日本国有鉄道労働運動史【鉄労視点】

日本国有鉄道労働運動史、鉄労視点で綴るblogです

新潟闘争とはどのような闘争だったのか 第十一話 鉄労の原点となった民主化同盟とは?

長らく更新できず、申し訳ありませんでした。

今回も、国鉄労働組合四〇年史と国鉄民主化の道を参考にお話を進めさせていただきます。

 

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国労の分裂は新潟闘争前からあった?

国労の分裂は、新潟闘争前からあったことが、国鉄民主化の道を参照しますと伺えます。

国労の中では、現在の自民党と同じでいわゆる派閥による勢力争いと言いますか、左派もいれば、革同派、新生民同派(いわゆる民同右派で、その後分裂)の大きく分けて3つの派閥による集合体で有り、国労としては中々一本化できないところにジレンマがありました。

実際、国労は昭和31年の伊勢大会では、派閥の解消を中心にした議論が開催された対し、昭和32年度の松山大会では、派閥解消どころか、派閥争いに夜討議が行われるという逆戻りをしてしまったそうで、そんな中で、ガス抜き対策というわけでもないでしょうが、規約を変更して、副委員長一人増やし、三六人体制として、新生民道派(国鉄民主化同盟)にポストが多く与えられる結果となりました。

大きすぎる組織(国労)故の悲哀

元々、国鉄という大組織ですの、皆が皆同じ考えというわけではなく、左右の思考の対立がありました。

国労というと最後まで国鉄分割民営化に反対したグループというイメージがつきまといますが、実際には、国鉄分割民営化直前に現実路線に舵を切った、鉄産総連は、国労の旧主流派(民同左派)であり、最後まで残ったのは、それまでの非主流派と言われた人たちでした。協会派や、革同派*1が残る形となりました。

ですので、国労労使協調路線ではない組合、鉄労・動労労使協調路線の組合という色分けは必ずしも正しいとは言えないわけです。
むしろ、したたかに振る舞ったのは、動労で有り、そうした意味で国労は気の毒な組合であったと言えるかもしれません。

国鉄民主化同盟とは?

先ほど、鉄産総連を作ったのは、民同左派と書きましたが、ここで言う民同とは、国鉄民主化同盟)というもので、元々は反共産党系のグループでしたが、以下に示すように歴史の流れの中で、徐々に共産党とは距離を置きつつも、過激な運動に走るグループと、純粋に労使協調路線を目指すグループに別れていくこととなり、純粋の労使協調路線を目指すグループは、民同右派と呼ばれ、逆にある程度実力行使を伴う運動をするグループが民同左派と呼ばれるようになり、昭和61年の修善寺臨時大会までは、民同左派が実権を握っており、労使協調路線とまでは、行かなくとも何とかバランスをとりながらと言ったところでした。

そこで、国労に限らず、日本において労使協調路線の組合がいつ頃からあったのかと言うことを紐解いてみますと、

ただ、組合内の上記のように複数の派閥が存在するため、

さて、国労と言う組織は当初から労使対立、階級闘争と言う言葉を使っていたわけではなく、発足当初は穏健で、むしろ、労使協調路線を目指す派閥もあったようです。

その辺を、大原社会問題研究所 日本労働年鑑 第25集 1953年版から引用させていただきます。

翌一九四八年の春、産別民主化同盟の発足とともに「国鉄民主化同盟」となり、一九四九年夏の行政整理によってレッド・パージが行われて以来、国鉄労組の主導権をにぎってきたのである。しかしその後一九四九年の越年闘争や、一九五〇年の春季闘争をめぐって民同内に新な左右対立がめばえるにいたった。民同はもともと反共を旗じるしにして、健全な労働運動をめざした穏健な性格のものであったにもかかわらず、その内部にすら左右対立を生ぜしめるにいたったことに注目すべきである

 と有りますように、国労では元々、健全な労使関係を目指す国鉄民主化同盟画素の主流派だったのですが、その中でも左右対立を生じたと書かれていますが、この原因の一つとして、国鉄発足後の仲裁裁定が完全に実施されなかったことが原因ではないかと言われています。

当時の食糧事情やインフレを考えれば、仲裁裁定の完全実施が行われていたならば、左右分裂も起こらず、国鉄の姿はもう少し代わったものになっていた可能性もあるといえそうです。
実際、当時の政府に金がなかったとしても、独立採算の建前があったとしてもその辺をきちんとしてこなかったことが、その後の労働運動をややこしくする原因を作ったと言えそうです。

新生民同の誕生

民主化同盟は、総評の平和3原則を受け入れるか否かで紛糾したことが発端になったと言われており、以下のように発言しています。

民主化同盟は、昭和26年1月の社会党による平和三原則を提唱したことを受けて、開催された、6月8日に開催された国労新潟大会で、民同派が右派と左派に分裂し、役員改選が行われ、執行部の2/3を左派が占めることになりました。
その後も、民同の右派と左派は対立を続けることになります。
民同の分裂に関しては、再び大原社会問題研究所 日本労働年鑑 第25集 1953年版から引用させていただきます。

平和三原則*2を運動方針に採択するかしないかをめぐる討論によって表面化した。しかもこの時に、右翼的な労働運動が、いわゆる「愛国労働運動」としてなのり出たことが特に注目されるのである。
すなわち、右翼的労働運動の総師である星加要は、大会における中闘原案の説明に際して次のように発言している。

今日労働者が手を握るべき国際主義の立場というものは、世界労連と自由世界労連の二つにわかれておるということであります。このことは一体何を意味するかというと、共産主義的なインターナショナルと、自由民主的なインターナショナルが世界にあるということであります。われわれはこの国際主義という場合に自由世界労連、民主的な自由な労働組合運動としての国際主義をとっておるのであります。

 

とありますように、労働運動は共産主義以外にも世界自由労連があるとして、われわれはそちらを進むべきだという発言をしているわけで。

この辺の発言が、その後の民社党結党などと繋がっていくのでしょうね。

結果的に、平和三原則を社会党も受け入れたことから、民主化同盟の中でも反発が起きて、旧来の民主化同盟は瓦解することとなり、新民主化同盟が誕生することとなりました。

その辺の事情を再び、大原社会問題研究所 日本労働年鑑 第25集 1953年版から引用させていただきます。

国鉄民主化同盟フラク会議総会において、

一、民同は反共連盟として発足した当初の存在意義が失われた、

二、民同組織が人事問題の利用に供されている、

三、フラクのごたごたに終始せず国鉄労組全体の発展を考えるべきである、

などの理由のもとに、ついに民主化同盟を解散するの余儀なきにいたった

 ここで出てくる、フラク会議とは、フラクションfraction活動のことらしいです。

組合運動の中に党員による小集団を組織して、政党などの方針を浸透させていく活動をさします。

こうした、国鉄民主化同盟自体が、反共連盟として発足したのに、社会党日本共産党とともに、平和三原則を導入したことに対して、上記のように「民同は反共連盟として発足した当初の存在意義が失われた」と言う発言に繋がったと言えます。

 

 

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*1:協会派→社会主義協会や、革同派→国鉄労組革新同志会

*2:社会党が昭和26年1月の党大会で,〈中立堅持,軍事基地提供反対,全面講和実現〉とする方針を決定したものであり、同年3月には総評全体も指示ずる方向を決めたもの

新潟闘争とはどのような闘争だったのか 第一〇話

本日から、新潟闘争以後のお話を進めさせていただこうと思います。

今回も、主たる資料は鉄労の、国鉄民主化の道を参考にしながら、国労四〇年史などを随時参照しながら書かせていただく予定としております。

新潟地本は、共産党・革同派の拠点?

新潟地区には当時1万3000名の国鉄労働者がおり、これら労働者が加盟していたのが、共産党国鉄労働組合革新同志会(革同)*1の派閥でした。

国労の地本委員長が列車に乗っていると判ると、通過列車であってもわざわざ敬礼する現場長もいたという逸話も残されています。

その辺を、鉄労編纂、「国鉄民主化への道」から引用してみたいと思います。

当時1万3千名の国鉄新潟労働者を、がっちり握っていた共産・革同は、鋼鉄の地本と豪語し。県評の中核体として振舞い・・・地本委員長が列車に乗っていることがわかれば、わざわざホームを走って行って、車窓から敬礼した現場長もかなりいたように伝えられているものである。現場長の命令により、組合指令が優先するような雰囲気の中では、国鉄業務の研究をする者は、"変わり者"か。当局への"機嫌取り"のように見られていた。

現場長といえば、もちろん駅長などでありますから、駅長が管理局長と同格か。それ以上に、組合の地本委員長に対して謙っていたと言うことになります。

そこで、国労側から改めてこの辺はどうであったのか見ていきますと、やはり国労としては新潟闘争はあまり触れられたくない内容なのか、かなりあっさりと書かれています。

要約すれば、国労としては当局が実施したスト参加者に対して大量処分を発令する当局に対してもっと強い姿勢で挑むとう考え方が根底にありましたが、新潟地本自体が共産党が強い拠点でもあることから、最終的には共産党とは組めないとして、新潟闘争に支援を行わない(資金援助も含めて)こととしたため、結果的に新潟地本側の敗北という形で終わります。

ただ、国労としては、民同左派と革同派でなんとかバランスを取りながら運営が行えている中で、新潟地本は前述の通り、共産党の拠点でもあることから、国労としては深入りをせずという方向になったと「国鉄労働組合四〇年史」には書かれています。
今度は、「国鉄労働組合四〇年史」から引用してみたいと思います。

ここまで来ると国労本部としては新潟闘争のたたかいを全国化して全面的な対決をするか、それともひとまず実力闘争を中止するかの選択を迫られることとなった。この問題をめぐっては、新潟地本が革同系執行部の元にあったこともあって、1953年以来、民同左派と革同の連合によって比較的安定してきた中執のなかでも激しい論争が展開された。論議の結果は戦術転換論が多数となり、新潟闘争は打ち切られた

 こうしてみると国労内でも、共産党の扱いに対しては批判的であったことがうかがえます。

新潟闘争前にあった、新組合結成の動き

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 国労の新潟闘争が勃発する前、時計に針を約2年ほど前に戻してみたいと思います。

昭和30年2月1日には共産・革同が支配する国労地本に反発する形で、"組合を守る会"が結成され、「組合民主主義が根底からさらわれようとしている」として、約600人が参加するのですが、これに驚いたのは新潟地本であり,"守る会潰し"が行われ、村八分戦術とでも言う嫌がらせを実施、(家族間の交流禁止や、無視にとどまらず、子供同士も遊ばないように指導すると言った徹底ぶり)したため、結局一年半後の昭和31年9月5日には"組合を守る会"は解散せざるを得なかったとしています。

解散後の11ヶ月後には新潟闘争が勃発するわけですが、新潟闘争では比較的早い時期から国労脱退者が出てくるのですが、これは過去の"組合を守る会"の存在、さらには、組合員の中に、新潟地本に対する反発が大きかったことは容易に窺えます。

脱退者は200人近くになったそうですが、やはり前回と同様、村八分的行為が行われたようで、"組合を守る会"の幹部と相談した結果、脱退者だけで新組合を作ることになったとしています。

その辺を、再び「国鉄民主化への道」から引用してみたいと思います。
脱退者は200人ぐらいになった。闘争終了後、この脱退者たちが、国労の組合員からいじめられたり、村八分的にされたりしたこともあったて、かつて"組合を守る会"の幹部だった人と色々と話し合った。その結果、新組合をつくろうということになり、本局営業部総務課の渡部徳哉(後に東京第三工事局次長)と総務部人事課に赤津友三郎(後に新地労初代委員長。新潟駅長、信越地方自動車部長)の連名で、「32年8月4日12時から。旧新潟駅前のの篠田旅館で、
(1)新潟地方労組設立について、
(2)職能別労働組合に対する態度について、
(3)社会党員協議会について。

協議したいから、万障繰り合わせてご出席願いたい」との招集状を出した。
 この結果大開準備会には、62人が出席した。「現在の国労新潟地本の執行部は信頼できない。これは相手にしない」という点では意見が一致したが、どういう形の新組合にするかについては意見がまとまらなかった。

少し長文になってしまいましたが、新潟闘争が起こる前にすでに、分裂の機運は有ったものの、新潟地本の組合側圧力で改革の萌芽は摘まれてしまいましたが、新潟闘争を経て再びそうした分裂の芽は地表に顔を出そうするのですが、まだこの時点では、どのような形の組合にするのかという方向性が決まらなかったと書かれていますが。

むしろ、簡単に決まらないほどに問題は複雑、かつ深いものであったと言えそうです。

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*1:革同派は、共産党とは距離を置くものの、共産党とは共闘する、いわゆるシンパとして、活躍するグループ

新潟闘争とはどのような闘争だったのか 第九話

ほぼ1ヶ月ぶりの更新になります。

新潟闘争は妥結するどころか更に悪化の一途を辿ることになりましたが、その辺のお話しをさせていただこうと思います。

交渉決裂後も、独自の闘争を展開する新潟地本

河村・細井会談の打ち切り後、国労中闘委員の細井は15日午前9次の急行佐渡で東京へ帰ってしまったそうで、新潟地本としては夕刻19時頃から各地で職場大会を開催、弥彦線では踏切10カ所の組合員が職場を放棄して職場集会に入ったそうです。
このため、保線区の助役が踏切の助勤に入るまでの間、駅助役が列車に乗り込み、踏切手前で一旦停止して、下車したうえで、誘導運転をしたそうです。

当局の記録では、15日には140カ所で職場集会が開かれ旅客列車19本、貨物列車114本運休【貨物列車の運休率は、63%】に上りました。

国労を離脱者が出始めるとともに、当局も長期戦を覚悟

ただ、この日を境に、国労を集団脱退する組合員もいたそうで、7月15日、午後1時頃、東三条駅の駅員が、「23人」脱退すると宣言したのを皮切りに、柴田駅、長岡【操車場】駅、新潟鉄道管理局などで国労脱退者が相次ぐ事となりました。

国鉄本社も長期戦を覚悟し、政府に長期戦になる旨説明すると共に、関係者の責任を追及すると談話を発表したそうです。

明けて7月16日には、緊迫した朝を迎えることになったそうで、警察庁は、新潟県警察本部に、国労新潟地本闘争は、日本共産党が背後から操っている政治闘争であるから、不法事犯は断固取り締まれ」と指令を出したそうです。

さらに、当局側からも応援が駆けつけ。本社からの課長クラスや隣接局からの応援を含め約200名の態勢ができあがった。

新潟地本は、車掌区に重点を置いて闘争を展開、103カ所で職場大会が開かれたそうで、乗務員を全員旅客列車に回したが、それでも34本が運休、貨物列車に至っては全面運休を余儀なくされたそうです。

農民の怒りは国鉄

ここで、国鉄ストで一番割を食ったのは貨物列車でした。

旅客列車の運送を優先せざるを得ず、どうしても貨物列車の運休が多くなる、他に輸送手段が無いため、どんどん貨車も溜まることとなり、遂に怒った農民は、7月16日新潟駅にて百姓一揆のような暴動が起こったと記録されています。

鉄労友愛会議の、国鉄民主化への道によりますと、下記のように書かれています。

しばし引用してみたいと思います。

新聞に新潟駅で乗客が騒いだ記事が出た。16日午前11時頃、昔の”百姓一揆”的な騒動が起こった。

朝日新聞』の7月16日付けの夕刊には、

  新潟市とその周辺、新潟県南、北、中蒲原3郡の農民代表約400人は、16日に農民大会を開き、午前11時半、バス6台に乗って新潟局に押しかけた。出荷期を無明けたスイカ産地の農民が大部分だが、「損害賠償せよ」のムシロ旗を掲げ、「農民を殺す闘争をやめろ」「労使の代表を出せ」と怒鳴り、止めた守衛を殴ったり、ガラスと数枚を壊していきり立った

と書かれていますが、当時は前述のように、鉄道以外に輸送手段が無く、勢い貨物列車の運休は、農家にしてみれば死活問題であったわけです。

国労本部も闘争収拾を決議するも、地本は反発

こうした抗議行動があった、16日午後4時には、闘争の責任者として、国労新潟地本企画部長等4名を公労法により処分すると発表しています。

 ここに来て、国労本部も同日16日の午前10時から中央闘争委員会を開催しますが、新潟闘争の収拾について協議。20対8で新潟闘争を中止させる方向に決定、この時点から本部は新潟闘争を本部預かりとすることになり、国労本部は、「この際ただちに一時中止し、中央における団体交渉に移す」という指令を出した。

しかし、新潟地本はこの要請を実質的に拒否、「闘争は一時中止するが、闘争態勢の解除ではない」と各支部へ電話で指令するとともに、「中央闘争本部が中止指令を撤回して改めて闘争指令を出すこと」を要請するために地本副委員長の神吉ら30人が東京に向かったと記録されています。

すでに、新潟地本は、国労本部の指令を無視する状態となっており、その温度差はますます大きくなっていくのでした。

明けて7月17日、新潟鉄道管理局は、新潟地本青年部長ら15人の解雇を発表

国労本部では、午後5時から、中央闘争委員会が開催され、新潟地本からの抗議団30名も傍聴することになったが、彼らは闘争中止の発言をする中東委員に、激しいヤジを浴びせるなどして議事進行を妨害、五時間近くかかってようやく、下記の2点が確認された。

  • 新潟に対する実力行使の中止指令は撤回しない
  • 解雇者は、河村・細井会談の線の一人にするよう交渉する」

と決定、実質的に新潟地本の実力行使は国労本部としては認めない方向が確定し、新潟闘争は本部・本社間での交渉にそのステージは移されることになりました。

新潟地本がはしごを外される形に

新潟地本は、7月18日午後2時から長岡市の鉄道クラブで、支部代表者会議を開いたが、中々結論は出ず、午後11時まで激論が交わされた結果は、本部の指令を受け入れるしか無いと言うことで終息します。

結局、総評からも官公庁労組からもさらには、国労本部からも兵糧攻めとも言える、逃走資金の補填がなされなかった点も大きかったと思われます。

実際、新潟地本ではこの闘争修了後、新潟地本は250円(現在の価値で言えば3000円前後?)の臨時徴収を指令したと書かれています。

新潟闘争は共産党と非共産党派の国労ないでの闘いと言えます

新潟闘争は、新潟地本と国労本部との対立という構図の闘争で、総評も官公庁労組も傍観する闘争でした

 

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新潟闘争とはどのような闘争だったのか 第八話

本日も、鉄労友愛会議の、「国鉄民主化への道」を底本として、アップさせていただきます。

国労中央闘争委員と新潟鉄道管理局長の交渉

さて、再び新潟での交渉に戻したいと思いますが、が、この交渉は7月14日から15日にかけて交渉が実施されました。

この交渉で新潟鉄道管理局長の河村は、

  • 今回の中村・佐藤の処分を撤回すること

に関しては、「解雇発令日を1年延期する」

  • 今回【10日以降】の闘争の責任者は処分しないこと

に関しては、処分者を一人だけとする

と言うところまで譲歩したそうで、国労中央闘争委員の細井は、妥協しようとしたらしいのですが、新潟地本は、「一人でも解雇者が出ることはダメと粘ったことから交渉は難航したそうです。

このときの新潟地本は、共産党が支配している地本であり、新潟地本としての思惑は、専従担当者三人程度の停職であったそうです。

その辺を、「国鉄民主化への道」から引用してみたいと思います。

p-265

この会談は、翌15日未明まで続けられ、河村は、第一項の処分については、「解雇発令日を1年程度延期してもよい」、第二項の今次闘争の処分者は「一人にしぼってもよい」というところまで譲歩した。

細井はこの線で当局と妥協したかったようだが、新潟地本(各名演集の闘争を続けたい共産党)は「一人でも解雇者が出ては駄目だ。組合専従者三人程度の停職ならいい」と言って承知しなかった。

このように交渉は難航を極めたそうですが、更に交渉を難航させる要件が発生しました。

国労スト参加者の逮捕で、組合側は更に態度を硬化することに

同日17時50分、警察に越後滝谷駅長と家族を脅した5人が逮捕されたというニュースが入ってきました。

早朝5:30から休憩していたのですが、ここで一気に新潟地本も緊張、直ちに「会談打ち切り」を一方的に通告し、支部には「無期限の職場大会」を指示しました。

ここにきて一気に再び緊張が高まったとなっていますが。この辺は当局側と、組合側では見解に相違があるようです。

組合側は、妥協する意思はあったが、逮捕劇があったので交渉を打ち切ったとし、当局側は、すでに17:30の時点で交渉は決裂しており、休憩時間中にたまたまこの逮捕の情報が入ったのだとしています。

この辺を再び「国鉄民主化への道」から引用してみたいと思います。

p-265

右の河村・細井会談の打ち切りについて当局と地本との話が食い違っており、"藪の中"的である。当局側は、「5時30分に休憩に入ったときには、すでに事実上決裂状態で、組合側はt直ちに指令を発していた。たまたま逮捕者が出たので、これを口実にして、話合いを打ち切りを正式に通告してきたのだ」といい、組合側は、「妥協する気持ちはあったが、当局が5名を逮捕する、という挑戦に出てきたので打ち切ったのだ」と言っていた。

まぁ、真相は闇の中ではありますが、どうも当局側の言い分が正しいのではないかと言う気がします。

 結局、新潟闘争は妥結するどころか更に悪化の一途を辿ることになるのですが、この辺は次回アップさせていただきます。

 

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新潟闘争とはどのような闘争だったのか 第七話

いよいよ新潟闘争の内容には歩を進めていこうと思います。

長らく更新が遅れて申し訳ありません。

すれ違う、新潟地本の思惑と国労本部

新潟闘争は、国労地本と国労本部との牽制というか、共産党の影響を排除したい国労本部と、共産党が強い新潟地本との関係、国労本部の指示で動いていることとしたい新潟地本の関係、さらには、新潟鉄道管理局長は、当局で国労本部との摂政などに経験が多々ある局長であったため、安易に妥協することをしなかったという点

こうした点を理解しながら見ていただきたいと思います。

 

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新潟闘争では、当初から警察力の介入を予定していた当局側

前述のように、新潟鉄道管理局長は、事前に新潟県警本部長を訪ね、情勢によっては警察力の介入を要請しています。

これに一番焦ったのは、新潟地本で、闘争を中止すれば、直ちに処分が行われるので、無期限闘争を許可して欲しいと本部に要請しますが、本部は拒否

国労本部は「新潟地本は、12日からの闘争は、規模を縮小して、各支部一カ所ずつ、朝6時から夕方6時までの愛で、一時間の職場大会、順法闘争を行う」という指令を出します。戦術としては大幅なダウンの指示だったのですが。

新潟地本はこの指令に対して、下記のような拡大行動とも言える行動をします。

そして、こうした指令を発した7月11日夜、前述の駅長監禁事件が起こります。

詳細は下記に書かせてもらっていますが、駅長室に赴き、駅長並びにその家族を脅す等の行為をしています。

組合側としては、話し合いが和気藹々と行われたと書かれていますが、実際には恫喝に近かったもののようで、家族も脅され、息子が闇夜に乗じて駐在所に走ったと下記記事の最後の方で書かれています。

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国鉄線(国鉄部内紙)の昭和32年12月号から引用

さらに、同日スターマイン戦術で、職場集会が行われ、旅客列車14本、貨物列車64本が運休することになりました。

当局側は、関東支社並びに本社に、新潟の事情に明るい課長。課長補佐の応援を要請しており、局課員の疲労がたまっていることへの措置でもありました。

7月13日には、国労本部は新潟市で関東ブロック会議を開催して、新潟闘争を関東ブロック全体の闘争として取り扱うという決議を行いますが、組合の書記長など三役は派遣せず、中央闘争委員を三名派遣しています。

これは、新潟地本に対して国労本部の指示を守らせること、共産党による勝手な行動を牽制する目的があったと言われています。

下表の年表を見ていただくと判るのですが、貨物列車の運休が多数有りました。

当時は高速道路などがなく、多くの荷物は鉄道で輸送されていたのです。

この時期は県内産の野菜は北海道向けに出荷の時期であるが肝心の貨物列車が動かず、青果物の腐敗が続出しており、新潟商工会議所や、県農業委員会の代表が早期のスト収拾を求めて、7月13日には、当局や組合に働きかけたとされています。

それでも、当局、新潟地本、国労本部三者による意地の張り合いとなってしまった闘争は更に過激になっていきます。

7月14日午前零時から、水上、北堀之内直江津各駅で実力行使に入り、特に北堀之内駅では、駅員を組合の活動家が連れ去り、ピケを張って駅長の業務を阻止(これに関しては警察の介入を依頼したため、その動きを察知した組合がピケを解除)するなど

したため、上野方面行きの列車は160分から340分も遅れることとなりました。

新潟地本は、この後抗議のため職場放棄して分散職場大会を行えと指示を出し、午前7時から9時にかけて約60カ所で職場放棄が行われた。と新聞で報じられています。

国労中央闘争委員と新潟鉄道管理局長の交渉開始

国労本部の闘争委員と局長の交渉は13日から行われていたがこのときは処分の撤回申入れ程度であり、本格的にはこの日からでした。

組合側の申し入れとしては

  • 今回の中村・佐藤の処分を撤回すること
  • 今回【10日以降】の闘争の責任者は処分しないこと
  • 今回の闘争終了後、官憲による立ち入り捜査は行わないでもらいたいこと

個の三点を中心に交渉が行われることとなりました。

この交渉は難航するのですが、この辺は次回にアップさせていただこうと思います。blackcat-kat.hateblo.jp

参考:新潟闘争に関する年表 7月分のみ抜き出し

新潟地本幹部2人に当局から懲戒免職処分 7/8

新潟闘争、国労、当局の処分に反対し闘争に突入 7/9

6月13日行われた国労新潟地本の処分反対闘争により、7月9日2名の解雇者を出したことからはじまった新潟の闘争は、勤務時間内職場集会、強力な順法闘争が併せて行われ、日本海縦貫貨物輸送を完全にマヒさせ、運休、遅延が拡大。各所で鉄道公安と衝突となり、農民代表から抗議を受けるほどであった
16日開かれた中央執行委員会において採決の結果20対8で中止指令を出すこととなり、すべては中央部に移されることとなった

国労新潟地本、国鉄春闘処分に対し直江津など二駅で職場大会→処分反対闘争に突入 7/10→7/16 中止指令

この結果、裏縦貫貨物輸送マヒしており。16日の闘争中止指令後も交渉はこうちゃく。藤林公企体労働委員会会長あっせんに乗出すことに

国労新潟地本、職場集会などで、旅客列車14本、貨物列車64本が運休  7/11

国労の動きに合わせ、国鉄機関車労組(後の動労)新潟支部も無期限超勤拒否、臨時列

車運転拒否 など闘争に参加 7/11

国労新潟地本、新潟闘争の影響で、旅客列車5本、貨物列車29本が運休  7/12

国労本部、関東ブロック会議を開催、「新潟闘争を関東全体の闘争にすることを決議」7/13

国労新潟地本、新潟闘争の影響で、旅客列車18本、貨物列車32本が運休  7/12

国労スト参加者、さらに5人検挙。全職場無期限の職場集会、当局も一歩も引かず自体は泥沼化 7/15

新潟地区全列車が停止 7/16

中央闘争部より中止指令

国鉄当局、4人の免職を発表 7/16

当局更に、15人免職処分を追加 7/17

中央闘争部よりストライキの中止指令 7/18
国鉄当局は今回の争議に対して4人の免職発表 7/18

新潟闘争、中央で折衝を始めるも平行線の議論 7/19

労使双方の折衝が行われているが、当局側としては、国労と真正面から対決することも辞さないと言う強硬姿勢を崩さず、解雇処分を受けた役員と話合とは行わないとして、組合側の確約を要請するという強い態度を維持しており、組合側は、民同左派、革同派との調整や共闘関係から主流派(民同右派)が窮地に追いこまれているという情況下にあり、互いの思惑も含めて収拾のつかない状態となっている
膠着状態を打開すべく藤林公企体労働委員会会長が、あっせんに乗り出す事となったが、当局は、解雇者以外の組合代表者が決まるまでは団交は行わないと強硬な態度を崩さず、現行の労働協約は、組合が現状を維持する限り期間満了とともに消滅するものであるという基本方針を決定している。(関連:当局、組合費の控除廃止 10/23) 組合側は、解雇された幹部を団交から除いては、かねて不当であるとして来た処分を事実上認めることとなり、かつは大闘争を中止した後でもあるので内部をまとめる上からも不都合であると、団交拒否禁止の仮処分を申請している状態であり、その出口は見えない
さらに、組合員の中には、国労の運動方針々不満とし、団交権を確立し、当面の問題を解決しようとする非現業組合結成の動きさえ現われてきており。国労は事態が一向に進展しないので、とにかく9月25日までは列車に影響を与えるような実力行使は行わない、大会の決定どおり、全国的な闘争は9月末から年末闘争にまで発展させるということを決定するに至った→参考: 新潟闘争 国鉄労働組合史詳細解説 19

国労内民同右派による分裂組織準備会開催 7/21

 続く

 

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新潟闘争とはどのような闘争だったのか 第六話

久々に更新させていただきます。
国労の闘争は、共産党の指示によるもので、業務は混乱を招き、特に貨物列車の運休は甚大な被害を利用者に与えることとなりました。【後述】

これをうけて、当局はも腹をくくり、考案で対応できないときは県警の夜警察力を導入することとしました。

警察の介入も辞さず、覚悟を決める新潟鉄道管理局長

国労の闘争に対し、局長は新潟県警本部を訪ね、最悪の場合、警察の介入を依頼したのでした。

記録によりますと、昭和32年7月11日で、午前中に訪問したとされています。

これを知った新潟地本は、国労本部に下記のようなような要請をしたらしいです。

そこで、鉄労友愛会議著、国鉄民主化への道 P261から引用してみたいと思います。

新鉄局長の河村勝は、11日の午前、県警本部長の中野をたずね、闘争の模様を説明し、才覚の事態が起こった場合の応援を依頼した。このような河村の動きを知った新潟地本は、国労本部に「局長が県警本部へ、最悪の場合の警察力行使したことは、闘争を中止すれば直ちに処分が行われる。無期限闘争を許可してほしい」と要請した。国労本部は、スジの通らない理由だと言って許可せず、「新潟地本は12日から当分の間、各支部が一箇所ずつの職場を指定し、朝6時頃から夕方6時までの間、一時間の直罵大会、順法闘争をおこなうこと」と”戦線縮小”を指令した。

引用終わり。

国労地本と新潟地本の温度差

新潟地本は、新潟鉄道管理局長が警察力行使を要請したことは、闘争を中止すれば直ちに処分が行われるとして、国労本部に無期限闘争の許可を申請するも、国労本部は拒否されたと書かれています。

当時の国労本部は、処分撤回闘争などを各地本に降ろすようにしていました。

特にこの頃の国労は、左傾化が更に進み、民同右派と呼ばれるグループはどんどん橋に追いやられていきます。そんな中、解雇処分を受けた左派グループが三役に選出されていました。

このような流の中、新潟地本も、多少無茶をしても、国労地本が守ってくれると思っていた節があります。しかし、国労本部は新潟地本からの申し出を拒否しています。

新潟地本としては、国労の三役を呼ぶことで、運動の正当性を狙ったのですが、国労本部は、その作戦には乗らなかたわけです。

国労本部としては、新潟地本による共産党の行動は目に余ると思っていたのでしょう。

国労本部は、国労関東地本が、新潟地本を応援するという名目で新潟で開催された集会には、そこに組合幹部を送り込んでいます。

これは、新潟地本を抑えるのに、関東地本を使おうという考え方だったそうです。

再び、鉄労友愛会議著、国鉄民主化への道 P262から引用してみたいと思います。

「新潟地本は、本部と十分相談して行動した、新潟の行動は十分相談して行動した。新潟の行動は本部の指令による」と言うことにしたかったようだ。が、国労本部はその手には乗らなかった。三役は派遣せず、国労関東地本が、新潟闘争支援と闘争強化のために、新潟市で関東ブロック会議を開くことになっていたので、「この会議に細井宗一【革同派】他二人の中た「中闘委員を出席させるという名目で、三人を派遣した記述が残っています。 

引用終わり

結果的に新潟に役員などを送り込んでいますが、これは新潟地本を押さえつけるために行うためにおこなったことで、この会議では「新潟の闘争を関東全体の闘争にすることなどを決めたそうですが、これは関東と新潟地本が共同歩調を取ることになり、言ってみれば、新潟地本の一部過激な活動家を封じ込めることも目的であったようです。

 

新潟闘争の世論記事

新潟闘争の世論記事

 続く

 

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新潟闘争とはどのような闘争だったのか 第五話

越後滝谷駅長を監禁したのは当局がマークしていた人物だった

今回の処分撤回闘争で解雇になったのは、新潟鉄道管理局工事課勤務、元国労地本委員長中村光夫氏、国労地方執行委員佐藤昭二氏の2名でした、このうち中村氏は、昭和28年(4年前)の年末闘争で解雇する予定だったのですが、当時の中村氏はソ連に訪問しており、処分が出来なかったと言われています。

その中村氏が今回の監禁事件の実行者として参加しているので、当局としても解雇の口実が出来たわけです。


当局としては、軽い処分であったと考えていた

国鉄当局としては、解雇者は前述の通り、昭和32年7月8日、元国労新潟地本委員長の中村氏と、国労地本執行委員佐藤氏の2名を解雇したが、実際には、他の地区でも数々の違法行為が行われており、旅客・貨物併せて運休だけで90本と言う膨大なものでした。職員自らの反省を踏まえて、今回の処分は2名だけの解雇にとどめたという談話を発表しています。

国鉄の労政と労働運動 下巻 有賀宗吉 著から当該部分を引用してみようと思います。

「・・・・このほか、同日(6月13日)には長岡、直江津、新津、西吉田問うの各地区においても数々の違法行為が行われ、このため管内におけるる旅客、貨物列車の運休90本という、かつて見ない輸送の大混乱が起こったのでありますが、私は、職員諸君が今後反省を重ね、労働運動の正常化に努力されることを強く期待して、一応保有することといたしました・・・」

と記述されています。

このように、新潟管理局としてみれば、寛大な措置をしたと考えていたのですが、これに対し、国労は直ちに、闘争指令第42号を発令し、免職撤回闘争の指示を出します。

当局が処分を地方局に委ねたことから、国労本部も地本に委任した形を取ったもので、7月10日、11日に各支部1カ所ずつで職場を指定して3時間の職場大会を行うものとされていたのですが、新潟地本ではゲリラ闘争並びに強力な順法闘争などで、新潟地区の列車ダイヤは乱れ、貨物列車の多くが運休、遅延が拡大し。各所で鉄道公安と衝突となり、農民代表から抗議を受ける等の問題となりました。

この時点でも、国労本部としても二人くらいなら簡単に撤回できると考えていたようです。

国鉄があった時代 昭和32年後半 参照

 

国労新潟地本の戦略とはどんなものだったのか?

ここで、最初に話に戻るのですが、国労新潟地本は、新潟駅を中心に順法闘争に入り、10,11日の両日は、本部の指令通り各支部で1カ所3時間の職場大会を開催することになっていましたが、組合はここでゲリラ戦術を実施しました。

A駅で闘争を行うと指定しておきながら、実際にはB駅などノーマークの駅で闘争するなどの方法で、新潟闘争が最初にこの戦法が実施されたと言われています。

実際に、人数の少ない中間駅で駅員を連れ出して職場大会を行うと言ったものでした。

主要駅での職場大会のために駅長や助役が助勤に動員され、留守となった中間の小駅に、夜間に活動家が現れ、当務駅長(いわゆる夜間責任者)で組合員の場合はそこで職場大会を開いたり、当務駅長が非組合員である場合は、業務の妨害【単線区間などでは当時は信号扱いを行うのは駅で行っていた】として、いわゆるダブレットの操作を妨害して列車の運行を阻害したのでした。

他にも、移動職場大会や、機動職場大会などをゲリラ戦術で実施

  • 移動職場大会と呼ばれる戦術
    中間駅を3つか4つ回って組合員を連れ去り、バスの中で闘争の経過報告などを行い、時間が経ったら、また就業させるというもので、闘争が激しくなってくると、そのまま旅館に収容して職場に戻さなかったらしいです。
  • 機動職場大会
    活動家が列車に乗り込み、駅に着くと駅員などを集めて報告会を開いて、列車扱い等の作業するのを妨害するもので、20分程度で解散するものの、次の停車駅でも同じ事をするので、どんどんダイヤが乱れてゆくことになる。
  • 車掌を乗せない戦術
    活動家が貨物列車に乗り込み、駅に到着ずると、駅長に「ここで車掌を降ろす」と通告して押し問答を行う。組合としては本気で車掌を降ろすわけではなく、最後は「駅長の顔を立ててやめると言うのだが、目的は列車ダイヤの混乱で有り、同じ事を別の駅でも行うと言ったことが行われました。
    実際に、急行などで車掌をあらかじめ指定された駅で降ろしてそのまま連れ去ると言ったこともあったようです。
    この場合でも、車掌がいないと列車を動かせないので、ダイヤは乱れることになります。
    他にも、1日だけでしたが弥彦線では当時、有人の踏切が10カ所【保線区所属7,駅所属3】有ったのですが、組合の指令で職場放棄して職場大会を開催したため、保線区の助役等が助勤に着くまでの間、駅助役が列車に乗り込み、踏切手前で停止して、誘導するという非効率な作業が強いられました。

続く

 

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