日本国有鉄道労働運動史【鉄労視点】

日本国有鉄道労働運動史、鉄労視点で綴るblogです

新組合結成、その後 国労から脱退する組合員

長らく空けてしまいましたが、久々に更新させていただこうと思います。

「現在の国労新潟地本の執行部は信頼できない」として、新たに「国鉄新潟地方労働組合」が昭和32年8月24日に新組合結成準備大会を開催したそうです。

翌日が国労新潟地本の定期大会であったので、反省を促す意味を込めてあったのではないかとされています。

この時点では、その後新組合は誕生しておらず、新組合結成に動く代表者は、国労新潟地本の代議員として定期大会に出席し、あるものは地本批判をしたとされています。

その辺を、国鉄民主化への道から引用してみたいと思います。

”新組合結成準備大会"は、8月24日午後一時から、新潟市の小林ホテルで開かれた。約150人が参集、準備委員長に赤津友三郎、副委員長に丸山久一、事務局長に上野政勝をを選出した。この準備大会には、国労委員長の小柳勇が来て、新組合結成を中止するよう説得した。・・・・中略・・・赤津は小柳に、新組合結成中止の条件として、「地本執行部が辞任し(地本三役をはじめ、役員のほとんどが解雇処分を受けている)、民主的な役員が選ばれること、運動方針の"政党支持の自由”を"社会党”一本にしぼること」を要求したという。

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と有りますように、ここで注目していただきたいのが、新組合結成中止の条件として、

「"社会党”一本にしぼること」という表現に違和感をもたれら方も居るかもしれませんが、当時の国労では、革同派・共産派と言った派閥もあり(革同派・・・革マル派などに分離する過激派)などを新潟地本から切り離すことを要求しているわけです。

この主張は一貫しており、新しく設立される組合が過半数を確保できれば、国労に復帰するという主張をしていたことからも窺えます。

実際に、新潟では新組合結成の二年後には新組合が過半数を獲得しており、復帰に向けての話し合いが行われますが、現行の新潟地本を否定して、新組合を本流に戻せという主張は当然のことながら国労としては受け入れられず、新組合は独自の歩みを始めることになるのはもう少し先の話になります。

さらに、結成大会の時点では国労から脱退して居らず、翌日の新潟地本の定期大会では前述の通り代議員として、出席して地本批判をした代議員もいたそうです。

再び、国鉄民主化の道から引用してみたいと思います。

乳許雄大会の前日に、新組合結成を正式に表明したのは、地本の反省を促すいみもあったという。そうして、赤津や上野は、まだ国労を脱退しては居らず、国労新潟地本の代議員として地本大会に出席(新組合結成派の代議員は22人)、上野などは、一時間にわたり地本批判の演説をした。

ここで出てくる、赤津は、新組合の準備委員長、上野は、新組合の事務局長でした。

 

結成前の話が長くなりましたが、前述の通り、国鉄新潟地方労働組合は、昭和32年9月1日に結成大会が開催されることとなり。

9月1日、午後零時45分から、新潟市・海員会館で開催され正式に発足することとなります。

こうして、誕生した国鉄新潟地方労働組合は、二年後にはほぼ過半数を確保、その後も昭和53年2月の組合員構成を見ると以下のようになっていたそうです。

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昭和53年時点での新潟鉄道管理局組合員別割合

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上記の新潟鉄道管理局管内職員数

新潟地本で、新潟地方労働組合が誕生したのか、その背景には新潟地本が広島等もそうでしたが、共産・革同派が抑えていたことが大きかったと言われていますが、それ以上に、職員の無関心もあったのではないかという分析も有ります。

実際、多くの組合員は新潟闘争以後、こぞって新組合へと流れていったわけですから、多くの職員は組合運動には無関心であり、ただただ、盲従するままに従っていたわけですが、その辺は当時の職員の意識などを含めて色々な資料等を検証して行きたいと考えております。

なお、多くの職員は組合運動には興味が無かったのでは無いかと言うことで、当時の国鉄本社・総裁室調査役の河村勝氏(後の国鉄常務理事)が、昭和34年6月号の交通技術に寄稿した、「無関心の共謀」という随筆で、以下のように記されています。

私は戦後の労働問題を通じて組合民主主義について多くの疑問を持つてきたが 、 最近 3年半の新潟での経験のなかで、組合員の80%は組合運動に対して無関心であるという説を唱えている。1昨年の新潟闘争では新潟地本の殆んど全組合員が参加し指導者の腕1本の合図で瞬時にして職場を放棄し、列車の運行を停止した。2年たらずを経過した今日、新潟地本を批判する新潟地方労組の勢力はすでに新潟地本を凌駕している。独裁者の権威の前に沈黙し盲従する大衆の「無関心の共謀」をそこに見ないわけにはゆかない。もしほんとうにあの闘争が組合員個々の自覚にもとずいて行なわれたものであるならば「鋼鉄の新潟地本」の組織がかくも脆く崩れ去るはずはないからだ。大衆の自覚の前には独裁者の権威はまことにはかないものに過ぎない、ひとたび自覚した大衆はふたたび盲従・無関心の世界に戻ることはない。

また、国鉄線 昭和33年9月号の座談会記事 「新潟地区の実態を聞く」という記事の中で、労使関係の話が出ており、3000名ほどが国労を脱退して、国鉄新潟地方労働組合に加入しており、新潟駅でも6割ほどの職員が国鉄新潟地方労働組合に加入したと発言しています。

昭和33年9月 国鉄線

昭和33年9月 国鉄線 新潟地区の実態を聞くからキャプチャー



実際に、こうした組合員の無関心という問題、実は現在の政治の世界にも当てはまると思えてなりません。

 

続く

 

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*1:国鉄民主化の道、P271から引用