日本国有鉄道労働運動史【鉄労視点】

日本国有鉄道労働運動史、鉄労視点で綴るblogです

新潟闘争とはどのような闘争だったのか 第六話

久々に更新させていただきます。
国労の闘争は、共産党の指示によるもので、業務は混乱を招き、特に貨物列車の運休は甚大な被害を利用者に与えることとなりました。【後述】

これをうけて、当局はも腹をくくり、考案で対応できないときは県警の夜警察力を導入することとしました。

警察の介入も辞さず、覚悟を決める新潟鉄道管理局長

国労の闘争に対し、局長は新潟県警本部を訪ね、最悪の場合、警察の介入を依頼したのでした。

記録によりますと、昭和32年7月11日で、午前中に訪問したとされています。

これを知った新潟地本は、国労本部に下記のようなような要請をしたらしいです。

そこで、鉄労友愛会議著、国鉄民主化への道 P261から引用してみたいと思います。

新鉄局長の河村勝は、11日の午前、県警本部長の中野をたずね、闘争の模様を説明し、才覚の事態が起こった場合の応援を依頼した。このような河村の動きを知った新潟地本は、国労本部に「局長が県警本部へ、最悪の場合の警察力行使したことは、闘争を中止すれば直ちに処分が行われる。無期限闘争を許可してほしい」と要請した。国労本部は、スジの通らない理由だと言って許可せず、「新潟地本は12日から当分の間、各支部が一箇所ずつの職場を指定し、朝6時頃から夕方6時までの間、一時間の直罵大会、順法闘争をおこなうこと」と”戦線縮小”を指令した。

引用終わり。

国労地本と新潟地本の温度差

新潟地本は、新潟鉄道管理局長が警察力行使を要請したことは、闘争を中止すれば直ちに処分が行われるとして、国労本部に無期限闘争の許可を申請するも、国労本部は拒否されたと書かれています。

当時の国労本部は、処分撤回闘争などを各地本に降ろすようにしていました。

特にこの頃の国労は、左傾化が更に進み、民同右派と呼ばれるグループはどんどん橋に追いやられていきます。そんな中、解雇処分を受けた左派グループが三役に選出されていました。

このような流の中、新潟地本も、多少無茶をしても、国労地本が守ってくれると思っていた節があります。しかし、国労本部は新潟地本からの申し出を拒否しています。

新潟地本としては、国労の三役を呼ぶことで、運動の正当性を狙ったのですが、国労本部は、その作戦には乗らなかたわけです。

国労本部としては、新潟地本による共産党の行動は目に余ると思っていたのでしょう。

国労本部は、国労関東地本が、新潟地本を応援するという名目で新潟で開催された集会には、そこに組合幹部を送り込んでいます。

これは、新潟地本を抑えるのに、関東地本を使おうという考え方だったそうです。

再び、鉄労友愛会議著、国鉄民主化への道 P262から引用してみたいと思います。

「新潟地本は、本部と十分相談して行動した、新潟の行動は十分相談して行動した。新潟の行動は本部の指令による」と言うことにしたかったようだ。が、国労本部はその手には乗らなかった。三役は派遣せず、国労関東地本が、新潟闘争支援と闘争強化のために、新潟市で関東ブロック会議を開くことになっていたので、「この会議に細井宗一【革同派】他二人の中た「中闘委員を出席させるという名目で、三人を派遣した記述が残っています。 

引用終わり

結果的に新潟に役員などを送り込んでいますが、これは新潟地本を押さえつけるために行うためにおこなったことで、この会議では「新潟の闘争を関東全体の闘争にすることなどを決めたそうですが、これは関東と新潟地本が共同歩調を取ることになり、言ってみれば、新潟地本の一部過激な活動家を封じ込めることも目的であったようです。

 

新潟闘争の世論記事

新潟闘争の世論記事

 続く

 

にほんブログ村 科学ブログ 人文・社会科学へ
にほんブログ村 にほんブログ村 歴史ブログ 現代史 戦後(日本史)へ 
にほんブログ村 にほんブログ村 鉄道ブログへ
にほんブログ村 にほんブログ村 鉄道ブログ 国鉄へ
にほんブログ村

********************************************************
取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に
blackcat.kat@gmail.comにメール
またはメッセージ、コメントにて
お待ちしております。

国鉄があった時代 JNR-era
********************************************************