日本国有鉄道労働運動史【鉄労視点】

日本国有鉄道労働運動史、鉄労視点で綴るblogです

新潟闘争とはどのような闘争だったのか 第九話

ほぼ1ヶ月ぶりの更新になります。

新潟闘争は妥結するどころか更に悪化の一途を辿ることになりましたが、その辺のお話しをさせていただこうと思います。

交渉決裂後も、独自の闘争を展開する新潟地本

河村・細井会談の打ち切り後、国労中闘委員の細井は15日午前9次の急行佐渡で東京へ帰ってしまったそうで、新潟地本としては夕刻19時頃から各地で職場大会を開催、弥彦線では踏切10カ所の組合員が職場を放棄して職場集会に入ったそうです。
このため、保線区の助役が踏切の助勤に入るまでの間、駅助役が列車に乗り込み、踏切手前で一旦停止して、下車したうえで、誘導運転をしたそうです。

当局の記録では、15日には140カ所で職場集会が開かれ旅客列車19本、貨物列車114本運休【貨物列車の運休率は、63%】に上りました。

国労を離脱者が出始めるとともに、当局も長期戦を覚悟

ただ、この日を境に、国労を集団脱退する組合員もいたそうで、7月15日、午後1時頃、東三条駅の駅員が、「23人」脱退すると宣言したのを皮切りに、柴田駅、長岡【操車場】駅、新潟鉄道管理局などで国労脱退者が相次ぐ事となりました。

国鉄本社も長期戦を覚悟し、政府に長期戦になる旨説明すると共に、関係者の責任を追及すると談話を発表したそうです。

明けて7月16日には、緊迫した朝を迎えることになったそうで、警察庁は、新潟県警察本部に、国労新潟地本闘争は、日本共産党が背後から操っている政治闘争であるから、不法事犯は断固取り締まれ」と指令を出したそうです。

さらに、当局側からも応援が駆けつけ。本社からの課長クラスや隣接局からの応援を含め約200名の態勢ができあがった。

新潟地本は、車掌区に重点を置いて闘争を展開、103カ所で職場大会が開かれたそうで、乗務員を全員旅客列車に回したが、それでも34本が運休、貨物列車に至っては全面運休を余儀なくされたそうです。

農民の怒りは国鉄

ここで、国鉄ストで一番割を食ったのは貨物列車でした。

旅客列車の運送を優先せざるを得ず、どうしても貨物列車の運休が多くなる、他に輸送手段が無いため、どんどん貨車も溜まることとなり、遂に怒った農民は、7月16日新潟駅にて百姓一揆のような暴動が起こったと記録されています。

鉄労友愛会議の、国鉄民主化への道によりますと、下記のように書かれています。

しばし引用してみたいと思います。

新聞に新潟駅で乗客が騒いだ記事が出た。16日午前11時頃、昔の”百姓一揆”的な騒動が起こった。

朝日新聞』の7月16日付けの夕刊には、

  新潟市とその周辺、新潟県南、北、中蒲原3郡の農民代表約400人は、16日に農民大会を開き、午前11時半、バス6台に乗って新潟局に押しかけた。出荷期を無明けたスイカ産地の農民が大部分だが、「損害賠償せよ」のムシロ旗を掲げ、「農民を殺す闘争をやめろ」「労使の代表を出せ」と怒鳴り、止めた守衛を殴ったり、ガラスと数枚を壊していきり立った

と書かれていますが、当時は前述のように、鉄道以外に輸送手段が無く、勢い貨物列車の運休は、農家にしてみれば死活問題であったわけです。

国労本部も闘争収拾を決議するも、地本は反発

こうした抗議行動があった、16日午後4時には、闘争の責任者として、国労新潟地本企画部長等4名を公労法により処分すると発表しています。

 ここに来て、国労本部も同日16日の午前10時から中央闘争委員会を開催しますが、新潟闘争の収拾について協議。20対8で新潟闘争を中止させる方向に決定、この時点から本部は新潟闘争を本部預かりとすることになり、国労本部は、「この際ただちに一時中止し、中央における団体交渉に移す」という指令を出した。

しかし、新潟地本はこの要請を実質的に拒否、「闘争は一時中止するが、闘争態勢の解除ではない」と各支部へ電話で指令するとともに、「中央闘争本部が中止指令を撤回して改めて闘争指令を出すこと」を要請するために地本副委員長の神吉ら30人が東京に向かったと記録されています。

すでに、新潟地本は、国労本部の指令を無視する状態となっており、その温度差はますます大きくなっていくのでした。

明けて7月17日、新潟鉄道管理局は、新潟地本青年部長ら15人の解雇を発表

国労本部では、午後5時から、中央闘争委員会が開催され、新潟地本からの抗議団30名も傍聴することになったが、彼らは闘争中止の発言をする中東委員に、激しいヤジを浴びせるなどして議事進行を妨害、五時間近くかかってようやく、下記の2点が確認された。

  • 新潟に対する実力行使の中止指令は撤回しない
  • 解雇者は、河村・細井会談の線の一人にするよう交渉する」

と決定、実質的に新潟地本の実力行使は国労本部としては認めない方向が確定し、新潟闘争は本部・本社間での交渉にそのステージは移されることになりました。

新潟地本がはしごを外される形に

新潟地本は、7月18日午後2時から長岡市の鉄道クラブで、支部代表者会議を開いたが、中々結論は出ず、午後11時まで激論が交わされた結果は、本部の指令を受け入れるしか無いと言うことで終息します。

結局、総評からも官公庁労組からもさらには、国労本部からも兵糧攻めとも言える、逃走資金の補填がなされなかった点も大きかったと思われます。

実際、新潟地本ではこの闘争修了後、新潟地本は250円(現在の価値で言えば3000円前後?)の臨時徴収を指令したと書かれています。

新潟闘争は共産党と非共産党派の国労ないでの闘いと言えます

新潟闘争は、新潟地本と国労本部との対立という構図の闘争で、総評も官公庁労組も傍観する闘争でした

 

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新潟闘争とはどのような闘争だったのか 第八話

本日も、鉄労友愛会議の、「国鉄民主化への道」を底本として、アップさせていただきます。

国労中央闘争委員と新潟鉄道管理局長の交渉

さて、再び新潟での交渉に戻したいと思いますが、が、この交渉は7月14日から15日にかけて交渉が実施されました。

この交渉で新潟鉄道管理局長の河村は、

  • 今回の中村・佐藤の処分を撤回すること

に関しては、「解雇発令日を1年延期する」

  • 今回【10日以降】の闘争の責任者は処分しないこと

に関しては、処分者を一人だけとする

と言うところまで譲歩したそうで、国労中央闘争委員の細井は、妥協しようとしたらしいのですが、新潟地本は、「一人でも解雇者が出ることはダメと粘ったことから交渉は難航したそうです。

このときの新潟地本は、共産党が支配している地本であり、新潟地本としての思惑は、専従担当者三人程度の停職であったそうです。

その辺を、「国鉄民主化への道」から引用してみたいと思います。

p-265

この会談は、翌15日未明まで続けられ、河村は、第一項の処分については、「解雇発令日を1年程度延期してもよい」、第二項の今次闘争の処分者は「一人にしぼってもよい」というところまで譲歩した。

細井はこの線で当局と妥協したかったようだが、新潟地本(各名演集の闘争を続けたい共産党)は「一人でも解雇者が出ては駄目だ。組合専従者三人程度の停職ならいい」と言って承知しなかった。

このように交渉は難航を極めたそうですが、更に交渉を難航させる要件が発生しました。

国労スト参加者の逮捕で、組合側は更に態度を硬化することに

同日17時50分、警察に越後滝谷駅長と家族を脅した5人が逮捕されたというニュースが入ってきました。

早朝5:30から休憩していたのですが、ここで一気に新潟地本も緊張、直ちに「会談打ち切り」を一方的に通告し、支部には「無期限の職場大会」を指示しました。

ここにきて一気に再び緊張が高まったとなっていますが。この辺は当局側と、組合側では見解に相違があるようです。

組合側は、妥協する意思はあったが、逮捕劇があったので交渉を打ち切ったとし、当局側は、すでに17:30の時点で交渉は決裂しており、休憩時間中にたまたまこの逮捕の情報が入ったのだとしています。

この辺を再び「国鉄民主化への道」から引用してみたいと思います。

p-265

右の河村・細井会談の打ち切りについて当局と地本との話が食い違っており、"藪の中"的である。当局側は、「5時30分に休憩に入ったときには、すでに事実上決裂状態で、組合側はt直ちに指令を発していた。たまたま逮捕者が出たので、これを口実にして、話合いを打ち切りを正式に通告してきたのだ」といい、組合側は、「妥協する気持ちはあったが、当局が5名を逮捕する、という挑戦に出てきたので打ち切ったのだ」と言っていた。

まぁ、真相は闇の中ではありますが、どうも当局側の言い分が正しいのではないかと言う気がします。

 結局、新潟闘争は妥結するどころか更に悪化の一途を辿ることになるのですが、この辺は次回アップさせていただきます。

 

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新潟闘争とはどのような闘争だったのか 第七話

いよいよ新潟闘争の内容には歩を進めていこうと思います。

長らく更新が遅れて申し訳ありません。

すれ違う、新潟地本の思惑と国労本部

新潟闘争は、国労地本と国労本部との牽制というか、共産党の影響を排除したい国労本部と、共産党が強い新潟地本との関係、国労本部の指示で動いていることとしたい新潟地本の関係、さらには、新潟鉄道管理局長は、当局で国労本部との摂政などに経験が多々ある局長であったため、安易に妥協することをしなかったという点

こうした点を理解しながら見ていただきたいと思います。

 

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新潟闘争では、当初から警察力の介入を予定していた当局側

前述のように、新潟鉄道管理局長は、事前に新潟県警本部長を訪ね、情勢によっては警察力の介入を要請しています。

これに一番焦ったのは、新潟地本で、闘争を中止すれば、直ちに処分が行われるので、無期限闘争を許可して欲しいと本部に要請しますが、本部は拒否

国労本部は「新潟地本は、12日からの闘争は、規模を縮小して、各支部一カ所ずつ、朝6時から夕方6時までの愛で、一時間の職場大会、順法闘争を行う」という指令を出します。戦術としては大幅なダウンの指示だったのですが。

新潟地本はこの指令に対して、下記のような拡大行動とも言える行動をします。

そして、こうした指令を発した7月11日夜、前述の駅長監禁事件が起こります。

詳細は下記に書かせてもらっていますが、駅長室に赴き、駅長並びにその家族を脅す等の行為をしています。

組合側としては、話し合いが和気藹々と行われたと書かれていますが、実際には恫喝に近かったもののようで、家族も脅され、息子が闇夜に乗じて駐在所に走ったと下記記事の最後の方で書かれています。

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国鉄線(国鉄部内紙)の昭和32年12月号から引用

さらに、同日スターマイン戦術で、職場集会が行われ、旅客列車14本、貨物列車64本が運休することになりました。

当局側は、関東支社並びに本社に、新潟の事情に明るい課長。課長補佐の応援を要請しており、局課員の疲労がたまっていることへの措置でもありました。

7月13日には、国労本部は新潟市で関東ブロック会議を開催して、新潟闘争を関東ブロック全体の闘争として取り扱うという決議を行いますが、組合の書記長など三役は派遣せず、中央闘争委員を三名派遣しています。

これは、新潟地本に対して国労本部の指示を守らせること、共産党による勝手な行動を牽制する目的があったと言われています。

下表の年表を見ていただくと判るのですが、貨物列車の運休が多数有りました。

当時は高速道路などがなく、多くの荷物は鉄道で輸送されていたのです。

この時期は県内産の野菜は北海道向けに出荷の時期であるが肝心の貨物列車が動かず、青果物の腐敗が続出しており、新潟商工会議所や、県農業委員会の代表が早期のスト収拾を求めて、7月13日には、当局や組合に働きかけたとされています。

それでも、当局、新潟地本、国労本部三者による意地の張り合いとなってしまった闘争は更に過激になっていきます。

7月14日午前零時から、水上、北堀之内直江津各駅で実力行使に入り、特に北堀之内駅では、駅員を組合の活動家が連れ去り、ピケを張って駅長の業務を阻止(これに関しては警察の介入を依頼したため、その動きを察知した組合がピケを解除)するなど

したため、上野方面行きの列車は160分から340分も遅れることとなりました。

新潟地本は、この後抗議のため職場放棄して分散職場大会を行えと指示を出し、午前7時から9時にかけて約60カ所で職場放棄が行われた。と新聞で報じられています。

国労中央闘争委員と新潟鉄道管理局長の交渉開始

国労本部の闘争委員と局長の交渉は13日から行われていたがこのときは処分の撤回申入れ程度であり、本格的にはこの日からでした。

組合側の申し入れとしては

  • 今回の中村・佐藤の処分を撤回すること
  • 今回【10日以降】の闘争の責任者は処分しないこと
  • 今回の闘争終了後、官憲による立ち入り捜査は行わないでもらいたいこと

個の三点を中心に交渉が行われることとなりました。

この交渉は難航するのですが、この辺は次回にアップさせていただこうと思います。blackcat-kat.hateblo.jp

参考:新潟闘争に関する年表 7月分のみ抜き出し

新潟地本幹部2人に当局から懲戒免職処分 7/8

新潟闘争、国労、当局の処分に反対し闘争に突入 7/9

6月13日行われた国労新潟地本の処分反対闘争により、7月9日2名の解雇者を出したことからはじまった新潟の闘争は、勤務時間内職場集会、強力な順法闘争が併せて行われ、日本海縦貫貨物輸送を完全にマヒさせ、運休、遅延が拡大。各所で鉄道公安と衝突となり、農民代表から抗議を受けるほどであった
16日開かれた中央執行委員会において採決の結果20対8で中止指令を出すこととなり、すべては中央部に移されることとなった

国労新潟地本、国鉄春闘処分に対し直江津など二駅で職場大会→処分反対闘争に突入 7/10→7/16 中止指令

この結果、裏縦貫貨物輸送マヒしており。16日の闘争中止指令後も交渉はこうちゃく。藤林公企体労働委員会会長あっせんに乗出すことに

国労新潟地本、職場集会などで、旅客列車14本、貨物列車64本が運休  7/11

国労の動きに合わせ、国鉄機関車労組(後の動労)新潟支部も無期限超勤拒否、臨時列

車運転拒否 など闘争に参加 7/11

国労新潟地本、新潟闘争の影響で、旅客列車5本、貨物列車29本が運休  7/12

国労本部、関東ブロック会議を開催、「新潟闘争を関東全体の闘争にすることを決議」7/13

国労新潟地本、新潟闘争の影響で、旅客列車18本、貨物列車32本が運休  7/12

国労スト参加者、さらに5人検挙。全職場無期限の職場集会、当局も一歩も引かず自体は泥沼化 7/15

新潟地区全列車が停止 7/16

中央闘争部より中止指令

国鉄当局、4人の免職を発表 7/16

当局更に、15人免職処分を追加 7/17

中央闘争部よりストライキの中止指令 7/18
国鉄当局は今回の争議に対して4人の免職発表 7/18

新潟闘争、中央で折衝を始めるも平行線の議論 7/19

労使双方の折衝が行われているが、当局側としては、国労と真正面から対決することも辞さないと言う強硬姿勢を崩さず、解雇処分を受けた役員と話合とは行わないとして、組合側の確約を要請するという強い態度を維持しており、組合側は、民同左派、革同派との調整や共闘関係から主流派(民同右派)が窮地に追いこまれているという情況下にあり、互いの思惑も含めて収拾のつかない状態となっている
膠着状態を打開すべく藤林公企体労働委員会会長が、あっせんに乗り出す事となったが、当局は、解雇者以外の組合代表者が決まるまでは団交は行わないと強硬な態度を崩さず、現行の労働協約は、組合が現状を維持する限り期間満了とともに消滅するものであるという基本方針を決定している。(関連:当局、組合費の控除廃止 10/23) 組合側は、解雇された幹部を団交から除いては、かねて不当であるとして来た処分を事実上認めることとなり、かつは大闘争を中止した後でもあるので内部をまとめる上からも不都合であると、団交拒否禁止の仮処分を申請している状態であり、その出口は見えない
さらに、組合員の中には、国労の運動方針々不満とし、団交権を確立し、当面の問題を解決しようとする非現業組合結成の動きさえ現われてきており。国労は事態が一向に進展しないので、とにかく9月25日までは列車に影響を与えるような実力行使は行わない、大会の決定どおり、全国的な闘争は9月末から年末闘争にまで発展させるということを決定するに至った→参考: 新潟闘争 国鉄労働組合史詳細解説 19

国労内民同右派による分裂組織準備会開催 7/21

 続く

 

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新潟闘争とはどのような闘争だったのか 第六話

久々に更新させていただきます。
国労の闘争は、共産党の指示によるもので、業務は混乱を招き、特に貨物列車の運休は甚大な被害を利用者に与えることとなりました。【後述】

これをうけて、当局はも腹をくくり、考案で対応できないときは県警の夜警察力を導入することとしました。

警察の介入も辞さず、覚悟を決める新潟鉄道管理局長

国労の闘争に対し、局長は新潟県警本部を訪ね、最悪の場合、警察の介入を依頼したのでした。

記録によりますと、昭和32年7月11日で、午前中に訪問したとされています。

これを知った新潟地本は、国労本部に下記のようなような要請をしたらしいです。

そこで、鉄労友愛会議著、国鉄民主化への道 P261から引用してみたいと思います。

新鉄局長の河村勝は、11日の午前、県警本部長の中野をたずね、闘争の模様を説明し、才覚の事態が起こった場合の応援を依頼した。このような河村の動きを知った新潟地本は、国労本部に「局長が県警本部へ、最悪の場合の警察力行使したことは、闘争を中止すれば直ちに処分が行われる。無期限闘争を許可してほしい」と要請した。国労本部は、スジの通らない理由だと言って許可せず、「新潟地本は12日から当分の間、各支部が一箇所ずつの職場を指定し、朝6時頃から夕方6時までの間、一時間の直罵大会、順法闘争をおこなうこと」と”戦線縮小”を指令した。

引用終わり。

国労地本と新潟地本の温度差

新潟地本は、新潟鉄道管理局長が警察力行使を要請したことは、闘争を中止すれば直ちに処分が行われるとして、国労本部に無期限闘争の許可を申請するも、国労本部は拒否されたと書かれています。

当時の国労本部は、処分撤回闘争などを各地本に降ろすようにしていました。

特にこの頃の国労は、左傾化が更に進み、民同右派と呼ばれるグループはどんどん橋に追いやられていきます。そんな中、解雇処分を受けた左派グループが三役に選出されていました。

このような流の中、新潟地本も、多少無茶をしても、国労地本が守ってくれると思っていた節があります。しかし、国労本部は新潟地本からの申し出を拒否しています。

新潟地本としては、国労の三役を呼ぶことで、運動の正当性を狙ったのですが、国労本部は、その作戦には乗らなかたわけです。

国労本部としては、新潟地本による共産党の行動は目に余ると思っていたのでしょう。

国労本部は、国労関東地本が、新潟地本を応援するという名目で新潟で開催された集会には、そこに組合幹部を送り込んでいます。

これは、新潟地本を抑えるのに、関東地本を使おうという考え方だったそうです。

再び、鉄労友愛会議著、国鉄民主化への道 P262から引用してみたいと思います。

「新潟地本は、本部と十分相談して行動した、新潟の行動は十分相談して行動した。新潟の行動は本部の指令による」と言うことにしたかったようだ。が、国労本部はその手には乗らなかった。三役は派遣せず、国労関東地本が、新潟闘争支援と闘争強化のために、新潟市で関東ブロック会議を開くことになっていたので、「この会議に細井宗一【革同派】他二人の中た「中闘委員を出席させるという名目で、三人を派遣した記述が残っています。 

引用終わり

結果的に新潟に役員などを送り込んでいますが、これは新潟地本を押さえつけるために行うためにおこなったことで、この会議では「新潟の闘争を関東全体の闘争にすることなどを決めたそうですが、これは関東と新潟地本が共同歩調を取ることになり、言ってみれば、新潟地本の一部過激な活動家を封じ込めることも目的であったようです。

 

新潟闘争の世論記事

新潟闘争の世論記事

 続く

 

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新潟闘争とはどのような闘争だったのか 第五話

越後滝谷駅長を監禁したのは当局がマークしていた人物だった

今回の処分撤回闘争で解雇になったのは、新潟鉄道管理局工事課勤務、元国労地本委員長中村光夫氏、国労地方執行委員佐藤昭二氏の2名でした、このうち中村氏は、昭和28年(4年前)の年末闘争で解雇する予定だったのですが、当時の中村氏はソ連に訪問しており、処分が出来なかったと言われています。

その中村氏が今回の監禁事件の実行者として参加しているので、当局としても解雇の口実が出来たわけです。


当局としては、軽い処分であったと考えていた

国鉄当局としては、解雇者は前述の通り、昭和32年7月8日、元国労新潟地本委員長の中村氏と、国労地本執行委員佐藤氏の2名を解雇したが、実際には、他の地区でも数々の違法行為が行われており、旅客・貨物併せて運休だけで90本と言う膨大なものでした。職員自らの反省を踏まえて、今回の処分は2名だけの解雇にとどめたという談話を発表しています。

国鉄の労政と労働運動 下巻 有賀宗吉 著から当該部分を引用してみようと思います。

「・・・・このほか、同日(6月13日)には長岡、直江津、新津、西吉田問うの各地区においても数々の違法行為が行われ、このため管内におけるる旅客、貨物列車の運休90本という、かつて見ない輸送の大混乱が起こったのでありますが、私は、職員諸君が今後反省を重ね、労働運動の正常化に努力されることを強く期待して、一応保有することといたしました・・・」

と記述されています。

このように、新潟管理局としてみれば、寛大な措置をしたと考えていたのですが、これに対し、国労は直ちに、闘争指令第42号を発令し、免職撤回闘争の指示を出します。

当局が処分を地方局に委ねたことから、国労本部も地本に委任した形を取ったもので、7月10日、11日に各支部1カ所ずつで職場を指定して3時間の職場大会を行うものとされていたのですが、新潟地本ではゲリラ闘争並びに強力な順法闘争などで、新潟地区の列車ダイヤは乱れ、貨物列車の多くが運休、遅延が拡大し。各所で鉄道公安と衝突となり、農民代表から抗議を受ける等の問題となりました。

この時点でも、国労本部としても二人くらいなら簡単に撤回できると考えていたようです。

国鉄があった時代 昭和32年後半 参照

 

国労新潟地本の戦略とはどんなものだったのか?

ここで、最初に話に戻るのですが、国労新潟地本は、新潟駅を中心に順法闘争に入り、10,11日の両日は、本部の指令通り各支部で1カ所3時間の職場大会を開催することになっていましたが、組合はここでゲリラ戦術を実施しました。

A駅で闘争を行うと指定しておきながら、実際にはB駅などノーマークの駅で闘争するなどの方法で、新潟闘争が最初にこの戦法が実施されたと言われています。

実際に、人数の少ない中間駅で駅員を連れ出して職場大会を行うと言ったものでした。

主要駅での職場大会のために駅長や助役が助勤に動員され、留守となった中間の小駅に、夜間に活動家が現れ、当務駅長(いわゆる夜間責任者)で組合員の場合はそこで職場大会を開いたり、当務駅長が非組合員である場合は、業務の妨害【単線区間などでは当時は信号扱いを行うのは駅で行っていた】として、いわゆるダブレットの操作を妨害して列車の運行を阻害したのでした。

他にも、移動職場大会や、機動職場大会などをゲリラ戦術で実施

  • 移動職場大会と呼ばれる戦術
    中間駅を3つか4つ回って組合員を連れ去り、バスの中で闘争の経過報告などを行い、時間が経ったら、また就業させるというもので、闘争が激しくなってくると、そのまま旅館に収容して職場に戻さなかったらしいです。
  • 機動職場大会
    活動家が列車に乗り込み、駅に着くと駅員などを集めて報告会を開いて、列車扱い等の作業するのを妨害するもので、20分程度で解散するものの、次の停車駅でも同じ事をするので、どんどんダイヤが乱れてゆくことになる。
  • 車掌を乗せない戦術
    活動家が貨物列車に乗り込み、駅に到着ずると、駅長に「ここで車掌を降ろす」と通告して押し問答を行う。組合としては本気で車掌を降ろすわけではなく、最後は「駅長の顔を立ててやめると言うのだが、目的は列車ダイヤの混乱で有り、同じ事を別の駅でも行うと言ったことが行われました。
    実際に、急行などで車掌をあらかじめ指定された駅で降ろしてそのまま連れ去ると言ったこともあったようです。
    この場合でも、車掌がいないと列車を動かせないので、ダイヤは乱れることになります。
    他にも、1日だけでしたが弥彦線では当時、有人の踏切が10カ所【保線区所属7,駅所属3】有ったのですが、組合の指令で職場放棄して職場大会を開催したため、保線区の助役等が助勤に着くまでの間、駅助役が列車に乗り込み、踏切手前で停止して、誘導するという非効率な作業が強いられました。

続く

 

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新潟闘争とはどのような闘争だったのか 第四話

本日も、鉄労友愛会議の「国鉄民主化への道」を参考に、国鉄の労政と労働運動(下) 有賀宗吉を参考に、新潟闘争について迫ってみたいと思います。

 

新潟闘争のきっかけは2名の解雇者

新潟闘争の発端は、四月春闘の処分撤回闘争による2名の解雇者でした。
このような処分撤回闘争で、解雇者が出たことは初めてのケースであり、これがきっかけとなり大争議に発展することになりました。

当局側も、組合側も、この処分がその後大きな問題になるとは夢にも思っていなかったと言われています。

新潟鉄道管理局長の河村勝は、二人の処分は寛大なものであったと言う認識であったと発言しており、また新潟地本にしても二人の処分程度であれば、撤回は容易であろうと考えていた節があったと言われています。

その辺りを、国鉄の労政と労働運動(下)から引用してみたいと思います。

国労の職場指令大会指令は三段組で、新潟の二人免職は一段組で報道されていたが、一段組で報道された解雇が大闘争の発端になるとは、誰も予想しなかったであろう。

新鉄局長(新潟鉄道管理局長)の河村勝は後になって、

「二人の処分は寛大なつもりだった、組合これで手を焼いている抗議闘争を収拾するだろう。たいした闘争にはならないと思った。」

と言うような意味のことをいっていたし、「中央公論」の兼松論文でも、

「河村局長がこの二人の処分だけで闘争が収拾できるものとみた判断は甘かったが、組合側もたかが二人くらいの処分撤回なら新潟地本の力だけでも解決できると考えていたようである」

 と書かれているように、双方とも、処分を発令した時点ではここまで大きくなるとは夢にも思っていなかったということだけは間違いなさそうです。

労使双方ともこれほど大きな問題に発展するとは想定外

さらに、処分が中央一括ではなく支社制の導入の関係もあるかと思いますが、処分単位を管理局単位に降ろしていましたので、独自に管理局長の判断でこうした処分が行われたということになります。

組合員2名の解雇で十分お灸を据えてやったと感じる当局と、この程度の処分撤回は地本で対応可能と考えた、新潟地本といえましょう。

越後滝谷駅長は、代務車掌として宮内駅から列車に乗務しようとして軟禁

なお、懲戒理由は前回も書きましたが、越後滝谷駅長を代務車掌として乗務を阻止して軟禁状態にしたことからでした。

詳細が書かれていましたので、再び国鉄の労政と労働運動(下)から再び引用したいと思います。

二人を懲戒免職にした原因について、当局側の記録によると、

「他越後滝谷駅長中島忠蔵が、六月一三日の車掌区関係の闘争で、代務車掌として乗務を命ぜられ、乗務しようとしたところ佐藤昭二、中村満夫に、宮内駅のポイントに軟禁された。これが二名の免職の直接の原因になった」

 とされていますが、実際には中島駅長の手記があり、これによると闘争前日の6月12日12時30分頃、当駅駅員で新潟地本闘争委員の佐藤昭二氏から、車掌乗務の助勤を中止してほしい旨申し入れが有ったそうです。これに対し、中島駅長は業務命令であるとして、佐藤駅員の要請を拒否、当日(13日)は長岡車掌区乗務として助勤として、宮内駅から672列車乗務指示で、長岡駅から710列車に便乗し、宮内駅に向かったそうです、下車と同時に、約30人のピケ隊に包囲され、その中のには佐藤昭二氏ほか10名ほどに強制的に連行され、同駅北部転轍小屋に2時30分頃まで、軟禁されたそうです。

補足させていただくと、便乗した710列車は、新潟22:30発、上野行きの準急夜行列車で、長岡駅には0:08発、宮内駅0:14発となっています。

なお、672列車は、富山発大宮操行きの貨物列車で具体的な時刻まではわかりませんでしたが、1:00頃の発車でなかったかと思われます。

旅客列車の時刻に関しては、時刻表昭和32年3月号で確認しています。

中島駅長が代務車掌として便乗したとされる710列車

昭和32年3月時刻表から

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国鉄があった時代 JNR-era
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新潟闘争とはどのような闘争だったのか 第三話

本日は、出張先から書いているため、十分な資料が手元にないことから、国鉄の部内紙等を参考に、新潟闘争について語ってみたいと思います。

元々は賃上げ闘争の問題から発生した歪みが、結果的にこれほど大きくなってしまったのはどうした理由からでしょうか。

新潟闘争がこれほど大きな闘争となった背景を考える

その一つには、組合と当局の対立があったことは言を待ちませんが、それ以外にも、地本と本部、もしくは、民同左派と革同との主導権争いといった派閥争いも原因の一つではないかと考えています。

国労は、3つのグループで構成されていた

国労は、民同左派・右派、革同、共産党で構成されていました

国労は3つのグループで構成されていた

国労という組織が、共産党系のグループ、共産党とは距離を置きながらも共闘を否定しない国鉄労働組合革新同志会(革同)、共産党には批判的な国鉄民主化同盟(民同)という3つのグループがありました。
さらに、国鉄民主化同盟が、右派と左派に分かれていました。

そして、新潟闘争の直接のきっかけを作ったのは、昭和32年3月23日に行われた、自然発生的なストライキでした。
弊サイト国鉄があった時代で、その時系列を追ってみたいと思います。

 国労春季闘争激化。第3波に入る。 3/11・12
岸総理と鈴木社会党委員長によるあっせんが行われるに至ったが、事態は好転せず

国労、午後2時から業績手当て問題で職場大会などの抜き打ちストを実施、運輸大臣の支給命令で5時に解除 3/23

この闘争に関しては、国労本部が指示を出したものではないものの、実質的には容認しており、国労50年史には下記のように書かれています。

三月一六日には、仲裁裁定の完全実施を要求する公労協の統一職場大会が計画されていたが、その前日、岸信介首相と鈴木茂三郎社会党委員長とのトップ会談で、政府が仲裁裁定の完全実施を約束したため、中止された。以降、完全実施が慣行化した。続いて計画されていた 最低賃金制を目指す国労のスト計画に対して、国鉄当局は業績手当の支給を中止するという措置で対抗した。憤激した組合員は三月二三日、自然発生的にストに入り、国労本部もこのストを公認した。いわゆる抜き打ちストであった。

とここまでは、国労も容認する抜き打ちストが行われたわけですが、このストに対して当局は700名以上の大量の処分を発令、解雇者も多数出すこととなりました。

これに対して、国労も反応し、国労では6月の国労大会で、処分反対闘争を賃上げや反合理化同様重要な闘争方針としました。

再び弊サイト国鉄があった時代を参照したいと思います。

 

国労処分反対闘争実施の計画を発表 4/10

国労では、中央委員会を開き、処分反対闘争を行うことを決定、不当処分が行われた場合は、その翌々日から直ちにに3月23日の抜打ち職場大会を上回る実力行使を展開するという方針をたて、公労脇も同調、総評も長期的反対闘争の勢態を整えることとしている

衆議院社会労働委員会では、公共企業体労働委員会 藤林、中山両委員を参考人として招致 4/20

裁定の内容について説明を聴取、藤林委員長が、1,200円まるまる増額するのが適当である旨の発言をめぐって、その態度が批判された他、松浦労相が春闘の責任者として40~18名の馘首、700名程度の戒告等の処分を用意している旨を発表し、政府、労使ともどもを混乱におとし入れる事態が発生

当局は春闘責任者28名の解雇、675名の停職減給を発表 5/8

国労、機旁の春闘に対する責任者の処分は28名の解雇、675名の停職減給などという未曾有の大処分となった、処分発表に当り、総裁は国鉄の使命と秩序維持のためにも処分を決定せざるを得なかった旨の声明を発表

春闘処分を巡って動き 5/11・12

国労・機労の春闘に対する責任者の処分は、28名の解雇、675名の停職・減給などという未曾有の大量処分となったが、組合はこの処分を不当とし、全国的に処分反対抗議闘争を展開し、また輸送に大きな支障を与えた

国労、処分に反対して、運転部門以外で半日職場大会を開催 6/4

国鉄当局、処分反対闘争の処分、解雇1人など発令 6/6

新潟地本、処分撤回職場集会で貨物71本運休 6/13

国労第16回定期大会開催、解雇三役を再選 6/22~6/27

 松山において国鉄労組の全国大会が開催された、結局、国民の信頼をかちえなけれぱならないこと、より姿勢を低くするとも、組合の統一ある行動は守られねばならぬことに結論を見出した
しかし、役員の改選に当っては、解雇された3役が再選されるという結果になり、今後団体交渉などについて再び問題を残すこととなり、その成行は注目される

以上、弊サイトから引用

国労は、世論も考慮し処分撤回闘争の中止方針を決断

これに対抗して、国労等は処分撤回闘争を行うも、当局は管理局単位での処分を展開するという泥沼に陥っていくのでした。

国労としては、これ以上の闘争は不利と判断して、国労第16回定期大会で、「より姿勢を低くするとも、組合の統一ある行動は守られねばならぬことに結論を見出した」とあるように、過激な戦いを避けようという方向性に進んでいくのですが、ここで注目していただきたいのが、6月4日の職場大会は、運転職場以外で開催したのに対して、新潟地本は13日に貨物71本を運休させる職場大会を開催したとしています。
国労大会の前とはいえ、概ねこの頃では本部の方針は決定しているでしょうから、そのように考えると、新潟地本の動きは突出していると言えます。

ここに、国労という組織の難しさが出てくるのでした。
国労という組織自体は、決して一枚岩ではなく、最初に記したように、大きく分けて三つのグループ、更に、その中で複数のグループに分裂していました。
新潟地本は、広島地本同様、革同の拠点であり国労本部としても、やっかいな存在であったと推測されます。
再び、国労の50年史を参照してみたいと思います。

国鉄本社は現地管理局に対し、一切の妥協をしてはならないと指示した。この動きとは別に警察当局が地本幹部を逮捕したことから再び組合員の抗議行動が強化された 。政府も、閣議国鉄当局の強硬方針を支持することを決定した。この局面で、国労本部は 、新潟闘争を全国化して全面的対決を強めるか、逆に実力闘争を中止するかの選択を迫られた。この選択は、新潟地本が革同系執行部の主導権元に有ったこともあり、53年以来、民同左派と革同の連合により比較的安定してきた中執の中で激しい論争が展開された。論議の結果は、戦術転換論が多数を占め新潟闘争は打ち切られた。総評首脳部も、この方針を支持し、8月の総評大会で収拾が確認された。この新潟闘争を契機に、第二組合が結成された。

国労に向けられる厳しい世論

ここにあるように、ここで国労は、革同の流れに沿って更に強力な新潟闘争を全国的なものとするのか、否かの選択を迫られますが、当時の陸上輸送は、鉄道が主体であり、世論は国鉄とりわけ、国鉄労働者には厳しい目を向けていました。

「迷惑するのはいつも国民だが、こんどの場合、農民と水産業者の闘争反対デモは圧巻だった。『少しばかり文化的な労働者だといって、同じ労働者のわれわれのクピをしめるつもりか。』とどなった声は、組合側にとっても泣きどころであったようだ。」(週刊読売8月4日号)

国鉄昭和32年10月号の記事から引用

国鉄線昭和32年10月号の記事から抜粋

国鉄線昭和32年10月号の記事から抜粋

国労執行部としては、革同の流れに乗りたくない、本部の威厳を守りたいといった気持ちもあったかと思います。
結果的に、国労本部預かりという形で収拾を図ったものの、新潟地本の中では燻ったものがあったのでしょう、それがその後の職能別組合の分離に繋がっていくのですが、そのあたりは改めて、次回以降に記述させていただきます。

  

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文責 加藤好啓

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