新潟闘争の伏線となった、白新線要員事件
今回から、新潟闘争の実際について鉄労友愛会議編纂の「国鉄民主化への道」を参考に書、鉄労の誕生のきっかけとなった、新潟闘争から始めたいと思います。
新潟闘争の伏線となった、白新線要員闘争
新潟闘争が起こったのは、昭和32年ですが、実はこの前年、昭和31年4月12日に白新線要員問題が起こりました。
国鉄当局が注目したのは、共産党が実権を握っていると言うことで、国鉄当局側もかなり重点監視の対象としていました、結果的にこの要員措置に対しての処分が弱かったことが翌年の新潟闘争の伏線になったと思われます。
実際、白新線開業日には祝賀列車を国労の赤旗で飾られ、出発が25分遅れたほか、新潟管内の列車が平均20分遅れ、貨物列車が20本運休するなど、大きな影響を及ぼしたようです。
元々のどのような交渉であったか、抜粋したいと思います。
ことの始まりは、4月12日、白新線(新潟~新発田間27.3km)が開通に伴う要員問題が話し合われることとなり、当局の68人配置に対し、組合側は94人(交通年鑑での記事では106人)の配置を要求し、議論は平行線となりました。
組合は即日、順法闘争を指示、翌日には公共企業体調停委員会から「誠意を持って交渉するように勧告【実質的に命令】があり、当局は3人譲歩して71人としましたが組合側は納得せず、再び順法闘争に突入しました。
4月15日には、更に順法闘争の強化を指示、車両に至っては組合管理の様相を呈した飾り付けの祝賀列車のため、発車が25分ほど遅れたほか、組合員が祝賀会場である白山中学校に現れ労働歌を合唱するなど異様な雰囲気であったと言います
4月17日 当局、減給二人、戒告19人の処分を発表
4月19日 公共企業体調停員会があっせんに乗り出すも不調
4月21日 平常作業を行った上で要員に不足するが生じる場合は、再び考慮するとして一応の妥結
最終的には、18日・19日にも連続して処分を発して、最終的に71名に+3名を追加した74名で決着したと書かれています。【交通年鑑、昭和32年から追記】
下記は、交通年鑑昭和32年 104ページから引用したものです。
結果的に、当局側が組合に譲歩した形であり、国鉄本社も強い処分にしないように指示したのですが、こうした結果が翌年の新潟闘争の伏線になったと思われます。
国労新潟地本は、共産党の拠点
当時の新潟鉄道管理局長は、本社の労働課長も経験した河村勝【後の民社党議員】であり、後に大鉄局長になる総務部長は、闘争の指示を出しているのが共産党であり、人民闘争的(祝賀列車の国労の赤旗飾る付けなどは人民電車を想起させる)ことから、強い処分を求めたと書かれています。
歴史に、IFはありませんが、ここで小さな芽を潰しておいたなら、翌年の新潟闘争は発生しなかったかもしれません。
結果的に、組合としては当局与し易い(くみしやすい)と思われてしまったと思われます。
歴史にIFは無いけれど
実は、国鉄はこの後も肝心の所で、強く前に踏み出せず、マル生運動などで組合に譲歩するなどの事例があるのですが、国鉄の悪弊というよりも、官僚の保身主義からでたものと思われるのは私だけでしょうか。
申し訳ありません。
新潟闘争まで進めたかったのですが、その前段である白新線の闘争で力尽きました。m(_ _)m
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