日本国有鉄道労働運動史【鉄労視点】

日本国有鉄道労働運動史、鉄労視点で綴るblogです

新潟闘争とはどのような闘争だったのか 第三話

本日は、出張先から書いているため、十分な資料が手元にないことから、国鉄の部内紙等を参考に、新潟闘争について語ってみたいと思います。

元々は賃上げ闘争の問題から発生した歪みが、結果的にこれほど大きくなってしまったのはどうした理由からでしょうか。

新潟闘争がこれほど大きな闘争となった背景を考える

その一つには、組合と当局の対立があったことは言を待ちませんが、それ以外にも、地本と本部、もしくは、民同左派と革同との主導権争いといった派閥争いも原因の一つではないかと考えています。

国労は、3つのグループで構成されていた

国労は、民同左派・右派、革同、共産党で構成されていました

国労は3つのグループで構成されていた

国労という組織が、共産党系のグループ、共産党とは距離を置きながらも共闘を否定しない国鉄労働組合革新同志会(革同)、共産党には批判的な国鉄民主化同盟(民同)という3つのグループがありました。
さらに、国鉄民主化同盟が、右派と左派に分かれていました。

そして、新潟闘争の直接のきっかけを作ったのは、昭和31年3月23日に行われた、自然発生的なストライキでした。
弊サイト国鉄があった時代で、その時系列を追ってみたいと思います。

 国労春季闘争激化。第3波に入る。 3/11・12
岸総理と鈴木社会党委員長によるあっせんが行われるに至ったが、事態は好転せず

国労、午後2時から業績手当て問題で職場大会などの抜き打ちストを実施、運輸大臣の支給命令で5時に解除 3/23

この闘争に関しては、国労本部が指示を出したものではないものの、実質的には容認しており、国労50年史には下記のように書かれています。

三月一六日には、仲裁裁定の完全実施を要求する公労協の統一職場大会が計画されていたが、その前日、岸信介首相と鈴木茂三郎社会党委員長とのトップ会談で、政府が仲裁裁定の完全実施を約束したため、中止された。以降、完全実施が慣行化した。続いて計画されていた 最低賃金制を目指す国労のスト計画に対して、国鉄当局は業績手当の支給を中止するという措置で対抗した。憤激した組合員は三月二三日、自然発生的にストに入り、国労本部もこのストを公認した。いわゆる抜き打ちストであった。

とここまでは、国労も容認する抜き打ちストが行われたわけですが、このストに対して当局は700名以上の大量の処分を発令、解雇者も多数出すこととなりました。

これに対して、国労も反応し、国労では6月の国労大会で、処分反対闘争を賃上げや反合理化同様重要な闘争方針としました。

再び弊サイト国鉄があった時代を参照したいと思います。

 

国労処分反対闘争実施の計画を発表 4/10

国労では、中央委員会を開き、処分反対闘争を行うことを決定、不当処分が行われた場合は、その翌々日から直ちにに3月23日の抜打ち職場大会を上回る実力行使を展開するという方針をたて、公労脇も同調、総評も長期的反対闘争の勢態を整えることとしている

衆議院社会労働委員会では、公共企業体労働委員会 藤林、中山両委員を参考人として招致 4/20

裁定の内容について説明を聴取、藤林委員長が、1,200円まるまる増額するのが適当である旨の発言をめぐって、その態度が批判された他、松浦労相が春闘の責任者として40~18名の馘首、700名程度の戒告等の処分を用意している旨を発表し、政府、労使ともどもを混乱におとし入れる事態が発生

当局は春闘責任者28名の解雇、675名の停職減給を発表 5/8

国労、機旁の春闘に対する責任者の処分は28名の解雇、675名の停職減給などという未曾有の大処分となった、処分発表に当り、総裁は国鉄の使命と秩序維持のためにも処分を決定せざるを得なかった旨の声明を発表

春闘処分を巡って動き 5/11・12

国労・機労の春闘に対する責任者の処分は、28名の解雇、675名の停職・減給などという未曾有の大量処分となったが、組合はこの処分を不当とし、全国的に処分反対抗議闘争を展開し、また輸送に大きな支障を与えた

国労、処分に反対して、運転部門以外で半日職場大会を開催 6/4

国鉄当局、処分反対闘争の処分、解雇1人など発令 6/6

新潟地本、処分撤回職場集会で貨物71本運休 6/13

国労第16回定期大会開催、解雇三役を再選 6/22~6/27

 松山において国鉄労組の全国大会が開催された、結局、国民の信頼をかちえなけれぱならないこと、より姿勢を低くするとも、組合の統一ある行動は守られねばならぬことに結論を見出した
しかし、役員の改選に当っては、解雇された3役が再選されるという結果になり、今後団体交渉などについて再び問題を残すこととなり、その成行は注目される

以上、弊サイトから引用

国労は、世論も考慮し処分撤回闘争の中止方針を決断

これに対抗して、国労等は処分撤回闘争を行うも、当局は管理局単位での処分を展開するという泥沼に陥っていくのでした。

国労としては、これ以上の闘争は不利と判断して、国労第16回定期大会で、「より姿勢を低くするとも、組合の統一ある行動は守られねばならぬことに結論を見出した」とあるように、過激な戦いを避けようという方向性に進んでいくのですが、ここで注目していただきたいのが、6月4日の職場大会は、運転職場以外で開催したのに対して、新潟地本は13日に貨物71本を運休させる職場大会を開催したとしています。
国労大会の前とはいえ、概ねこの頃では本部の方針は決定しているでしょうから、そのように考えると、新潟地本の動きは突出していると言えます。

ここに、国労という組織の難しさが出てくるのでした。
国労という組織自体は、決して一枚岩ではなく、最初に記したように、大きく分けて三つのグループ、更に、その中で複数のグループに分裂していました。
新潟地本は、広島地本同様、革同の拠点であり国労本部としても、やっかいな存在であったと推測されます。
再び、国労の50年史を参照してみたいと思います。

国鉄本社は現地管理局に対し、一切の妥協をしてはならないと指示した。この動きとは別に警察当局が地本幹部を逮捕したことから再び組合員の抗議行動が強化された 。政府も、閣議国鉄当局の強硬方針を支持することを決定した。この局面で、国労本部は 、新潟闘争を全国化して全面的対決を強めるか、逆に実力闘争を中止するかの選択を迫られた。この選択は、新潟地本が革同系執行部の主導権元に有ったこともあり、53年以来、民同左派と革同の連合により比較的安定してきた中執の中で激しい論争が展開された。論議の結果は、戦術転換論が多数を占め新潟闘争は打ち切られた。総評首脳部も、この方針を支持し、8月の総評大会で収拾が確認された。この新潟闘争を契機に、第二組合が結成された。

国労に向けられる厳しい世論

ここにあるように、ここで国労は、革同の流れに沿って更に強力な新潟闘争を全国的なものとするのか、否かの選択を迫られますが、当時の陸上輸送は、鉄道が主体であり、世論は国鉄とりわけ、国鉄労働者には厳しい目を向けていました。

「迷惑するのはいつも国民だが、こんどの場合、農民と水産業者の闘争反対デモは圧巻だった。『少しばかり文化的な労働者だといって、同じ労働者のわれわれのクピをしめるつもりか。』とどなった声は、組合側にとっても泣きどころであったようだ。」(週刊読売8月4日号)

国鉄昭和32年10月号の記事から引用

国鉄線昭和32年10月号の記事から抜粋

国鉄線昭和32年10月号の記事から抜粋

国労執行部としては、革同の流れに乗りたくない、本部の威厳を守りたいといった気持ちもあったかと思います。
結果的に、国労本部預かりという形で収拾を図ったものの、新潟地本の中では燻ったものがあったのでしょう、それがその後の職能別組合の分離に繋がっていくのですが、そのあたりは改めて、次回以降に記述させていただきます。

  

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文責 加藤好啓

国鉄があった時代 JNR-era
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