日本国有鉄道労働運動史【鉄労視点】

日本国有鉄道労働運動史、鉄労視点で綴るblogです

国労内で民同右派による分裂運動(新潟闘争前)

またまた2ヶ月ほど開けてしまいましたが、改めて鉄労視点から見た新潟闘争前後の話をさえていただこうと思います。

講和条約での扱いをめぐって社会党内で、右派と左派に別れての問題はそのまま労働組合にも派生することとなり、社会党左派を支持するグループと、右派を支持するグループに分かれ、これは国労内では民同派と新生民同派に分かれることとなり、民同派は左派、新生民同派は右派という色分けとなっていました。

そんな中、国鉄内での組合運動はますます激化し、政治運動などを中心とする組合運動に変節していきました。

また、機関車労組は、設立当初の穏健な運転局に庇護されるような組合から徐々に左傾化し、その運動は過激さを増していくこととなりました。

国労が、反戦青年委員会など後の過激派となる組織を潰そうとしたことに対し、機関車労組はむしろ容認してきたことからさらに、機労は過激さを増して行くこととなりました。

ただ、この時期は左傾化国労も機労も進んでた時期でもあり、階級闘争が声高に叫ばれている時期でもありました。

機関車労組が、解雇された委員長他を再選

国労もそうですが、昭和32年頃からは、組合は更に左傾化を進めることとなり、機関車労組(当時の名称、後の動力車労組)は、解雇者を組合三役に立てることで、解雇できない体制を作ろうとしたわけで、これに対して当局は、適法な代表者がいないとして交渉を拒否したにもかかわらず、国労が同じような対応に出たのは、当時の左傾化した執行部の状況をよくあわらしているように見えます。

機労第7回全国大会開催、解雇者三役を再選。当局は正式団交一時中断を発表 5/21

鬼怒川公会堂において機労第7回全国大会開催
当面、不当処分の撤回、裁定の早期完全実施、夏季手当1ヵ月分獲得、100%昇給を主目標として闘争する方針を決定するとともに、処分者を三役に再選した
国鉄当局は支社、管理局ごとに5月11~12日の実力行使に対し解雇1、停職65、減給73、戒告436、訓告1,441の処分を通告。機労にも処分 6/3~6/7
黒川与次郎機関車労組委員長、辞任 6/18

機労で再選された三役は、委員長の黒川与次郎機関車労組委員長(大阪・梅小路機関区)他に、中村、兼高の3名を無投票で再選してしまった。
この背景には、国鉄部内にあって更に左傾化していく組合の姿があったわけですが、一ヶ月後には黒川委員長は、突然辞任することとなります。

その辺を、少し長いですが、国鉄民主化の道から引用してみたいと思います。

6月18日に、黒川は、公労委へ行って、会長の藤林敬三に面会を求めたが、留守だったので、事務局長の松崎芳伸(後に日経連専務)に、次のような藤林宛のメモを託し、大阪へ帰ってしまった。

  1. 機労発展のために尽力を願いたい
  2. 職務給を早期に確立して欲しい
  3. 健康と一身上の理由で、自分は組合を退くが、今後の指導を願いたい。

黒川はメモを託すとき、松崎に「自分は委員長を辞任する。解雇処分を受けていない委員長を選出して機労を正常な組合にしたい」と言ったという。

ということで、機関車労組の委員長は筋を通して国鉄を去るのですが、国労は組織内での対立が大きく、その辺は有耶無耶となってしまいました。

国労定期大会では民同左派が中心の執行部に

国労の第16回定期大会は、昭和32年6月22日~27日、松山で全国大会が開催されました。

機労に倣って、国労も解雇者を三役に選任するのですが、当然のことながら抗したことが起こった背景には、組合内部での突き上げも大きかったからでした。

もちろん、指令を返上する地本もあった反面、指令以上のストライキを勝手に行う跳ね馬状態の広島や新潟など、革同派の強い地域もありました

 国労第16回定期大会開催、解雇三役を再選 6/22~6/27

松山において国鉄労組の全国大会が開催された、結局、国民の信頼をかちえなけれぱならないこと、より姿勢を低くするとも、組合の統一ある行動は守られねばならぬことに結諭を見出した
しかし、役員の改選に当っては、解雇された3役が再選されるという結果になり、今後団体交渉などについて再び問題を残すこととなり、その成行は注目される

この年は、3月23日の業績手当に関するストライキの処分が4月10日に行われ、この処分反対をめぐって、更に5月11日、12日にはスト指令が出るものの、一部の地本ではスト指令をボイコットした反面、新潟・広島など一部の組合では指令以上のストライキを行ったとして問題になったわけですが、この処分が6月3日から7日にかけて行われれる分けですが、この処分に対して新潟では、本大会開催前の6月13日に以下のように、処分撤回闘争による職場大会を開催して、貨物列車71本が運休するという事態となりました。(国労の処分撤回闘争での指示は、運転部門以外での半日職場大会であり本来であれば、貨物輸送や旅客輸送に影響を及ぼすものではなかったのですが、ここでも行き過ぎたと言いますか、指令を聞かない状況にありました。

新潟地本、処分撤回職場集会で貨物71本運休 6/13

解雇者なので、首謀者を解雇できないと言う理屈

こうした伏線がある中で、国労の全国大会は開催されたわけですが、この大会では解雇された職員が組合三役として再選されたと言うことでした。

その昔の帝国陸海軍で、現役武官制*1として、引退した軍人を陸軍大臣にさせないという宇方式の逆を行ったようなもので、解雇者が三役(書記長・委員長などのポストを独占ということは、当局は首謀者を解雇できないことになる訳です。)

国労は、役員ポストの増加も実施

さらに、国労はこの大会で規約の一部を改正して、副委員長を2名とする体制を取るとしており、新生民同派からは「役員ポストを増やすだけではないのか」と反対するものの、執行部は企画部偏重という意見もあるので、総評などの外部関係と、内部の意見を行く二人の体制が必要だとし、さらに役員に関しても機労同様に、解雇処分を受けた人達を三役に選出、執行部の勢力は、以下の通りとなりました。

  • 民同左派・・・23人(改選前23)
  • 革同派・・・・9人(改選前10)
  • 新生民同派・・4人(改選前2)

ますます左傾化する国労に対して、識者はどう見ていたのか?

国有鉄道 1957年8月号 国労松山大会を聴いて

国有鉄道 1957年8月号

以下は、国有鉄道 1957年7月号のP18 「国労の松山大会を聴いて」からその記事の抜粋したものを以下に示します。

前半では本部の知れに対して、指令をボイコットしたり返上した地本の見解を聞くことをせずに戦術が悪かったとだけで終わらせるのであれば、それは左派幹部の押しつけであるとして、厳しく糾弾している点は注目するべき点でしょう。

しかし私ども第三者とし 物足らなく思ったのは、なにゆえに指 返上が行なわれたかという点について 通り一辺の議論しかなかったことだ。
部外の勢力と結びつき積極的に組合破 にのりだし”というような自己批判の 原案は、さすがに削除されたが、しかし 指令上は悪い" "資本主義の立場にたつか社会主義の立場にたつか"という ような調子で、片付けてしまっているわ けである。これこそ左派幹部の押しつけや引廻しにほかならない。
もし本当に組合の統一をまもり、組合の団結を固くするつもりなら、中央の指令を返上した地本や職場の弁明なり主張なりをもつと謙虚に聞くべきである、発言の機会を与えるべきであつたと思う。そういう点が不足して、民同左派と革同の間だけでやりあっているから、自己批判が、いわば戦術論議だけに終り、 第三者に訴えるものが少ないのだろう。

後半では以下のように国労極左小児病と断罪しているのは注目でしょうか。

そして、階級を打破することで、国鉄をよくして国民に国鉄労組の応援団にしようと言う考え方を狙っているようにも見受けられるとして、注目したいとしています。

国労の今後の動きであるが、国労の運動方針がいわゆる”階級性を増し、主張の上では階級性で貫かれていることは、いうまでもないことである。 それはある場合には極左小児病を思わせ るところさえある。
中略・・・・・・・・・・・

企業内でも労使は武装均衡のかたちで対立しているとみる方が、これからの労使関係の実際に近いように思そういう前提で国労の今後の動きを考えてゆくと、わたくしどもにとつて注目しなければならない点が二、三ある。
一つはたとえば、国鉄を国民のものにする運動、愛される国鉄にするという運動である。これは十河総裁の経営側の立場から発言していることと、言葉は一つであるが、国労の場合は、国鉄組合員あるいは労働階級という立場から国鉄をよくし、そして国民を国鉄労組にひきよせる、という階級的な運動であるように思う。いまの国労の動きや考え方のなかで、こうした運動が果してどの程度に具体化されるか、疑問だが、またかつての国民戦線的な運動と同じであるのか違うのか、いくぶん疑問だが、いずれにしても注目を要することだ。

更に東京の代議員は、上の発言を補強する用ないかの発言をしています。

東京の一代議員は、国民は労働組合 というものはストライキをする団体だと いうことを悟った、といい、国鉄組合の ストライキ権は事実として国民から認め られているとき発言をしている。

まぁ、これほど思い上がった発言もと思いますが、当時の多くの左派系組合員の中にはこのような考え方が根底に会ったのではないかと考えます。

 

以上引用 国有鉄道 1957年8月号 「国労松山大会を聴いて」

 

結局、左傾化する国労ですが、この背後では着々と、新生民同派による分裂が静かに先行していたのでした。
その辺の話しは改めて次回にさせていただきます。

続く

 

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国鉄があった時代 JNR-era
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*1:1900年(明治33年)から1913年(大正2年)までと、1936年(昭和11年)から1945年(昭和20年)までの間に日本に存在した軍部大臣(陸軍大臣海軍大臣)の就任資格を現役の大将・中将に限定する制度である。現役武官に限るため、文官はもちろん予備役・後備役・退役軍人にも就任資格がないのが原則だったが、1913年(大正2年)から1936年(昭和11年)の間は予備役や後備役の将官にも就任資格があった(軍部大臣武官制)引用:wikipedia