日本国有鉄道労働運動史【鉄労視点】

日本国有鉄道労働運動史、鉄労視点で綴るblogです

新潟闘争とはどのような闘争だったのか 第二話

本日も、国鉄労働運動史(鉄労視点)ということで、新潟闘争について鉄労の国鉄民主化への道を参照しながら、書かせていただこうと思います。

最初にいつも申し上げていることですが、鉄労に肩入れするとか、国労に肩入れすると言うことではなく、事実に基づき淡々とその事実そして中立的視点から見た場合の感想を書くに留めておき

新潟闘争に関しては、当時の資料【国鉄線】なども参照しているのですが、いかんせん60年以上前の話であり、私自身が生まれる前の出来事ですので、資料による検証に留まってしまうのですが、出来る限り整理してアップさせていただきます。

新潟闘争では、ゲリラ戦術【スターマイン職場集会が初めて導入された】

今回の新潟闘争の発端は、前回も書きましたが。新潟地本の委員長であった、中村満夫氏と、同地本の執行委員長佐藤昭二氏の2名であり、佐藤昭二氏は、今回の事件で宮内駅に軟禁された、越後滝谷駅駅長中島忠蔵氏の部下でした。

実は、この解雇された部下が、その後駅長並びに家族を脅す事件も起こしており【後述】ました、今回も新潟闘争に関する話を続けさせていただこうと思います。

前回は、下記の記述で終わっていたかと思います。

 その際、闘争に指定された場所は下記のとおりでした。
 新潟・新津・酒田・吉田・小出・柏崎・直江津各駅と長岡操車場です。

 しかし、これはあくまでも当局の目をくらますおとりであったことが当日になって判明、ゲリラ作戦により現場は大混乱となってしまったとされています。

国労新潟地本は、上記のように複数の拠点で職場大会を開催するという指示を出しました。
職場大会ですから、当然のことながら職場放棄と言うことになりその間、業務は停滞することになります。

当局は事前情報に基づき、要員を配置するも空振りに

そこで、当局側としても事前に職場大会が予定されている主要駅に、助勤者(中間駅の助役や駅長)130人を、予定されている主要駅などに配置したそうです。

しかし、これは新潟地本の陽動作戦であり、新潟地本は、ゲリラ戦術で当局の目を欺いたのです。

ゲリラ戦術は、新潟地本が初めてであったそうで、職場大会に指定された主要駅では何も起こらず、逆に管理職を引き上げられた中間駅が狙われることになりました。

狙われたのは中間の有人駅

当然のことながら、主要駅に中間駅の駅長や助役が留守の責任者(当務駅長)は予備助役等であり、いわゆる中間管理職であり、組合員でした。
こうした中間駅に、真夜中に四,五人の組合活動家が現れて、職場大会を開き、助役等が不在の中間駅に押しかけて駅員を強制的にタクシーやバスで連れ去ってしまって駅を無人にすると言ったことが行われたそうです。
また。当務駅長が助役など非組合員である場合は実力行使として、信号扱いてこ等の作業の邪魔をしたと記録されています。
当時は自動信号化ではなく、単線区間も多く、列車を出そうとしても相手方の駅からの応答が全くないため、相手方の駅に行ってみますと、組合の活動家が逃げた後であったりと言うことが多々あったそうです。
ちなみに、当時のタブレット閉塞の場合は、双方の駅で専用電話を使って連絡を取り合い、信号てこを操作、タブレット閉塞機と呼ばれる機械から通票を取り出して、通票を取り出すことになるのですが、電話に出させないようにまた、タブレット閉塞機の操作をさせないように妨害して列車の出発をさせなかったのとして、
移動職場大会が開催され、中間駅に立ち寄り、組合員をバスに無理矢理乗せてバスの中で逃走の経過報告などを行い、その後就業させたそうです、ただこの闘いは、闘争が激しくなるとそのまま旅館に収容してしまったとも書かれています。
他にも、機動職場大会と呼ばれるものもあり、これは活動家が列車に乗り込み、駅毎に下車して運転扱いを阻止しつつ、組合員を集めて報告会を開くというもので、同じように次の停車駅で駅員配置が為されている駅で同じように駅員に対して職場大会を開くといった具合で、列車そのものを遅延させていくと言う業務妨害を行ったりしたそうです。
他にも、貨物列車に活動家が乗り込んできて、車掌を連れ去ったりということで、当局は手の着けようがなく、結局旅客列車8本、貨物列車に至っては31本が運休することとなり、全列車が遅延することとなりました。

警察の介入を要請した新潟鉄道管理局

これに対して、新潟局は警察力の導入を要請して、最悪の場合公安だけで対応できませんので、警察力の介入を要請

国労新潟地本は当局の行動に危機感を抱き、無期限闘争の許可を求めたとされています。
この辺の事情を、国鉄民主化の道から引用させていただこうと思います。

7月11日
新鉄局長の河村勝は、11日の午前、県警本部長の中野をたずね、闘争の模様を説明し、最悪の事態が起こった場合の応援を依頼した。このような河村の動きを知った新潟地本は、国労本部に、「局長が県警本部へ最悪の場合警察力行使を要請したことは、闘争を中止すれば、直ちに処分が行われる。無期限闘争を許可してほしい」と要請した。国労本部は筋の通らない理由だと言って許可せず、「新潟地本は12日から、当分の間、各支部一カ所ずつの職場を指定し、朝6時から夕6時までの間、一時間の職場大会、順法闘争を行うこと」と戦線縮小を指令した

引用終わり

ここで、新潟地本は共産党が強く、国労本部は民同左派と右派が存在しており、必ずしも国労新潟地本にしてみれば、国労本部は頼りになる存在ではなかったという事の注目していただきたいと思います。
さらに、国労本部は最終的には新潟闘争を収拾させるために、権限を全て中央に引き上げさせるており、新潟地本レベルでの解決を拒否しています。
この辺も、新潟闘争を見ていく上で重要なキーポイントになるかと思います。

姉妹blogである、日本国有鉄道労働運動史を参照しましたが、国労にしてみれば新潟闘争は余り触れられたくないのか、国労史には余り詳しく触れられていません、ただ国労にしてみれば何も得ることが殆どなかった、闘争であったことは間違いなかったかと思います。

駅長への暴行事件が発生

さらに、この7月11日の夜には、前述の越後滝谷駅に勤務していた元駅員が駅長を脅す事件がおこります。

同駅駅長が代務車掌として乗務しようとしたのを阻止して、宮内駅の詰め所に軟禁したことで、解雇された佐藤昭二他四人の組合幹部が駅にハイヤーで乗り付け、約一時間に亘って駅長とその家族を脅した事件が発生しました。

鉄労の記述では、事務室から引きずり出す暴力行為が有ったとされていますが、この点に関しては、国鉄線(国鉄部内紙)の昭和32年12月号、窓辺のひとときというコラムでその一部始終が書かれていました。

国労新潟地本の言い分では、暴力行為はなく、和気藹々とした雰囲気の中で話し合いが行われたとし、また駅近くの官舎に住む奥さんに対する強迫行為も、佐藤氏が解雇されたことについて、上申書を見せてもらうように誠意を尽くしてお願いしたと記していますが、実際には駅長に対しても、又奥さんに対しても、最初は職場のことは判りませんからと最初は断ったにも関わらず、再び官舎に来たため、身の危険を感じて駅に向かったとされています。
更に、その報を受けて長男が父母の身を案じて、約一kmの道のりを駐在所に赴き救いを求めに言ったとも記述されています。

全文引用するわけにもいきませんので、当該部分のみを一部引用させていただきます。

組合側の言い分

第一点の暴力を働いた云々については、五名の諸君は一中島駅長に対して問題の「上申書」の内容を見せるよう要求をした。しかし中島駅長は見せないばかりか、きわめてゴウマンな態度を示したので、その瞬間的な場面においては、かなり大声をはり上げたとは事実である。しかしいわれているようなひどい言葉遣いはしていないし、富岡氏が手をネジ上げたなどということも全くのデタラメである、ただその時にたまたまお客さんが一人いたので駅長の了解を求めて、ホームまで出てもらった。それからは駅長も含めてみんなが車座になって駅長のオゴリでだされた菓子をつまみながら、いとも和気靄々たる雰囲気の中に話し合いをつづけていたのであって、決して、脅迫、暴力に価する言動のなかったことはこの情景によってもはっきりしているところである、
第二点の駅長夫人つるし上げ事件であるが、中島駅長に対して「上申書」の内容を見せるよう要求したが、見せてくれそうもないので、佐藤氏の場合、越後滝谷駅の職員であるし、従って駅長以下職員とも同僚の間柄であり、もちろん夫人もよく知っていた。そこで夫人に頼んで駅長に進言してもらったら、或は見せてくれるかも知れんという淡い希望をもって、佐藤、富岡両氏が官舎に行き、夫人がまだ起きていたので、事情を話してていねいに頼んだのである。夫人も「私もうちの息子がある会社を首になった経験がありますので、佐藤さんの首を切られた御気持はよくわかります」と同情し、心よく引きうけて駅へきたのである

 組合側としては、誠意を持って対応したと取れる発言をしています。

それに対して、当事者である駅長は下記のとおり証言しています。

中島駅長の証言

三時七分、長岡上り最終列車の取扱をし、次の上下列車に対する運行情況を聞いたところ、闘争による遅延のため当分列車もなく、業務も一段落したので、起番の駅員一名(三名は休養中)に来訪の弘済会職員一名の三一名で卓を囲み、菓子を食べながら雑談をした。間もなく一台のハイヤーが来た。私は十日、十一日と早朝二日間にわたり、やられたので、長岡公安室よりあらかじめ応援に来たのではないかと思い立上り窓越しに見たところ、佐藤昭二君の姿が見えたので又かと思い、そのまま腰掛に腰を下ろした。
佐藤昭二に続いて、富岡泰治氏と待合室改札口より事務室に、しかも先頭の佐藤氏は一言の挨拶もなく無言のまま入り、富岡氏は事務室入口より「オイ!コラ!駅長、貴様の上申書によって佐藤昭二は首になった。オメオメと駅長づらをして赤い帽子をかぶっていやがる」深夜寒村の駅舎も割れんばかりの大声でどなり、暴力をもって私の左手をいきなり引張った。私が立上るや続いて右手も引張り、そして小突くように強引に入口の方に連行された。
私「何も暴力に訴えなくても話をしようじゃないか。」
富岡「貴様部下を首にしていながら、よくも駅長だなどとどの面下げて言われるか。今日は貴様をやってつけやるから来い。」と踏張る私を、今度は右手を内側にねじり、事務室の外の廊下に引張りだし、更に、「おれは東京の魚河岸に勤めていた事もある。命は惜しくない。貴様らの二人や三人刺すのは朝めし前だ」とどなり、待合室中央まで引張り出し、更に胸倉をとり小突きながら、「向うの田んぼのふちで貴様の命のやりとりをするから来い」とおどかされた。

中略

最初佐藤、富岡の両氏が駅より約八十米離れている私の宿舎を訪れ、先ず富岡氏が「この度駅長の上申書によって佐藤昭二は首になった。駅長の家族としてこれをどう思いますか。この件につき後で後悔されてを困るから駅に来てぐれ」と荒々しい言葉で言われたのであるが、家内は深夜の来訪に恐ろしくなり、「職場の事は何も分りませんから行きません」とはっきり断った。五分位すると更に富岡、桑原の両氏が再び訪れ、前記のような事で呼出しに来た。家内も子供も、若し二度も断れば、どんな仕返しをうけるか知れないと思い、又、家内は私の身を案じ、止むなく呼出されて来たのであった。私の長男は、父や母の身を案じ、田んぼの畦道を彼等に気付かれない様に約1km余の駐在巡査に救を求めに走行した

 と証言しています。

新潟闘争、中島駅長証言 昭和32年国鉄線12月号から引用

新潟闘争、中島駅長証言

当然のことながら、この件では、警察が入ったとされました。

また。11日の職場集会は、結局46カ所で行われ、旅客列車14本、貨物列車64本が運休することとなりました。

更に新潟闘争は続くのですが、長くなりそうなので、続きは又別の機会にさせていただきます。

 

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