民の信頼をかちえなけれぱならないこと、より姿勢を低くするとも、組合の統一ある行動は守られねばならぬことに結諭を見出した
しかし、役員の改選に当っては、解雇された3役が再選されるという結果になり、今後団体交渉などについて再び問題を残すこととなり、その成行は注目される

jnrera.starfree.jp 職能労連とは?

鉄労【その前身は新国労】は、新潟闘争から生まれた新潟地方労組さらにはその少し前に結成準備を行っていた職能労連を母体として国労の民同右派と後に呼ばれるグループで、民社党を支持していました。

国鉄の職能労連、正式名称は国鉄職能別労働組合会議と呼ばれる組織でしたが、新潟地労とは別の経緯で国労から分裂したものの、労使協調と反共、を活動方針にしている組合である点は共通しており、全日本海員組合(海員)」・「全国繊維産業労働組合同盟(全繊同盟)」・「全国映画演劇労働組合(全映演)」・「全国石炭鉱業労働組合(全炭鉱)」と呼ばれる、民間の右派組合によって設立された全日本労働組合会議から、設立に際して支援を受けたと言われています。

職能労連設立までの時系列を見てこうと思います。

当時、職能労連結成に対して二つのグループがありました。

その一つが、職能別組織を考えていた、国労内にあった、職能別協議会(職能別派)であり、この組織を母体としての組織作りを考えていました。

これとは別に、旭川市では、「労働問題研究会」と呼ばれるグループで、組織の指導には、戦前の転向で戦後は反共理論を展開する、鍋山貞親と三田村四郎が指導していると批判していたそうです。

1957年7月4日 「労働問題研究会(労研派)」が新組合結成準備会を設置

1957年7月21日 労研派と、職能別派による合同会議を開き、新組合の組織について協議し、職能別で行く方針が決定されました。

1957年11月20日~21日 東京茗荷谷ホールにて結成大会が開催され、新組合への参加者は、11,800人と発表

1957年11月26日 国鉄本社と最初の団体交渉を実施、年末手当1.8ヶ月分で妥結

ちなみに、

結成大会前の、職能別組合の結成状況は以下の通りでした。

昭和32年10月職能労連結成状況

昭和32年10月職能労連結成状況

職能労連が誕生した背景には、総評における社会党の考え方も

総評は社会党を支持してきましたが、サンフランシスコ講和条約日米安全保障条約の調印において、全面講和か単独講和かで世論が割れたとき、共産主義ソ連、中国【中華人民共和国】との講和を含める全面講和を支持する左派と、そうした共産主義を排除したい右派に分裂、社会党を支持する総評にあっても、単独講和を支持する社会党右派を支持する右派労組(全日本海員組合(海員)・全国繊維産業労働組合同盟(全繊同盟)・全国映画演劇労働組合(全映演))が中心となって、総評を離脱していました。
こうした流れの中、国労では懲戒免職された職員が組合専従役員として就任することとなりこれに反発する、新生民同派【民同右派と呼ばれるグループ】は反発しますが、解雇された職員が組合専従役員となるため、当局は解雇できずその運動はさらに過激となることになります。

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そうした流れもあり、さらに国鉄部内では非現職員(管理局などの勤務者)は、現業と比べて勤務条件が異なることから事業所ごとの待遇改善を図るべきだという気運もあり、国労内に設置されていた

職能別会議を発展的解消する形で、職能労連結成、さらに労研派も合流

職能労連結成


を発展解消することを目的として設立されることとなったわけです。

 

新潟地労も職能労連も、総評から脱退した全日本労働組合会議の構成員である、全日本海員組合の支援の元、設立に至っており、設立当初から全日本海員組合とは近しい関係にあったと言われています。

 

参考資料

最後に、参考資料として

二人の指導者とはどんな人物だったのか。

鍋山貞親・・・戦前に獄中で転向を声明、「コミンテルンの指導を受けての共産主義運動ではなく、天皇を尊重した社会主義運動を行う」と言うもので、戦後も民社党・同盟の理論的・戦術的ブレーンとして活躍したとされています。

戦前、獄中で転向した鍋山貞親、戦後も民社党・同盟の理論的。戦術的ブレーンとして活躍

鍋山貞親 画像wikipedia

三田村四郎・・・元警察官であったが、社会主義運動に関心を示し、服務規律違反に問われて免職、その後は戦前の労働運動を指導するも、戦時中は拘禁されることに、獄中で鍋山貞親が転向したことを知り、転向を表明するが釈放されず、戦後のGHQの解放指令で出獄、戦後は一貫して労使協調・反共を基調とする労働運動を指導とされています。

戦後一貫して、労使協調・反共を基調とす流浪同運動を指導した、三田村四郎

三田村四郎 画像wikipedia

続く

 

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新組合結成、その後 国労から脱退する組合員

長らく空けてしまいましたが、久々に更新させていただこうと思います。

「現在の国労新潟地本の執行部は信頼できない」として、新たに「国鉄新潟地方労働組合」が昭和32年8月24日に新組合結成準備大会を開催したそうです。

翌日が国労新潟地本の定期大会であったので、反省を促す意味を込めてあったのではないかとされています。

この時点では、その後新組合は誕生しておらず、新組合結成に動く代表者は、国労新潟地本の代議員として定期大会に出席し、あるものは地本批判をしたとされています。

その辺を、国鉄民主化への道から引用してみたいと思います。

”新組合結成準備大会"は、8月24日午後一時から、新潟市の小林ホテルで開かれた。約150人が参集、準備委員長に赤津友三郎、副委員長に丸山久一、事務局長に上野政勝をを選出した。この準備大会には、国労委員長の小柳勇が来て、新組合結成を中止するよう説得した。・・・・中略・・・赤津は小柳に、新組合結成中止の条件として、「地本執行部が辞任し(地本三役をはじめ、役員のほとんどが解雇処分を受けている)、民主的な役員が選ばれること、運動方針の"政党支持の自由”を"社会党”一本にしぼること」を要求したという。

*1

と有りますように、ここで注目していただきたいのが、新組合結成中止の条件として、

「"社会党”一本にしぼること」という表現に違和感をもたれら方も居るかもしれませんが、当時の国労では、革同派・共産派と言った派閥もあり(革同派・・・革マル派などに分離する過激派)などを新潟地本から切り離すことを要求しているわけです。

この主張は一貫しており、新しく設立される組合が過半数を確保できれば、国労に復帰するという主張をしていたことからも窺えます。

実際に、新潟では新組合結成の二年後には新組合が過半数を獲得しており、復帰に向けての話し合いが行われますが、現行の新潟地本を否定して、新組合を本流に戻せという主張は当然のことながら国労としては受け入れられず、新組合は独自の歩みを始めることになるのはもう少し先の話になります。

さらに、結成大会の時点では国労から脱退して居らず、翌日の新潟地本の定期大会では前述の通り代議員として、出席して地本批判をした代議員もいたそうです。

再び、国鉄民主化の道から引用してみたいと思います。

乳許雄大会の前日に、新組合結成を正式に表明したのは、地本の反省を促すいみもあったという。そうして、赤津や上野は、まだ国労を脱退しては居らず、国労新潟地本の代議員として地本大会に出席(新組合結成派の代議員は22人)、上野などは、一時間にわたり地本批判の演説をした。

ここで出てくる、赤津は、新組合の準備委員長、上野は、新組合の事務局長でした。

 

結成前の話が長くなりましたが、前述の通り、国鉄新潟地方労働組合は、昭和32年9月1日に結成大会が開催されることとなり。

9月1日、午後零時45分から、新潟市・海員会館で開催され正式に発足することとなります。

こうして、誕生した国鉄新潟地方労働組合は、二年後にはほぼ過半数を確保、その後も昭和53年2月の組合員構成を見ると以下のようになっていたそうです。

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昭和53年時点での新潟鉄道管理局組合員別割合

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上記の新潟鉄道管理局管内職員数

新潟地本で、新潟地方労働組合が誕生したのか、その背景には新潟地本が広島等もそうでしたが、共産・革同派が抑えていたことが大きかったと言われていますが、それ以上に、職員の無関心もあったのではないかという分析も有ります。

実際、多くの組合員は新潟闘争以後、こぞって新組合へと流れていったわけですから、多くの職員は組合運動には無関心であり、ただただ、盲従するままに従っていたわけですが、その辺は当時の職員の意識などを含めて色々な資料等を検証して行きたいと考えております。

なお、多くの職員は組合運動には興味が無かったのでは無いかと言うことで、当時の国鉄本社・総裁室調査役の河村勝氏(後の国鉄常務理事)が、昭和34年6月号の交通技術に寄稿した、「無関心の共謀」という随筆で、以下のように記されています。

私は戦後の労働問題を通じて組合民主主義について多くの疑問を持つてきたが 、 最近 3年半の新潟での経験のなかで、組合員の80%は組合運動に対して無関心であるという説を唱えている。1昨年の新潟闘争では新潟地本の殆んど全組合員が参加し指導者の腕1本の合図で瞬時にして職場を放棄し、列車の運行を停止した。2年たらずを経過した今日、新潟地本を批判する新潟地方労組の勢力はすでに新潟地本を凌駕している。独裁者の権威の前に沈黙し盲従する大衆の「無関心の共謀」をそこに見ないわけにはゆかない。もしほんとうにあの闘争が組合員個々の自覚にもとずいて行なわれたものであるならば「鋼鉄の新潟地本」の組織がかくも脆く崩れ去るはずはないからだ。大衆の自覚の前には独裁者の権威はまことにはかないものに過ぎない、ひとたび自覚した大衆はふたたび盲従・無関心の世界に戻ることはない。

また、国鉄線 昭和33年9月号の座談会記事 「新潟地区の実態を聞く」という記事の中で、労使関係の話が出ており、3000名ほどが国労を脱退して、国鉄新潟地方労働組合に加入しており、新潟駅でも6割ほどの職員が国鉄新潟地方労働組合に加入したと発言しています。

昭和33年9月 国鉄線

昭和33年9月 国鉄線 新潟地区の実態を聞くからキャプチャー



実際に、こうした組合員の無関心という問題、実は現在の政治の世界にも当てはまると思えてなりません。

 

続く

 

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*1:国鉄民主化の道、P271から引用

新潟闘争後 新組合結成と国労新潟

新潟闘争後、新地労誕生

新潟闘争中に、各職場から国労を脱退した職員は、200名近くになったそうですが、闘争終了後抗した脱退者が、国労組合員から虐められたり、村八分にされたりしたそうで、新潟闘争前の昭和30年2月1日に「組合を守る会」を結成したものの、当時の新潟地本から、村八分にされたり、虐められることがあったことから、そうした事態を危惧した、元「組合を守る会」の幹部が話し合って、新しい組合を作ろうという話になり、第一回の結成準備会が昭和32年8月4日に開催され

  • 「現在の国労新潟地本の執行部は信頼できない」

この点で、意見が一致したものの、どのような組合を作るかについては結論が出なかったとしています。

何度か準備会が開催され議論が重ねられる中で、職能別組合ではなく、新潟だけの独自の組合を作ろうという結論になったと言われています。

ここで、国鉄で導入されていた職能組合について補足させていただきますと、仙台地区で非現業を中心とした、職能別組合が結成の動きがあったようです。

国鉄の労政と労働運動 有賀宗吉著 下巻 P175から引用したいと思います。

「非現業関係組合結成準備の趣意書」

私たちは管理局を中心とする非現業関係の組合員の労働条件改善を図る推進機関として、総務経理協議会があり、組合本部の諮問に応ずるばかりでなく、直接・間接に当たってきたのでありますが、国鉄労働組合が単一組織になった以前を含めて、私たちの要望事項は今日まで殆ど何一つ解決していないのであります。

 中略

(1)非現業3%定員削減反対、(2)被服の全員貸与(3)級別定数枠の撤廃、(4)旅費単価の引き上げ、(5)当直指令の待遇改善、(6)超過勤務手当の増額

等13項目にわたる要求を改めて確認し、中闘に働きかけ・・・中略

 しかし、結果は現業、非現業の区別はしないから、地方本部でそれぞれ団交するというような、曖昧なゴマカシ方で妥結したのであります。

・・・中略。にも拘わらず組合費は一般組合員よりも高額な組合費を徴収されているので、これでは全く非現業部門にいる組合員は浮かばれないと思います。

・・・中略。

以上の点を合わせ、私たちの労働条件は現業の労働条件と異なり、仕事上の責任体制からもその高度性が要求される職種であり、・・・中略

現在の組合の中にあっては、非現業関係及び直轄職場を含めての問題解決は、もはや望みなしと判断し、ここに管理部門を一丸とする新組合を結成し、問題解決に邁進することを決定したのであります。

 

昭和32年6月14日

                         仙台地方非現業連絡協議会

長文になりましたが、一部省略しながら掲載させていただきました。

ここで書いていますように、非現業【いわゆる管理局などに勤務する職員】の待遇が現業機関と比べて改善が遅れていたことが窺えますが、私がいた頃の郵政局も似たようなもので、制服はもちろん貸与されないのはともかくとして、超過勤務手当が十分な原資がないため、殆ど末席には配分されないなどただ働きが横行することになりました。

国労新潟地本自体を正常な形に戻すために

新組合の方向性では、現在の新潟地本は、共産党や革同派に振り回される状況であり、国労新潟地本自体を正常な形に戻す【革正する*1】事が目的であるとして、新組合が過半数を占めれば国労に復帰しても良いと言うスタンスでした。
実際に、過半数を制するのですが、その際は現新潟地本ではなく、新しい組合を新たな新潟地本として指名するようにと言うことであり、結果的には決裂することとなります。【後述】

結成準備会の赤津友三郎、渡辺由司、岩川修二らは、総評の岩井章、国労出身の参議院議員大和与一、中村政雄、国労書記長の野々山一三らに会って話しあいがもたれたと記述されています。

 

新潟地本には対立するものの、国労本部にはシンパシーを感じる新組合、国鉄新潟地方労組

新潟地本には対立するものの、国労本部にはシンパシーを感じる新組合

新組合、国鉄新潟地方労働組合 結成

こうした流れを経て、昭和32年9月1日は、「国鉄新潟地方労働組合」が結成され、1036名が新組合に結集したとされています。【当時の新潟鉄道管理局管内の職員は14,861名で非組合員が約2,000名)だったそうですが、数年で過半数国鉄新潟地方労働組合」が占めることとなります。

新組合の基本的な考え方は

とし、「組合員のための組合」「誰でもついてこれる組合」の体制を確立する事が強調されたと言われています。また、国労新潟地本自体を正常な形に戻すということで、「国労に復帰することを究極の目的とする」という点は、綱領ではなく、確認事項となりました。

組合結成には全日本海員組合が応援

なお、この組合の結成に際しては、幹部が貯金通帳を赤津に提出して、「組合財政が確立するまで」という借用書を書いたほか、新組合のために全日本海員組合が新潟信用組合に2000万円を預託したと言われており、全面的に全日本海員組合が新地労を応援したとされています。

 

続く

 

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*1:改めただすこと

新潟闘争後の国労新潟の動きを中心に (新組合結成)

二ヶ月近く更新が滞ってしまいましたが、再び国鉄民主化への道を参照しながら、他の資料も参照しながらアップさせていただこうと思います。

 

共産党・革同派の王国だった新潟鉄道管理局管内

新潟闘争前の新潟地本は、共産党・革同派の拠点であったそうで、新潟地本の委員長が列車に乗っていることが判ると、ホームに走って行って敬礼したと言った話も多々あったと、国鉄民主化への道では書かれていますが、現場長の命令よりも組合の命令が優先というおかしな雰囲気の職場であったそうです。

そんな中、共産党・革同派に反対するグループが新潟に生まれつつあり、昭和30年2月1日に「組合を守る会」が結成され、約600人が参加したとされています。

国鉄民主化への道から当該部分を引用させていただきます。

このような共産・革同中心の国労地本に反対するグループが、昭和30年2月1日に”組合を守る会”を結成「新潟地本は一定の政治感覚の人たちによって、組合民主主義が根底から浚われようとしている」との声明書を発表した。約600人が参加

と記述されています。

こうした動きに対して、国労新潟地本は”守る会潰し”に積極的に動くこととなります。

具体的には、いわゆる村八分的な扱いをすることであり、職場だけではなく、家族やその子供にまで及び、家族の交流禁止、子供も遊ばせないように指導するなどして、孤立化を図ることとし、結局1年半後の昭和31年9月5日には、”組合を守る会”自体が解散に追い込まれることとなりました。

新潟闘争勃発

こうして、組合を守る会自体が解体に追い込まれたその11ヶ月後、新潟闘争が勃発します。

新潟闘争中には各職場で国労から脱退する人が多数出たそうで、約200人くらいが国労から脱退したものの、新潟闘争終了後、脱退者が国労組合員から虐められたり村八分にされるという事案が発生したそうです、そこでかつて、”組合を守る会”の幹部だった人と話し合った結果、新しい組合を作ろうという話になったそうで各関係者に招集状を出したところ結成準備会に62名が出席したそうで、新潟地本の執行部が信頼できないと言う意見では一致したものの、どのような組合にするのかという点では意見がまとまら無かったと言われています。

何度か協議が重ねられた結果、職能組合ではなく新潟独自の組合を作ることを決定したそうです。その理由はあくまでも。国労新潟地本の改革を狙ったものであり、国労新潟地本の執行役員を入れ換えることが主な目的とされたためであったとされています。

その辺を再び、国鉄民主化への道から当該部分を引用させていただきます。

新潟だけで別の組合をつくることになった。その理由は、「共産・革同派に振り回されている国労新潟地本を”革正"するのが目的であるから、新組合が多数になったら国労に復帰しても良い、という態度・・・・つまり、国労本部支持、新潟地本否認という態度である。国労本部の進み方を非難して脱退した職能別組合とは、考え方が違っている」と言うわけだ。

と有るように、あくまでも新潟地本が、共産党や革同により執行部が抑えられていることへの不満の表れであったわけです。

結成準備会のメンバーは、総評事務局長の岩井章や、国労出身の参議院議員大和与一
中村正夫 国労書記長の野々山一三 等と面談して新組合結成について相談したと書かれています。

国労としては、結成準備会のメンバーであった赤津友三郎のこうした活動に対して、厳しい批判の目を向けていたそうで、国労新潟地本の「闘争日報」で以下のように書かれていたとされています。

再び、国鉄民主化への道から当該部分を引用させていただこうと思います。

地本の分裂をはかるためには手段を選ばなくなった赤津氏は、常軌を逸脱した行動に出ている。社会党員という肩書きを使って、三宅氏を介し社会党労働部長大和与一氏にあい、対中闘会談の機会を極めて政治的なものとした赤津氏は、19日上京し、野々山書記長に会い、笑止にも、地本と中闘・総評の固い団結にひびを入れようという、分裂主義の本領を遺憾なく発揮した。

といっている、意味がよくわからない文章だが、新潟地本は、赤津が総評や国労の幹部と会ったのは知っていたわけだ。

国労の新潟地本にしてみれば、組合が割れることは好ましくないこともあったと言えそうですが、常に監視はしていたと言うことになりそうです。

新組合には、国労新潟地本から約半数近くが集結

当時の様子を、国鉄部内紙、国鉄線昭和33年9月号の「新潟地方の実態を聞く

という座談会で、以下のように興味ある記事を見つけることが出来ました。

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記録的な記事ですので少し長いですが、引用してみたいと思います。

労使関係も円満に

司会 最後に、新潟は労働問題で去年の夏あたり天下に雄名を馳せましたが、その後の情勢についてお話し願えませんか。
豊島  うちの組合は革同*1に支配されていて、一にも二にも闘争主義で進んで来たのが実際の姿です。昨年七月までは処分はあったけれど、解雇は出ていませんでした。そういったこともあって、一般の組合員は組合の指導者に追随していたというのが実情でしょう。これが去年の新潟闘争によって大きな痛手を受けた。組合側の犠牲も解雇だけで20数名にのぼり、その後は非常に批判的になって来たのです。
 いま一つは、処分だけでなしに世論の支持を失った。いわゆる新潟闘争のときは100本の列車のうち10本位が運休し、遅延は3O分から6時聞にも上りました。通勤客に例をとると、お客さんは仕事が終って空腹と疲労で早く家に帰りたいと駅に来るのに、汽車が出ないのは闘争のためだというので、世論と当局と両方から反撃を受けた上に、大処分を受けて、これが良識ある組合員の批判となって現われたのが昨年9月1日の新地労*2という第二組合の誕生です。これが1万4000名の組合員のうち、現在3000名を超えて います。私の駅でも5割5分から6割近くがこの批判組合に入っています。

注:豊島氏は、当時新潟駅駅長

新潟地方の実態を聞く

ということで、昭和32年9月1日に上記に書かれていますように、新組合「新潟地方労働組合(以下「新地労」と略す)」が発足しており、国労組合員が徐々に、新組合に移行していることがうかがえます。

ここで赤津氏は、新組合が過半数を獲得したら、国労に復帰するとしていたわけですが、徐々にその勢力を伸ばして、昭和34年9月頃には、新潟管内の約半分は新組合が獲得していました。
実は、この年に国労書記長山田耻目は、前書記長の野々山からの引き継ぎで、新組合の赤津氏と交わした引き継ぎ事項の「新地労が過半数になったら国労に復帰すると言っていた、折衝すること」という項目があり、この折衝のため赤津氏らと面談していますが、その面談は結果的にはご破算で終わることになりました。

それは、単純に復帰ではなく、新潟地本の看板を革同中心の現執行部から、「新地労」に移せという旨の発言をしたからでした。

国鉄民主化の道では、以下のように語られています。

山田との会談で、赤津が「共産党を除いて、国労新潟地方本部の看板をこちらへよこせば、明日にでも復帰する」と言ったという。新地労を国労地本と認め、これまでの地本を否定するなどと言うことは、山田にとっては、もちろんできない相談だった。

こうして、当時の国労書記長と会談したそうですが、その会談で、新組合に「共産党を排除して、国労地方本部の看板をよこせば明日にでも国労に復帰する」と言ったそうですが、当然のことながら

少なくとも、こうした発言が本気で国労に戻る気が合って言ったのか否かは、今後更に補強すべき資料を探す必要がありますが、少なくとも革同・共産党派に押さえつけられていた新地労を結成したメンバーにしてみれば、かなり本気で迫ったことであろうことは間違いないかと思います。
しかし、この頃の国労の運動は更に過激さを増しており、民同右派は主流派から追いやられ、解雇者が三役を務めるなど、益々先鋭化していくなかで、現新潟地本の組合員を切捨てる形になるような方法は当然のことながらできない相談だと突っぱねるしかなかったと言えそうです。

 

なお、新潟闘争に関しては国労の資料なども参照していますが、よほど都合が悪かったと見えて、国労四〇年史では殆ど語られて居らず、今後更に他の資料で補強していく予定としております。

 

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*1:国鉄労働組合革新同志会共産党とは距離多くが共闘を否定しないグループ

*2:新潟地方労働組合

支社制度、具体的な取り組みを四国支社に見る【国鉄当局部内紙から参照】

鉄労視点と言いながら、今回は当局の支社制度設定の狙いなどを当時の資料を参照しながらご覧いただこうと思います。

 

本社の権限を降ろして支社で自発的な行動を期待

国鉄の制度が改革されて、支社制度が発足したのは昭和32年1月16日ですが、発足は、本社が権限を集中させてしまって全体が見えなくなっている事への反省もありました、そこで支社に権限を委譲させて、本社は企画部門などを中心にしていく方向性が示された訳で、昭和32年12月には公共企業体審議会が、「現行の支社制度を強化徹底し、独立採算制に近づける」ことを答申し、最近、産業計画会議は、「現在の国鉄は経営単位が過大なため中央の意思が末端にまで行き届かず、かつ、現在のような全国的プール計算では、経営努力によって黒字となりう る路線の赤字に対しでも経営者は不感症となり、赤字経営の原因も責任も不明確となるから、 事業の円滑な る運営を期待するためには、特殊会社による国鉄の分割経営を 行う」ことを勧告した。

産業計画会議 国鉄は根本的整備が必要である から抜粋

産業計画会議 国鉄は根本的整備が必要である から抜粋

とされており、国鉄という組織に対して、GHQの頃には、足下に置いておきたいとして、官僚制を温存させたものの、ここに来て公社は独立採算制を意識させたり、産業計画会議のように、国鉄を場合によっては特殊会社による分割せよと踏み込んでいます。

こうした背景もあり、国鉄本社の権限を降ろして、本社はスタッフとしていわゆる戦略を練る参謀として、支社を地域の実情に応じた地域会社としての機能を期待したもので、昭和32年の発足後も何回かにわたって、その権限が支社に降ろされることになりました。

支社による積極的経営を期待

支社制度の発足で、支社長の権限が拡大することとなり、人事権の拡大や工事費予算などの決裁も、3,000万円以下(現在であれば概ね3億円)の工事を計画し、施工することができるとされるなどとなっています。
当然のことながら、そうした権限があると言うことは、その責任もあると言うことになるのですが、どうしても上意下達が当たり前になっている官僚組織としての国鉄では、その辺がうまく機能していなかったきらいもあったように見えます。

最も、四国のように関西支社から分離した四国支社のように比較的小さな組織であったことから、支社と管理局が一体となることから、独自に経営改善計画を策定して、大きな改善を図り、業務の改善を図ったとされています。

以下にその概要を、箇条書きで書いてみたいと思います。

 旅客車について

  • 大量のディーゼル・カーを一挙に投入して、全線のDC化・無煙化を図る
  • 気動車の特性を生かして小単位の列車を可能な限り頻発
  • スピード・アップと準急の増発を行って輸送の近代化を図る
  • 中間簡易駅を増設して、速くて、安くて、待たずに乗れるをモットーに改善計画を推し進める

 貨物輸送について

  • 車扱貨物取扱駅の廃止を断行して一七二の貨物取扱駅を概ね三分の一程度の中心駅に集約、貨物列車のスピード・アップを図ると共に車両の生み出し、貨物の速達を企画
  • 集約駅の貨物設備改善計画を積極的に推進
  • 新鋭連絡船の建造を計画

最後の新造船の計画は、本社での決定事項となると思うので、本社への具体的計画という意味合いと理解しています。

 参考資料として

 更にこの辺を以下の国鉄線という雑誌にその当時の取り組みが書かれていましたので、併せて参照してみたいと思います。

一部抜粋して見たいと思います。

 四国支社では昨年の九月「四国鉄道の経営改善」を企画され、支社長みずから改善計画についての詳細な説明に当られ、本社としても斜陽化しつつある四国の鉄道を救う手段として、その方向はまことに尤もであるということで、方針的にも又ある程度予算的にもこれを了承することになったわけです。そこで支社では輸送改普、経営改善の実施に踏み切られて、徳島県を手始めとして既に数線にわたって実績をあげておられますし、また今後も引きつづき線区ごとの改善を実施して行かれるように伺っております。

 中略

まず最初に、終始この仕事に関係してこられた企画室長さんから大体の経緯を御説明願います。
瀬戸 四国は御承知のように地勢的にいろいろ不利な条件におかれておりまして、船舶、自動車、さらに最近では航空機などの交通機関にだんだん蚕食され、まさに救いがたい状態・・・言うなれば亡び行く斜陽鉄道の縮図といったようなありさまです。従って経営面も、33年度におきまして46億円の純収入をあげるのに74億円の経費を費やし、差引28億円の赤字を出しております。そういう状態のもとに、昨年4月支社が発足しまして、これを契機に従来の情性と依存性を一切断ち切り、支社だけの自主独立によって、この倒産しかかった四国の鉄道を建て直そうじゃないかということになったのです。建て直し策の骨子は、客貨の輸送方式を抜本的に改善して、近代社会に即応するサービスを提供するということで、そのために旅客輸送ではディーゼル化による思い切ったスピーディなフリーケント・サービスを行い、貨物輸送では車扱の集約と設備改替をして増収をはかっていこう、また内部的には経費を節約し、企業意欲に燃えた運営をしていこうということでありました。そうすれば、斜陽化のどん底にあえぐ四国の鉄道を再建することは決して不可能ではないという信念のもとに、支社発足直後の昨年五月、旧四鉄局時代の無煙化促進委員会を発展的に解消して、輸送近代化委員会というものをつくり、ディーゼル化、貨物輸送の近代化、輸送施設の精強と近代化、れから水陸連絡輸送の近代化、さらに保守修繕の合理化などを総合する具体的な愉送改善案を練りました

四国支社発足

国鉄昭和35年9月号

 四国支社は、元々は関西支社から分離したものですが、四国鉄道管理局と支社が一体化したので、より意思決定は早かったと思われます。
また、すでにまだまだ自動車道などが完成していない時期にあって、すでに厳しい状態であったことが新ためてうかがえます。

四国は、支社制度廃止後は四国総局として、独自の施策を行っており、すでに合理化などもある程度まで進めていましたから、九州・北海道で問題となった余剰人員問題もほおこらず一部、不採用があったようですが、希望した職員は殆ど採用されたと聞いています。

 

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国鉄における支社制度発足

国鉄発足と鉄道局の改編

この制度が発足する以前は、鉄道局に代わるものとして、地方機関を統括する制度として昭和25(1950)年8月1日に

国鉄発足直後の管理体制,国鉄,管理体制

国鉄発足直後の管理体制

この改正は、GHQの意向によるもので、経理と営業部門が本社直轄となっていました。
天王寺鉄道管理局50年史によりますと、元々天王寺管理部が改組して、天王寺鉄道管理局になったそうです。
管理局の仕事は、輸送および車両、施設の保守等の内面的業務の管理が中心で、運賃料金制度の確立や経理事務などは別途、営業事務所・経理事務所で行われることとなっていたそうです。

鉄道管理局(占領軍時代)

鉄道管理局(占領軍時代)

総支配人制度発足

その後、改めて講和条約発効後の昭和27年8月、改めて機構改革が進められ、営業および経理事務所が廃止され、管理局に統合されることとなるとともに、総支配人制度を発足させたと言われています。

地方運輸支配人地方営業支配人を設置
運輸支配人→社運輸総支配人直属で管内の鉄道管理局
営業支配人→本社営業局長直属で管内の地方営業事務所(営業の間接部門)

さらに、本社経理局長直属の地方経理事務所、本社資材局長直属の地方資材事務所、本社自動車局長直属の地方自動車事務所がそれぞれ誕生して、総支配人制度化では以下のような階層になっていました。

 

総支配人制度

総支配人制度

 しかし、総支配人制度で営業部門を統括したとは言え、制度が必ずしも国鉄の実情に合っていないとして、日本国有鉄道経営調査会の答申で、その権限を委譲させるために、支社制度を発足させることとしたのでした。

 

支社制度発足

総支配人をそのまま支社に置き換えた形となり、当初は6つの支社に分かれていました。【西部は、広島・九州全域】・関西支社【近畿・鳥取・島根・四国】が管轄となっていました。
下記の画像は、さらに九州・四国・新潟が分離した9支社時代の図になります。


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支社制度の一番大きな点は、本社から支社に権限が委譲されていたことでした。
組合の話題から外れますが、管理局と支社の関係についてお話をさせていただきました。

 

長々と鉄労視点で、この支社制度をお話申し上げたのかと申し上げますと、国鉄改革が叫ばれ出した当時の鉄労の意識したのはこうした支社制度であったと解釈しています。
支社制度をさらに権限を委譲して、深度化していくことを目指していたわけで当初から分割民営化を狙っていたわけではありませんでした。
ただ、マスコミなどが分割民営化に賛成なのかというニュアンスでとられてしまってそのまま引きずられていったというのがより正しいのではないかと考えています。

というのも、再建監理委員会も分割民営化に際して、参考にしたのが同じく、この支社制度であったからです。

現在の6分割の旅客会社と9分割されている支社の割り振りを見てた抱ければ共通点が見えてくると思うのですが、九州支社・四国支社・北海道支社は言うに及ばず、関東・東北・新潟が一体でJR東日本を構成し、中部支社の【金沢鉄道管理局】部分を西日本にくっつけたのが、現在のJR西日本に,さらに残りの部分がJR東海と言うことになります。

 

再建監理委員会も、鉄労も同じ制度の地図を見て、方や分圧民営化ありきであったので、分割した民間会社として考え、鉄労は分社化【必ずしも分割という意味ではなく、現在のホールディングス的な事を考えていたと思われます、ただし、当時の法令では独占禁止法の関係で持ち株会社が認められていなかったこともあり、分社=分割となってしまうため、どの辺が鉄労はトーンダウンしてしまったのではないかと解釈しています。

鉄労も、分割民営化までは当初から望んでいなかったというのが私の見解です。

 

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国労大会の模様から

いつもは、「国鉄民主化への道」から、アップさせていただくのですが、今回は少し毛色を変えて、国鉄部内紙(国有鉄道 昭和31年10月号)の記事「国労大会」から見ていこうと思います。
当時、機関車労組は、国労から分裂していましたが、まだ鉄労は誕生しておりませんが、翌年の新潟闘争の引き金となった、「白新線要員闘争」や、西宇部闘争(後述)に対して、国労の中で、闘いが中途半端でなかったのかという批判が出たりしています。

新潟闘争勃発前の話

話は前後するのですが、今回は初めての春闘後の動きとして、昭和31年に実施された国労大会の様子からお話しをさせていただこうと思います。

新潟及び広島の代議員から、春闘に対する批判が出ていましたが全体的には落ち着いた大会で会ったと記録されています。

ただ、新潟・広島の代議員からの批判が大きかったと書きましたが、この二つの拠点は革同派*1共産党の強い地域であり、国鉄本社でも注目していたそうです。

特に、この二つの地本が、春闘と関連して問題行動を起こすこととなります。

新潟は、白新線要員闘争として、当局と対立したもので、新潟闘争の伏線となった争いと言えるものでした。

そして、もう一つは、広島地本厚狭支部による山猫ストでした。

厚狭支部山猫ストは後ほど詳述しますが、厚狭支部に押し切られる形で本社が追認する形となり、翌年の新潟闘争では本部は地本の動きに同調することはなかったのですが、この頃から、本部も拠点における革同派や共産党派との距離を置くようになっていたと思われます。

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日本国有鉄道 昭和31年10月号

国労内で過激な運動を見せる、革同派や共産党

当時の国労大会の様子を国有鉄道 昭和31年10月号から引用したいと思います。

国鉄労組は、8月13日から18日まで6日間、伊勢市で、第15回定期全国大会を開催した。大会の主要議題は、役員改選、運動方針、賃金方針並びに業務方針の決定及び規約の改正であったが、大会の論議は、全会期を通じて、比較的低調であつた。
 広島、新潟等の代議員が、春季闘争、夏季闘争の妥結に際して、その妥結の条件があいまいであり、特にベース・アップの間題が明らかにされていない、春闘では、まだ戦う余力があったのに、なぜ打切ったのか、と云った批判西宇部白新線の闘争等に対し、本部の指導性が足りなかったために、全国的な闘争に盛り上げることが出来ず、あのような結末に終った、と云う批判等があり、夏季闘争と選挙闘争との混同等が指摘されたが、白熱的な論議がなされる、と云う乙ともなく、執行部の答弁に強い反論も行われなかった。

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ここで、春闘自体が中途半端に終わったと指摘しているわけですが、確かに調停案にに則り国鉄だけが先駆けて妥結した事へに対して、マスコミなどからは逆に批判されることになっているように、より左傾的組合からすれば不十分と感じたと言えそうです。

西宇部白新線の闘争とは?

西宇部白新線の闘争に関しては、白新線の闘争は、直接その後の新潟闘争への引き金となりましたので、下記のとおり弊ブログに詳細を書いていますので、改めて参照していただければと思いますが、概略を申し上げると、白新線というバイパス線が開通するにあたり。当局が算定した要員に対して組合側の要求する要員が過大(当局は68人、組合側は94人)であり、当局が譲歩して71人としたが納得せず、順法闘争や開通式典で組合が乱入したといった事例であり、最終的に要員が不足すれば再考するということで妥結することとなりました。共産党が背後にあり、人民闘争にさせないためにも、厳しい処分を科したかったものの、本社は「きつい処分をしない」という温情主義を示しました。

その結果、国労新潟地本は更に増長することとなり、その後の新潟闘争の伏線となるのでした。

blackcat-kat.hateblo.jp

西宇部闘争とは

昭和31年6月6日に行なわれた山猫スト労働組合の組合員の一部集団によって行われ、組合所定機関の承認を得ることなく独自に為されるストライキのこと)で、完全に組合管理の様相となり、宇部線小野田線が完全マヒ状態になってしまいました。

当時のヘビーユーザーである、宇部興産小野田セメント、日産化学、宇部ソーダ等の荷主からなんとかしてくれという苦情が本社に入ったそうです。

余談ですが。宇部興産の専用道路が建設される背景にはこうしたストライキが直接の原因であった事はよく知られた事実です。

このストライキも、元々は山猫ストですので、当然のことながら国労本部がうかがい知らないストでした。当時は現在のようなネット社会ではなく、地方の紛争であり東京の新聞は黙殺していたので、国労本部でもその実態は掴めていなかったそうです。

結局、広島地本からの要請で、国労本部が「闘争指令」を出したのは、上記の6月6日であり、闘争からすでに5日を経ていたのでした。

これには、国労も厚狭支部の闘争を山ネコストにしないための措置だったわけですが、その背景には情報の圧倒的不足と本部が介入することでなんとかしようとしたみたいです。

その辺を「国鉄民主化の道」から引用してみたいと思います。

31年6月6日に国鉄本社へ、「山陽本線の西宇部駅(現在の宇部駅)、小野田駅宇部港駅で職場闘争をしており 、宇部線小野田線が完全にマヒ状態になっている。なんとかしてくれ」と、両線沿線にある宇部興産小野田セメント・日産化学・宇部ソーダ等の荷主から、陳情してきた。山口県の一地方の紛争で、東京の新聞は黙殺していたので、国労本部さえも何が何だかよくわからなかった。

国労が広島地本からの要請で、「広島地本の厚狭支部の闘争を支持する」というような「闘争指令」をだしたのは、ストに入ってから5日目の6月6日になってからだ。厚狭支部の闘争を”山ネコ"にしないためと、本部が介入しないければ解決困難になってきたらしいので、"追認指令”をだしたわけだ。

国鉄民主化の道P237から引用

職制マヒ闘争で現場は疲弊していくことに

山猫ストとなれば、元々国鉄ストライキ自体が違法であるにも関わらず、さらなる違法状態になるわけですから、職員が解雇されても組合が守ることができないため、追認の指令を出すとともに、本部預かりすることで、組合員を守るとともに。早期の収集を図ろうとしたと考えられますが、結果的には首謀者である3駅(西宇部・小野田・宇部港)の組合員14名を懲戒免職、他減給44人、訓告95人の大量処分を発表したとされています。

最終的には、解雇者14名の内7名の処分を停職1年として、減らした連結手も1名減員するものの臨時補充員を1名入れると言うことで解決(実質的な当局側の譲歩)という形で収拾されましたが、このような当局側の温情主義と言いますか、譲歩が組合を更に増長させることとなり、前述の「西宇部白新線の闘争等に対し、本部の指導性が足りなかったために、全国的な闘争に盛り上げることが出来ず、あのような結末に終った」という発言に繋がったと言えそうです。

なお、宇部の闘争に関しては共産党白新線で行なった手法を取り入れたというか直接指導していたようで、職制をマヒさせる闘争であったことは明白であり、こうした職制マヒ闘争が昭和40年代には現場協議制に入っていくこととなるのですが、その辺は又後日詳細を明らかにしていきたいと思います。

 

続く

次回は、国鉄での支社制度発足について書かせていただきます。

 

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*1:(正式には、国鉄労働組合革新同志会 共産党とは距離を置きながらも共闘を否定しない社会党左派)