日本国有鉄道労働運動史【鉄労視点】

日本国有鉄道労働運動史、鉄労視点で綴るblogです

新潟闘争とはどのような闘争だったのか 第一〇話

本日から、新潟闘争以後のお話を進めさせていただこうと思います。

今回も、主たる資料は鉄労の、国鉄民主化の道を参考にしながら、国労四〇年史などを随時参照しながら書かせていただく予定としております。

新潟地本は、共産党・革同派の拠点?

新潟地区には当時1万3000名の国鉄労働者がおり、これら労働者が加盟していたのが、共産党国鉄労働組合革新同志会(革同)*1の派閥でした。

国労の地本委員長が列車に乗っていると判ると、通過列車であってもわざわざ敬礼する現場長もいたという逸話も残されています。

その辺を、鉄労編纂、「国鉄民主化への道」から引用してみたいと思います。

当時1万3千名の国鉄新潟労働者を、がっちり握っていた共産・革同は、鋼鉄の地本と豪語し。県評の中核体として振舞い・・・地本委員長が列車に乗っていることがわかれば、わざわざホームを走って行って、車窓から敬礼した現場長もかなりいたように伝えられているものである。現場長の命令により、組合指令が優先するような雰囲気の中では、国鉄業務の研究をする者は、"変わり者"か。当局への"機嫌取り"のように見られていた。

現場長といえば、もちろん駅長などでありますから、駅長が管理局長と同格か。それ以上に、組合の地本委員長に対して謙っていたと言うことになります。

そこで、国労側から改めてこの辺はどうであったのか見ていきますと、やはり国労としては新潟闘争はあまり触れられたくない内容なのか、かなりあっさりと書かれています。

要約すれば、国労としては当局が実施したスト参加者に対して大量処分を発令する当局に対してもっと強い姿勢で挑むとう考え方が根底にありましたが、新潟地本自体が共産党が強い拠点でもあることから、最終的には共産党とは組めないとして、新潟闘争に支援を行わない(資金援助も含めて)こととしたため、結果的に新潟地本側の敗北という形で終わります。

ただ、国労としては、民同左派と革同派でなんとかバランスを取りながら運営が行えている中で、新潟地本は前述の通り、共産党の拠点でもあることから、国労としては深入りをせずという方向になったと「国鉄労働組合四〇年史」には書かれています。
今度は、「国鉄労働組合四〇年史」から引用してみたいと思います。

ここまで来ると国労本部としては新潟闘争のたたかいを全国化して全面的な対決をするか、それともひとまず実力闘争を中止するかの選択を迫られることとなった。この問題をめぐっては、新潟地本が革同系執行部の元にあったこともあって、1953年以来、民同左派と革同の連合によって比較的安定してきた中執のなかでも激しい論争が展開された。論議の結果は戦術転換論が多数となり、新潟闘争は打ち切られた

 こうしてみると国労内でも、共産党の扱いに対しては批判的であったことがうかがえます。

新潟闘争前にあった、新組合結成の動き

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 国労の新潟闘争が勃発する前、時計に針を約2年ほど前に戻してみたいと思います。

昭和30年2月1日には共産・革同が支配する国労地本に反発する形で、"組合を守る会"が結成され、「組合民主主義が根底からさらわれようとしている」として、約600人が参加するのですが、これに驚いたのは新潟地本であり,"守る会潰し"が行われ、村八分戦術とでも言う嫌がらせを実施、(家族間の交流禁止や、無視にとどまらず、子供同士も遊ばないように指導すると言った徹底ぶり)したため、結局一年半後の昭和31年9月5日には"組合を守る会"は解散せざるを得なかったとしています。

解散後の11ヶ月後には新潟闘争が勃発するわけですが、新潟闘争では比較的早い時期から国労脱退者が出てくるのですが、これは過去の"組合を守る会"の存在、さらには、組合員の中に、新潟地本に対する反発が大きかったことは容易に窺えます。

脱退者は200人近くになったそうですが、やはり前回と同様、村八分的行為が行われたようで、"組合を守る会"の幹部と相談した結果、脱退者だけで新組合を作ることになったとしています。

その辺を、再び「国鉄民主化への道」から引用してみたいと思います。
脱退者は200人ぐらいになった。闘争終了後、この脱退者たちが、国労の組合員からいじめられたり、村八分的にされたりしたこともあったて、かつて"組合を守る会"の幹部だった人と色々と話し合った。その結果、新組合をつくろうということになり、本局営業部総務課の渡部徳哉(後に東京第三工事局次長)と総務部人事課に赤津友三郎(後に新地労初代委員長。新潟駅長、信越地方自動車部長)の連名で、「32年8月4日12時から。旧新潟駅前のの篠田旅館で、
(1)新潟地方労組設立について、
(2)職能別労働組合に対する態度について、
(3)社会党員協議会について。

協議したいから、万障繰り合わせてご出席願いたい」との招集状を出した。
 この結果大開準備会には、62人が出席した。「現在の国労新潟地本の執行部は信頼できない。これは相手にしない」という点では意見が一致したが、どういう形の新組合にするかについては意見がまとまらなかった。

少し長文になってしまいましたが、新潟闘争が起こる前にすでに、分裂の機運は有ったものの、新潟地本の組合側圧力で改革の萌芽は摘まれてしまいましたが、新潟闘争を経て再びそうした分裂の芽は地表に顔を出そうするのですが、まだこの時点では、どのような形の組合にするのかという方向性が決まらなかったと書かれていますが。

むしろ、簡単に決まらないほどに問題は複雑、かつ深いものであったと言えそうです。

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*1:革同派は、共産党とは距離を置くものの、共産党とは共闘する、いわゆるシンパとして、活躍するグループ