日本国有鉄道労働運動史【鉄労視点】

日本国有鉄道労働運動史、鉄労視点で綴るblogです

鉄労誕生までのお話 第2話

正直、鉄労視点で書かれた組合関係の記事というのは意外と少ないのですが、当時の資料などを参照しつつ、弊サイト、国鉄があった時代並びに、関連blog、日本国有鉄道 労働運動史等をリンクさせながらお話を進めさせていただければと思っています。

しかし、改めて資料を探していきますと、これまた非常に色々と奥が深そうで、正直自分でも始めなければ良かったと少しだけ後悔しています。苦笑

まぁ、後悔していると言いながら、新しいことを発見できることにわくわくしている自分がいるんですけどね。苦笑

さて、ここで今一度新潟闘争について簡単に振り返ってみますと、「国労新潟地本の処分反対闘争により、7月9日2名の解雇者を出した」ことからはじまったものでした。

戦争もそうですが、最初のきっかけは本当にちょっとしたボタンの掛け違いから始まるものです。

この辺を最初に、弊サイト国鉄があった時代から引用してみようと思います。  

国労、処分に反対して、運転部門以外で半日職場大会を開催 6/4
新潟地本、処分撤回職場集会で貨物71本運休 6/13
国労第16回定期大会開催、解雇三役を再選 6/22~6/27
松山において国鉄労組の全国大会が開催された、結局、国民の信頼をかちえなけれぱならないこと、より姿勢を低くするとも、組合の統一ある行動は守られねばならぬことに結諭を見出した。
しかし、役員の改選に当っては、解雇された3役が再選されるという結果になり、今後団体交渉などについて再び問題を残すこととなり、その成行は注目される 

新潟地本幹部2人に当局から懲戒免職処分 7/8
新潟闘争、国労、当局の処分に反対し闘争に突入 7/9

6月13日行われた国労新潟地本の処分反対闘争により、7月9日2名の解雇者を出したことからはじまった新潟の闘争は、勤務時間内職場集会、強力な順法闘争が併せて行われ、日本海縦貫貨物輸送を完全にマヒさせ、運休、遅延が拡大。各所で鉄道公安と衝突となり、農民代表から抗議を受けるほどであった
16日開かれた中央執行委員会において採決の結果20対8で中止指令を出すこととなり、すべては中央部に移されることとなった
国労新潟地本、国鉄春闘処分に対し直江津など二駅で職場大会→処分反対闘争に突入 7/10→7/16 中止指令
この結果、裏縦貫貨物輸送マヒしており。16日の闘争中止指令後も交渉はこうちゃく。藤林公企体労働委員会会長あっせんに乗出すことに
国労の動きに合わせ、国鉄機関車労組(後の動労)新潟支部も無期限超勤拒否、臨時列車運転拒否 など闘争に参加 7/11
国労スト参加者、さらに5人検挙。全職場無期限の職場集会、当局も一歩も引かず自体は泥沼化 7/15
新潟地区全列車が停止 7/16
中央闘争部よりストライキの中止指令 7/18
新潟闘争、中央で折衝を始めるも平行線の議論 7/19
労使双方の折衝が行われているが、当局側としては、国労と真正面から対決することも辞さないと言う強硬姿勢を崩さず、解雇処分を受けた役員と話合とは行わないとして、組合側の確約を要請するという強い態度を維持しており、組合側は、民同左派、革同派との調整や共闘関係から主流派(民同右派)が窮地に追いこまれているという情況下にあり、互いの思惑も含めて収拾のつかない状態となっている
膠着状態を打開すべく藤林公企体労働委員会会長が、あっせんに乗り出す事となったが、当局は、解雇者以外の組合代表者が決まるまでは団交は行わないと強硬な態度を崩さず、現行の労働協約は、組合が現状を維持する限り期間満了とともに消滅するものであるという基本方針を決定している。(関連:当局、組合費の控除廃止 10/23)組合側は、解雇された幹部を団交から除いては、かねて不当であるとして来た処分を事実上認めることとなり、かつは大闘争を中止した後でもあるので内部をまとめる上からも不都合であると、団交拒否禁止の仮処分を申請している状態であり、その出口は見えない
さらに、組合員の中には、国労の運動方針々不満とし、団交権を確立し、当面の問題を解決しようとする非現業組合結成の動きさえ現われてきており。国労は事態が一向に進展しないので、とにかく9月25日までは列車に影響を与えるような実力行使は行わない、大会の決定どおり、全国的な闘争は9月末から年末闘争にまで発展させるということを決定するに至った

 

総評大会で、新潟問題が論議される 8/3

 新潟地区の全列車が止まるほどの、全面的ストライキであり、左翼側視点で見てみますと、革同*1による労働者の闘いであるとして、「『国際労働運動』」というサイトに新潟闘争に関する話題が下記のように記されていました。

全文引用というわけにも行きませんので、その一部を引用させていただきます。  

▼革同の拠点だった新潟
 スト権を剥奪されている国労は、順法闘争か職場集会という闘争手段をもって事実上のストライキをかちとってきた。労働者として当然の実力闘争であった。全国各地で時間内職場集会として激突が繰り広げられた。とりわけ激しく闘ったのが国労新潟地本だった。
 革同の拠点だった国労新潟地本は、度重なる処分攻撃に対して、7月10日から激しい実力闘争に突入した。1週間にわたって列車を次々止め、大きな影響が出た。

中略

 闘いの爆発による輸送の大混乱に対して、新潟鉄道管理局の河村局長は事態収拾の姿勢を示さず、「こうなったら、どちらがへたばるか、とことんまでやる」とうそぶいた。河村は積極的に警察権力の出動を要請し、それと一体化して闘いの鎮圧に奔走した。だが、闘いは連日続き、11日は45カ所、958人が参加。12日も17カ所、13日32カ所、14日64カ所に及び、列車運行はまったくがたがたになった。まさに力勝負だった。敵の大言壮語は、労働者の迫力に圧倒された者の虚勢でしかなかった。
 15日には権力の弾圧で5人が検挙され、それに抗議して全職場無期限の職場集会の指令が下りた。142カ所3,082人が参加、運休は旅客19本、貨物列車114本。
 16日もその態勢は続き、全列車が止まった。これに対し、本部中闘より新潟地本に中止指令が下りた。そして地本がこれを受け入れて闘争態勢を解除した途端、4人に免職が発表された。翌17日には15人の免職処分が追加された。

 革同とは、国鉄労働組合革新同志会と呼ばれる組織で、共産党とは距離を置きながらも共闘を否定しない派閥として誕生しました

さて、ここで国鉄に対する、

と言った具合で、国労(特に新潟地本の闘争は苛烈を極めていました。

上記のように、農民代表から抗議を受けるほどであったということで、全国的にも注目されることとなり、新聞はもとより、週刊誌などにも記事が載ったそうで、国鉄線の記事にその辺が載っていましたので、抜粋させていただこうと思います。

  •  週刊朝日
    国鉄労組のムチャな実力行使によって大きな被害を受けた漁民や農民が、なぜ事態を嘆いたり。嘆願したりしているだけですましているのだろうか。強いものにはかなわないという気持がそうさせているのだろうか。そのような国民のアキラメを逆用して、国鉄労組は繰返し実力行使を行い、国鉄当励も相すみませんというだけでこのような事態をほったらかしているのではないかとさえ思われる。」(八月四日号、今日の焦点欄)
  •  サンデー毎日
    「ケンカは勝手だが、そのたびに迷惑をこうむるのは一般国民だということを、もう少し反省してもらいたいね。」(サンデー毎日、八月四日号)
  •  週刊読売
    「迷惑するのはいつも国民だが、こんどの場合、農民と水産業者の闘争反対デモは圧巻だった。『少しばかり文化的な労働者だといって、同じ方慟者のわれわれのクピをしめるっもりか。』とどなった声は、組合側にとっても、泣きどころであったようだ。」(週刊読売、八月四日号)

等の声が上がったようです。

 

この闘争を通じて、国労の中でも新生民同(民同右派)のグループが離脱のための運動を始めます。

再び弊サイト、国鉄があった時代を8月。、9月を中心に見ていこうと思います。

国労内民同右派による分裂組織準備会開催 7/21
総評大会で、新潟問題が論議される 8/3

新潟地方労働組合1,550名が発足 9/1
→参考 新潟闘争に関して綴らせていただきました、国鉄労働組合史詳細解説 19 日本国有鉄道 労働運動史

新潟局同様に、仙台地方と青函局に、ついで旭川局で国労から分裂した組合員による新組合が誕生し。東京。多度津との合計1,340名で職能別労働組合連合を準備 9/4

第48回国労中央委員会開催 9/11~9/14

秋季、年末闘争の方針決定と新潟闘争や第2組合問題の批判を申心議題とする国鉄労組第48回中 央委員会は、9月11日から東京 駅八重州口の国労会館で開催
今回は、新規約によって開催された初めての中央委員会であり、全員122名が出席したが、職能別組合部成の中心となっていろ菅原委員に対し、中央委員としての資格を喪失したものとするとの方針を取られることとなった
第1日目は、本部の新潟闘争打り、第2組合結成について議論され、第2日目、賃金改訂につき現在まで組合と当局との問に到達した結論を了承することとなり、3日目、秋季、年末闘争の運動方針が審議され、大会招集の緊急動議があり、紛糾をかさね、会期を1日延長して審議が行われ、10月に臨時大会開催の必要があれば、招集すること、小柳委員長から組繊の再検討を行い、10月闘争を既定方針どおりすすめるという表明があり終了した

 この年表によりますと、国労右派のグループは、こうした過激な運動について行けずに7月21日には、分裂組織準備会開催 し、9月1日には、1,550名の民同右派が「新潟地方労働組合」を発足させていきます。

さらに、その三日後には、全国で同様の動きがあり「職能別労働組合連合」の準備が行われることとなりました。国際労働運動のサイトでは3,000名のと言う記述がなされていますが、おそらく新潟地方労働組合と、職能別労働組合連合の人数を併せて3,000名と表現したものと推測されます。

以下に、再び国際労働運動のサイトからの記事を引用したいと思います。

▼第2組合との闘い
 闘争の中止と当局の処分に呼応するように第2組合の策動が表面化した。明らかに河村局長ら当局によってそそのかされた動きだった。つまり、第2組合策動は国労つぶしの不当労働行為そのものだった。そして9月1日に、国鉄新潟地方労働組合(新地労)が3千人で結成に至った。このことは、「闘えば分裂する」「闘っても勝てない」という戦後日本労働運動の「常識」を定着させるかのようであった。
 だが、それは違う。資本と国家権力とは労働者階級の利害は相いれないのであって、闘って打ち倒す以外に方法はないのだ。そのことを7月の連日の闘いの中で知った多くの労働者が存在した。そしてそれは創成期の革命的共産主義運動と深く結びつき、突き動かした。59年の革共同全国委員会の結成は、まさに新潟闘争を継承してかちとられたものだ。
 (注)革同 国労革新同志会。当時の労農党系、「マルクス・レーニン主義、社共統一促進」を掲げる。その後、日本共産党と一体化し、国労内の日共グループという存在に転化。民同を補完する役割に甘んじることになる。

www.zenshin.org個人的にはかなり無理強いした発言にも思えるのですが、当時の左派勢力の考え方の中心が、階級闘争であり、資本階級である経営者層は、プロレタリアートである労働者の敵であるとして闘うことを煽るわけですが、

前述のように、

「迷惑するのはいつも国民だが、こんどの場合、農民と水産業者の闘争反対デモは圧巻だった。『少しばかり文化的な労働者だといって、同じ方慟者のわれわれのクピをしめるっもりか。』とどなった声

にもあるように、労働運動の理想論に走り、結果的に国民の信頼を得られなかったのではないかと思われますし、こうした闘争により、国鉄内では新生民同(民同右派)が、新潟地方労働組合の発足を機に、他の地域でも職能労連として組織され、昭和36年9月17日には、国鉄地方労働組合連合となりました。

現業機関等を中心とした、地方総連も発足、この二つは、「新国鉄労働組合連合」として、昭和37年12月1日(11月30日とする資料もあり)に「新国鉄労働組合連合」(新国労)として発足します。

この組織が、今回のお話の中心となる鉄労の前身となります。

余談ですが、国鉄末期に国労革マル派が中心となって分裂した組織は、「新国労」ではなく、「真国労」となったのは、すでに鉄労で、その名前が使われていたこともありました。

 

鉄労誕生

鉄労誕生までの組合の流れ

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新潟闘争に関連する記事

も併せてご覧ください。

 

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*1:国労内の民同派と共産党グループが抗争を展開する中、1948年4月25日に中間派の組合活動家が第三派閥として国鉄労働組合革新同志会(略称:革新同志会、革同)を結成した

鉄労誕生までのお話 1話

鉄労視点で書かせていただくといいながら、そのままになっていましたが、本日よりスタートさせていただきます。

鉄労という組織はいつ誕生したのか、元々はどのような組合だったのか、その辺からスタートしたいと思います。

国鉄労働組合

国鉄労働組合

鉄労も、元は国労から分離した組織

最初にお断りしておきますと、鉄労も、動労もそうですが、元々は国鉄労働組合から分化した組織です。
その中から最初に分離したのが昭和26(1951)年に分裂した機関車労組でした。
機関車労組と言ってもピンと来ない方も多いかと思いますが、動労の前身で、機関車乗務員並びに検修要員だけで構成された組合であり、後に鬼の動労とか革マル動労などと呼ばれましたが、結成当初は機関車乗務員の待遇改善(戦前に存在した格差賃金の獲得)を主な目的としたもので、穏健派が主流を占めており、使用者側とも良好な関係を保っており、運転局長・常務理事を経験した木島虎蔵氏を組織内候補として応援するなど、運転局との関係は良好でした。
動労が、革マルに浸食されていくのは、昭和30年代に入ってからですが、本題から外れますので、省略します。
さて、肝心の鉄労ですが、その芽は昭和32年の新潟闘争まで遡ることになります。
国労は、元々国鉄職員の殆どが結集して作られた組合であるため、その考え方はまちまちで。共産党系の指示を受けるグループもいれば共産党の指示に反対する反共のグループも存在したわけで、国鉄民主化同盟と呼ばれるグループ(民同)さらには、共産党とは距離を置くが共闘は否定しないという国鉄労働組合革新同志会(革同)という三つのグループが昭和23(1948)年までにできていたわけで、すでにこの時点で国労は1枚岩ではなかったと言えます。

鉄労を結成したのは、民同右派と呼ばれるグループ

鉄労は、特に国労の中では民同と呼ばれるグループから派生した組合になります。
民同派は、日本社会党(現在の社民党)を支持するグループでしたが、社会党の中にも右派と左派があったように、民同派の中にも右派と左派が存在しました。

そんな中で、昭和32(1957)年には、新潟で大規模な闘争が行われることとなりました。
発端は、6月13日国労新潟地本の処分反対闘争を行った際に、2名の解雇者を出したことで、組合側が反発したもので、弊サイト国鉄があった時代には、下記のように記述されています。

国鉄があった時代、昭和32年から引用

新潟闘争、国労、当局の処分に反対し闘争に突入 7/9

6月13日行われた国労新潟地本の処分反対闘争により、7月9日2名の解雇者を出したことからはじまった新潟の闘争は、勤務時間内職場集会、強力な順法闘争が併せて行われ、日本海縦貫貨物輸送を完全にマヒさせ、運休、遅延が拡大。各所で鉄道公安と衝突となり、農民代表から抗議を受けるほどであった
16日開かれた中央執行委員会において採決の結果20対8で中止指令を出すこととなり、すべては中央部に移されることとなった

岸内閣成立。運輸大臣に中村三之丞氏が就任 7/10
国労新潟地本、国鉄春闘処分に対し直江津など二駅で職場大会→処分反対闘争に突入 7/10→7/16 中止指令

この結果、裏縦貫貨物輸送マヒしており。16日の闘争中止指令後も交渉は膠着。藤林公企体労働委員会会長あっせんに乗り出すことに


国労の動きに合わせ、国鉄機関車労組(後の動労)新潟支部も無期限超勤拒否、臨時列車運転拒否 など闘争に参加 7/11

国労スト参加者、さらに5人検挙。全職場無期限の職場集会、当局も一歩も引かず自体は泥沼化 7/15

新潟地区全列車が停止 7/16

当局更に、15人免職処分を追加 7/17

中央闘争部よりストライキの中止指令 7/18
国鉄当局は今回の争議に対して4人の免職発表 7/18

新潟闘争、中央で折衝を始めるも平行線の議論 7/19

労使双方の折衝が行われているが、当局側としては、国労と真正面から対決することも辞さないと言う強硬姿勢を崩さず、解雇処分を受けた役員と話し合いとは行わないとして、組合側の確約を要請するという強い態度を維持しており、組合側は、民同左派、革同派との調整や共闘関係から主流派(民同右派)が窮地に追いこまれているという情況下にあり、互いの思惑も含めて収拾のつかない状態となっている
膠着状態を打開すべく藤林公企体労働委員会会長が、あっせんに乗り出す事となったが、当局は、解雇者以外の組合代表者が決まるまでは団交は行わないと強硬な態度を崩さず、現行の労働協約は、組合が現状を維持する限り期間満了とともに消滅するものであるという基本方針を決定している。(関連:当局、組合費の控除廃止 10/23) 組合側は、解雇された幹部を団交から除いては、かねて不当であるとして来た処分を事実上認めることとなり、かつは大闘争を中止した後でもあるので内部をまとめる上からも不都合であると、団交拒否禁止の仮処分を申請している状態であり、その出口は見えない
さらに、組合員の中には、国労の運動方針を不満とし、団交権を確立し、当面の問題を解決しようとする非現業組合結成の動きさえ現れてきており。国労は事態が一向に進展しないので、とにかく9月25日までは列車に影響を与えるような実力行使は行わない、大会の決定どおり、全国的な闘争は9月末から年末闘争にまで発展させるということを決定するに至った→参考: 新潟闘争

whitecat-kat.hatenablog.com

 国鉄があった時代昭和32年後半

 

と言った具合で、かなり強力な闘争となりました。
実は、昭和32年は3月頃から強力な闘争を繰り返しており、国鉄当局もかなり強気で処分を発令しており、昭和50年頃のマルセイ運動以降に見られる当局との癒着ぶりを思うとガチで対決していました。

そんな中で、新潟の非現業国労組合員(管理局員)の中から国労の動きに同調できないとして分裂する動きが出てきます。

すみません、新潟闘争までで力尽きそうですので、鉄労誕生までは2回に分けさせていただきます。m(_ _)m

 

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鉄労視点による労働運動史

こちらでは、鉄労視点による労働運動史として書いていきたいと思います。

国鉄には、国労から派生した、動労、鉄労、更に動労から派生した全動労、千葉動労などがありますが、こうした組合のうち、民同右派の鉄労視点から見た労働運動としてアップさせていただければと思います。

 

なお、「国鉄民主化への道」を底本に、国有鉄道国鉄線など国鉄部内誌なども参考にしながら比較検討しながら書いていきます。

 

ただし、更新は一か月一回程度出来れば良いかなぁという程度ですので気長にお願い致します。

 

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