日本国有鉄道労働運動史【鉄労視点】

日本国有鉄道労働運動史、鉄労視点で綴るblogです

新潟闘争後の国労新潟の動きを中心に (新組合結成)

二ヶ月近く更新が滞ってしまいましたが、再び国鉄民主化への道を参照しながら、他の資料も参照しながらアップさせていただこうと思います。

 

共産党・革同派の王国だった新潟鉄道管理局管内

新潟闘争前の新潟地本は、共産党・革同派の拠点であったそうで、新潟地本の委員長が列車に乗っていることが判ると、ホームに走って行って敬礼したと言った話も多々あったと、国鉄民主化への道では書かれていますが、現場長の命令よりも組合の命令が優先というおかしな雰囲気の職場であったそうです。

そんな中、共産党・革同派に反対するグループが新潟に生まれつつあり、昭和30年2月1日に「組合を守る会」が結成され、約600人が参加したとされています。

国鉄民主化への道から当該部分を引用させていただきます。

このような共産・革同中心の国労地本に反対するグループが、昭和30年2月1日に”組合を守る会”を結成「新潟地本は一定の政治感覚の人たちによって、組合民主主義が根底から浚われようとしている」との声明書を発表した。約600人が参加

と記述されています。

こうした動きに対して、国労新潟地本は”守る会潰し”に積極的に動くこととなります。

具体的には、いわゆる村八分的な扱いをすることであり、職場だけではなく、家族やその子供にまで及び、家族の交流禁止、子供も遊ばせないように指導するなどして、孤立化を図ることとし、結局1年半後の昭和31年9月5日には、”組合を守る会”自体が解散に追い込まれることとなりました。

新潟闘争勃発

こうして、組合を守る会自体が解体に追い込まれたその11ヶ月後、新潟闘争が勃発します。

新潟闘争中には各職場で国労から脱退する人が多数出たそうで、約200人くらいが国労から脱退したものの、新潟闘争終了後、脱退者が国労組合員から虐められたり村八分にされるという事案が発生したそうです、そこでかつて、”組合を守る会”の幹部だった人と話し合った結果、新しい組合を作ろうという話になったそうで各関係者に招集状を出したところ結成準備会に62名が出席したそうで、新潟地本の執行部が信頼できないと言う意見では一致したものの、どのような組合にするのかという点では意見がまとまら無かったと言われています。

何度か協議が重ねられた結果、職能組合ではなく新潟独自の組合を作ることを決定したそうです。その理由はあくまでも。国労新潟地本の改革を狙ったものであり、国労新潟地本の執行役員を入れ換えることが主な目的とされたためであったとされています。

その辺を再び、国鉄民主化への道から当該部分を引用させていただきます。

新潟だけで別の組合をつくることになった。その理由は、「共産・革同派に振り回されている国労新潟地本を”革正"するのが目的であるから、新組合が多数になったら国労に復帰しても良い、という態度・・・・つまり、国労本部支持、新潟地本否認という態度である。国労本部の進み方を非難して脱退した職能別組合とは、考え方が違っている」と言うわけだ。

と有るように、あくまでも新潟地本が、共産党や革同により執行部が抑えられていることへの不満の表れであったわけです。

結成準備会のメンバーは、総評事務局長の岩井章や、国労出身の参議院議員大和与一
中村正夫 国労書記長の野々山一三 等と面談して新組合結成について相談したと書かれています。

国労としては、結成準備会のメンバーであった赤津友三郎のこうした活動に対して、厳しい批判の目を向けていたそうで、国労新潟地本の「闘争日報」で以下のように書かれていたとされています。

再び、国鉄民主化への道から当該部分を引用させていただこうと思います。

地本の分裂をはかるためには手段を選ばなくなった赤津氏は、常軌を逸脱した行動に出ている。社会党員という肩書きを使って、三宅氏を介し社会党労働部長大和与一氏にあい、対中闘会談の機会を極めて政治的なものとした赤津氏は、19日上京し、野々山書記長に会い、笑止にも、地本と中闘・総評の固い団結にひびを入れようという、分裂主義の本領を遺憾なく発揮した。

といっている、意味がよくわからない文章だが、新潟地本は、赤津が総評や国労の幹部と会ったのは知っていたわけだ。

国労の新潟地本にしてみれば、組合が割れることは好ましくないこともあったと言えそうですが、常に監視はしていたと言うことになりそうです。

新組合には、国労新潟地本から約半数近くが集結

当時の様子を、国鉄部内紙、国鉄線昭和33年9月号の「新潟地方の実態を聞く

という座談会で、以下のように興味ある記事を見つけることが出来ました。

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記録的な記事ですので少し長いですが、引用してみたいと思います。

労使関係も円満に

司会 最後に、新潟は労働問題で去年の夏あたり天下に雄名を馳せましたが、その後の情勢についてお話し願えませんか。
豊島  うちの組合は革同*1に支配されていて、一にも二にも闘争主義で進んで来たのが実際の姿です。昨年七月までは処分はあったけれど、解雇は出ていませんでした。そういったこともあって、一般の組合員は組合の指導者に追随していたというのが実情でしょう。これが去年の新潟闘争によって大きな痛手を受けた。組合側の犠牲も解雇だけで20数名にのぼり、その後は非常に批判的になって来たのです。
 いま一つは、処分だけでなしに世論の支持を失った。いわゆる新潟闘争のときは100本の列車のうち10本位が運休し、遅延は3O分から6時聞にも上りました。通勤客に例をとると、お客さんは仕事が終って空腹と疲労で早く家に帰りたいと駅に来るのに、汽車が出ないのは闘争のためだというので、世論と当局と両方から反撃を受けた上に、大処分を受けて、これが良識ある組合員の批判となって現われたのが昨年9月1日の新地労*2という第二組合の誕生です。これが1万4000名の組合員のうち、現在3000名を超えて います。私の駅でも5割5分から6割近くがこの批判組合に入っています。

注:豊島氏は、当時新潟駅駅長

新潟地方の実態を聞く

ということで、昭和32年9月1日に上記に書かれていますように、新組合「新潟地方労働組合(以下「新地労」と略す)」が発足しており、国労組合員が徐々に、新組合に移行していることがうかがえます。

ここで赤津氏は、新組合が過半数を獲得したら、国労に復帰するとしていたわけですが、徐々にその勢力を伸ばして、昭和34年9月頃には、新潟管内の約半分は新組合が獲得していました。
実は、この年に国労書記長山田耻目は、前書記長の野々山からの引き継ぎで、新組合の赤津氏と交わした引き継ぎ事項の「新地労が過半数になったら国労に復帰すると言っていた、折衝すること」という項目があり、この折衝のため赤津氏らと面談していますが、その面談は結果的にはご破算で終わることになりました。

それは、単純に復帰ではなく、新潟地本の看板を革同中心の現執行部から、「新地労」に移せという旨の発言をしたからでした。

国鉄民主化の道では、以下のように語られています。

山田との会談で、赤津が「共産党を除いて、国労新潟地方本部の看板をこちらへよこせば、明日にでも復帰する」と言ったという。新地労を国労地本と認め、これまでの地本を否定するなどと言うことは、山田にとっては、もちろんできない相談だった。

こうして、当時の国労書記長と会談したそうですが、その会談で、新組合に「共産党を排除して、国労地方本部の看板をよこせば明日にでも国労に復帰する」と言ったそうですが、当然のことながら

少なくとも、こうした発言が本気で国労に戻る気が合って言ったのか否かは、今後更に補強すべき資料を探す必要がありますが、少なくとも革同・共産党派に押さえつけられていた新地労を結成したメンバーにしてみれば、かなり本気で迫ったことであろうことは間違いないかと思います。
しかし、この頃の国労の運動は更に過激さを増しており、民同右派は主流派から追いやられ、解雇者が三役を務めるなど、益々先鋭化していくなかで、現新潟地本の組合員を切捨てる形になるような方法は当然のことながらできない相談だと突っぱねるしかなかったと言えそうです。

 

なお、新潟闘争に関しては国労の資料なども参照していますが、よほど都合が悪かったと見えて、国労四〇年史では殆ど語られて居らず、今後更に他の資料で補強していく予定としております。

 

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国鉄があった時代 JNR-era
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*1:国鉄労働組合革新同志会共産党とは距離多くが共闘を否定しないグループ

*2:新潟地方労働組合