日本国有鉄道労働運動史【鉄労視点】

日本国有鉄道労働運動史、鉄労視点で綴るblogです

国鉄における支社制度発足

国鉄発足と鉄道局の改編

この制度が発足する以前は、鉄道局に代わるものとして、地方機関を統括する制度として昭和25(1950)年8月1日に

国鉄発足直後の管理体制,国鉄,管理体制

国鉄発足直後の管理体制

この改正は、GHQの意向によるもので、経理と営業部門が本社直轄となっていました。
天王寺鉄道管理局50年史によりますと、元々天王寺管理部が改組して、天王寺鉄道管理局になったそうです。
管理局の仕事は、輸送および車両、施設の保守等の内面的業務の管理が中心で、運賃料金制度の確立や経理事務などは別途、営業事務所・経理事務所で行われることとなっていたそうです。

鉄道管理局(占領軍時代)

鉄道管理局(占領軍時代)

総支配人制度発足

その後、改めて講和条約発効後の昭和27年8月、改めて機構改革が進められ、営業および経理事務所が廃止され、管理局に統合されることとなるとともに、総支配人制度を発足させたと言われています。

地方運輸支配人地方営業支配人を設置
運輸支配人→社運輸総支配人直属で管内の鉄道管理局
営業支配人→本社営業局長直属で管内の地方営業事務所(営業の間接部門)

さらに、本社経理局長直属の地方経理事務所、本社資材局長直属の地方資材事務所、本社自動車局長直属の地方自動車事務所がそれぞれ誕生して、総支配人制度化では以下のような階層になっていました。

 

総支配人制度

総支配人制度

 しかし、総支配人制度で営業部門を統括したとは言え、制度が必ずしも国鉄の実情に合っていないとして、日本国有鉄道経営調査会の答申で、その権限を委譲させるために、支社制度を発足させることとしたのでした。

 

支社制度発足

総支配人をそのまま支社に置き換えた形となり、当初は6つの支社に分かれていました。【西部は、広島・九州全域】・関西支社【近畿・鳥取・島根・四国】が管轄となっていました。
下記の画像は、さらに九州・四国・新潟が分離した9支社時代の図になります。


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支社制度の一番大きな点は、本社から支社に権限が委譲されていたことでした。
組合の話題から外れますが、管理局と支社の関係についてお話をさせていただきました。

 

長々と鉄労視点で、この支社制度をお話申し上げたのかと申し上げますと、国鉄改革が叫ばれ出した当時の鉄労の意識したのはこうした支社制度であったと解釈しています。
支社制度をさらに権限を委譲して、深度化していくことを目指していたわけで当初から分割民営化を狙っていたわけではありませんでした。
ただ、マスコミなどが分割民営化に賛成なのかというニュアンスでとられてしまってそのまま引きずられていったというのがより正しいのではないかと考えています。

というのも、再建監理委員会も分割民営化に際して、参考にしたのが同じく、この支社制度であったからです。

現在の6分割の旅客会社と9分割されている支社の割り振りを見てた抱ければ共通点が見えてくると思うのですが、九州支社・四国支社・北海道支社は言うに及ばず、関東・東北・新潟が一体でJR東日本を構成し、中部支社の【金沢鉄道管理局】部分を西日本にくっつけたのが、現在のJR西日本に,さらに残りの部分がJR東海と言うことになります。

 

再建監理委員会も、鉄労も同じ制度の地図を見て、方や分圧民営化ありきであったので、分割した民間会社として考え、鉄労は分社化【必ずしも分割という意味ではなく、現在のホールディングス的な事を考えていたと思われます、ただし、当時の法令では独占禁止法の関係で持ち株会社が認められていなかったこともあり、分社=分割となってしまうため、どの辺が鉄労はトーンダウンしてしまったのではないかと解釈しています。

鉄労も、分割民営化までは当初から望んでいなかったというのが私の見解です。

 

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