新潟闘争とはどのような闘争だったのか 第十一話 鉄労の原点となった民主化同盟とは?
長らく更新できず、申し訳ありませんでした。
今回も、国鉄労働組合四〇年史と国鉄民主化の道を参考にお話を進めさせていただきます。
国労の分裂は新潟闘争前からあった?
国労の分裂は、新潟闘争前からあったことが、国鉄民主化の道を参照しますと伺えます。
国労の中では、現在の自民党と同じでいわゆる派閥による勢力争いと言いますか、左派もいれば、革同派、新生民同派(いわゆる民同右派で、その後分裂)の大きく分けて3つの派閥による集合体で有り、国労としては中々一本化できないところにジレンマがありました。
実際、国労は昭和31年の伊勢大会では、派閥の解消を中心にした議論が開催された対し、昭和32年度の松山大会では、派閥解消どころか、派閥争いに夜討議が行われるという逆戻りをしてしまったそうで、そんな中で、ガス抜き対策というわけでもないでしょうが、規約を変更して、副委員長一人増やし、三六人体制として、新生民道派(国鉄民主化同盟)にポストが多く与えられる結果となりました。
大きすぎる組織(国労)故の悲哀
元々、国鉄という大組織ですの、皆が皆同じ考えというわけではなく、左右の思考の対立がありました。
国労というと最後まで国鉄分割民営化に反対したグループというイメージがつきまといますが、実際には、国鉄分割民営化直前に現実路線に舵を切った、鉄産総連は、国労の旧主流派(民同左派)であり、最後まで残ったのは、それまでの非主流派と言われた人たちでした。協会派や、革同派*1が残る形となりました。
ですので、国労=労使協調路線ではない組合、鉄労・動労=労使協調路線の組合という色分けは必ずしも正しいとは言えないわけです。
むしろ、したたかに振る舞ったのは、動労で有り、そうした意味で国労は気の毒な組合であったと言えるかもしれません。
国鉄民主化同盟とは?
先ほど、鉄産総連を作ったのは、民同左派と書きましたが、ここで言う民同とは、国鉄民主化同盟)というもので、元々は反共産党系のグループでしたが、以下に示すように歴史の流れの中で、徐々に共産党とは距離を置きつつも、過激な運動に走るグループと、純粋に労使協調路線を目指すグループに別れていくこととなり、純粋の労使協調路線を目指すグループは、民同右派と呼ばれ、逆にある程度実力行使を伴う運動をするグループが民同左派と呼ばれるようになり、昭和61年の修善寺臨時大会までは、民同左派が実権を握っており、労使協調路線とまでは、行かなくとも何とかバランスをとりながらと言ったところでした。
そこで、国労に限らず、日本において労使協調路線の組合がいつ頃からあったのかと言うことを紐解いてみますと、
ただ、組合内の上記のように複数の派閥が存在するため、
さて、国労と言う組織は当初から労使対立、階級闘争と言う言葉を使っていたわけではなく、発足当初は穏健で、むしろ、労使協調路線を目指す派閥もあったようです。
その辺を、大原社会問題研究所 日本労働年鑑 第25集 1953年版から引用させていただきます。
翌一九四八年の春、産別民主化同盟の発足とともに「国鉄民主化同盟」となり、一九四九年夏の行政整理によってレッド・パージが行われて以来、国鉄労組の主導権をにぎってきたのである。しかしその後一九四九年の越年闘争や、一九五〇年の春季闘争をめぐって民同内に新な左右対立がめばえるにいたった。民同はもともと反共を旗じるしにして、健全な労働運動をめざした穏健な性格のものであったにもかかわらず、その内部にすら左右対立を生ぜしめるにいたったことに注目すべきである
と有りますように、国労では元々、健全な労使関係を目指す国鉄民主化同盟画素の主流派だったのですが、その中でも左右対立を生じたと書かれていますが、この原因の一つとして、国鉄発足後の仲裁裁定が完全に実施されなかったことが原因ではないかと言われています。
当時の食糧事情やインフレを考えれば、仲裁裁定の完全実施が行われていたならば、左右分裂も起こらず、国鉄の姿はもう少し代わったものになっていた可能性もあるといえそうです。
実際、当時の政府に金がなかったとしても、独立採算の建前があったとしてもその辺をきちんとしてこなかったことが、その後の労働運動をややこしくする原因を作ったと言えそうです。
新生民同の誕生
民主化同盟は、総評の平和3原則を受け入れるか否かで紛糾したことが発端になったと言われており、以下のように発言しています。
民主化同盟は、昭和26年1月の社会党による平和三原則を提唱したことを受けて、開催された、6月8日に開催された国労新潟大会で、民同派が右派と左派に分裂し、役員改選が行われ、執行部の2/3を左派が占めることになりました。
その後も、民同の右派と左派は対立を続けることになります。
民同の分裂に関しては、再び大原社会問題研究所 日本労働年鑑 第25集 1953年版から引用させていただきます。
平和三原則*2を運動方針に採択するかしないかをめぐる討論によって表面化した。しかもこの時に、右翼的な労働運動が、いわゆる「愛国労働運動」としてなのり出たことが特に注目されるのである。
すなわち、右翼的労働運動の総師である星加要は、大会における中闘原案の説明に際して次のように発言している。今日労働者が手を握るべき国際主義の立場というものは、世界労連と自由世界労連の二つにわかれておるということであります。このことは一体何を意味するかというと、共産主義的なインターナショナルと、自由民主的なインターナショナルが世界にあるということであります。われわれはこの国際主義という場合に自由世界労連、民主的な自由な労働組合運動としての国際主義をとっておるのであります。
とありますように、労働運動は共産主義以外にも世界自由労連があるとして、われわれはそちらを進むべきだという発言をしているわけで。
この辺の発言が、その後の民社党結党などと繋がっていくのでしょうね。
結果的に、平和三原則を社会党も受け入れたことから、民主化同盟の中でも反発が起きて、旧来の民主化同盟は瓦解することとなり、新民主化同盟が誕生することとなりました。
その辺の事情を再び、大原社会問題研究所 日本労働年鑑 第25集 1953年版から引用させていただきます。
一、民同は反共連盟として発足した当初の存在意義が失われた、
二、民同組織が人事問題の利用に供されている、
三、フラクのごたごたに終始せず国鉄労組全体の発展を考えるべきである、
などの理由のもとに、ついに民主化同盟を解散するの余儀なきにいたった
ここで出てくる、フラク会議とは、フラクションfraction活動のことらしいです。
組合運動の中に党員による小集団を組織して、政党などの方針を浸透させていく活動をさします。
こうした、国鉄民主化同盟自体が、反共連盟として発足したのに、社会党が日本共産党とともに、平和三原則を導入したことに対して、上記のように「民同は反共連盟として発足した当初の存在意義が失われた」と言う発言に繋がったと言えます。
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