日本国有鉄道労働運動史【鉄労視点】

日本国有鉄道労働運動史、鉄労視点で綴るblogです

国労内で民同右派による分裂運動(新潟闘争前) Ⅳ

半年も放置状態になってしまいましたが、改めて筆を進めたいと思います。

主には、国鉄民主化への道を参照しながら弊サイト国鉄があった時代、及び国鉄部内紙国有鉄道などを参照しながら進めていきたいと思います。

 

国鉄当局は、職員ではないものを組合役員とすることを拒否

事の発端は、国労が懲戒処分で解雇された組合役員を再び専従役員として選出したことであり、これに対して当局が強く反発したのが始まりでした。

その辺を弊サイト「国鉄があった時代」から引用したいと思います。

事の発端は、国労第13回大会での解雇された役員を再び専従役員として選出したからであり、当局から何度も警告を受けていましたが、国労自身はさほど重要に考えていなかったように見えます。

国労第13回全国大会等開催 山形県上ノ山 5/15

第13回全国大会及び第36回中央委員会が開催され、29年度の運動方針として、業務方針や党幹部の決定を行った
運動方針は、不当処分の撤回、生活向上の闘争等五項目
国労は当局の警告にも関わらず、解雇された役員を再任したため、組合を法外組合と認め、団体交渉等に応じない事態となった→国鉄当局、被解雇者の組合役員再選を理由に団交拒否 5/27

実際、国労の解雇三役の役員再選により、当局は団交を拒否すると事になります。

国鉄当局、被解雇者の組合役員再選を理由に団交拒否 5/27

解雇通告を受けた三役再選は適法と認め難いからその違法な状態を解消しない限り従来通りの労働関係を継続することは出来ないと正式通告
夏期手当問題その他について、国鉄労組から団体交渉の申入れをうけた国鉄当局は、組合幹部との会見に、被解題者を役員とする国鉄労組は法外組合である旨の正式通告を行い、かかる違法状態がつづく限り、団体交渉はもとより、組合に対する諸々の便宜の供与をとりやめることを伝えた

国鉄があった時代

これにより、組合側は24協定(組合費などを給料から天引きする制度)が利用できなくなり、この闘争は組合側が結果的の敗北に終わる事になります。

国労は、当局のこうした強硬な策に対して、団体交渉を再開するように、順法闘争で打開を図ろうとしますが、中々上手くいかず、結果的には国労が当局に詫びを入れる形での解決が図られることとなります。

少なくとも、国労が行った解雇者による役員改選はこの時は国労にとっては厳しいしっぺ返しを受けることとなりました。

国労内部では職業別(職能労連)設立の動きがあった?

昭和29年に国労が解雇された元組合員を専従役員として擁立したことは、前回のお話の中で出ていたと思うのですが、国労は昔から一つの組織とは言えいくつも派閥がありました。国鉄の職場自体が非常に多岐にわたっており、本社・管理局などの非現業部門はもとより、駅・運転・電力・通信・保線等々多岐にわたり、運転一つ取ってみても、動力車としての機関車乗務員もいれば、電車や気動車の運転士、国鉄バス等の運転士があり、駅の場合は更に多岐で、窓口業務などの出改札担当から、信号扱・操車場の連結手等々これまた多岐にわたるわけで、国労内でも機関車労組にならび職能組合への脱皮的な動きもあったようです。

その中で横断的にまとめていくにはある意味政治力と言いますか、支持政党毎にグループを作っていくのはある意味自然なことだったのかもしれません。

実際に、国労の中では民同派・革同派・共産党派等々と言った複数の派閥が存在し、民同派社会党を支持する訳ですが、社会党自体が講和条約の全面講和か一部講和かで社会党右派と左派に分裂その後再修復するもののやがて、社会党右派から派生する形で「民主社会党」が誕生していくわけで巣がこれはもう少し先の話、

しかし、純粋に労働運動を突き詰めていくならば職能別の方が問題は集約しやすくなり、かつ当局側もその点では問題の解決を図りやすいと于メリットもある反面、組織自体が小さくなる(個人が二つ以上の組合に加盟できないため)全体の組合としてのパイは小さくなる(組合費の減少)というデメリットもあり、国労職能別組合の設立には積極的には動かないわけで、その辺の国労の制度的問題がここに来て出てきたように思えます。

さて、そこで古い資料を参照していますと、中々興味深い資料を見つけることが出来ました。

国有鉄道昭和30年9月号の記事で、国鉄労組長野大会傍聴ノートと呼ばれる記事で。

この記事では、当時の大会の様子を探ることが出来ます。

以下一文引用してみたいと思います。

むしろ会場の空気をひきしめていたのは、職群の是正をめぐる各職代表の動向であろう。線路工手のランク引上げ、信号機掛、連結手のランク引上げ等の懸垂幕が張りめぐらされ数十枚のピラが全員K配布された。
動員された傍聴者の気勢は派閥的なものから形を変えて職種的な結束となり、休憩時間中には、必ずどζかで職協の会合がもたれていたが、わずか280円の分配をめぐって、職能セクトの底流があったことは見逃がすことはできない。

当時の大会の様子を視察した、国鉄職員局労働課員のレポートなのですが、この時点では昨年度の解雇三役を降ろすのか否かは。いわば派閥同士のいわばにらみ合いの様相を呈することとなり、その反面上記のように、大会としては職群の是正を巡っての各職代表の動向とあるように、職能別の要求が強く出てきたことに着目すべきで、これを職能別の組合分裂の萌芽と見ると考えるのはいささか考えすぎでしょうか。

 

続く

 

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国労内で民同右派による分裂運動(新潟闘争前) Ⅲ

前回は、動労国労が解雇者を専従役員に据えたことで、国鉄当局が反発したところまで書かせて貰いました。

今回は、解雇者の専従役員のことについて少しだけ掘り下げてお話をさせていただこうと思います。

専従役員とは

専従役員とは一般的には下記のように定義されています。

労働組合の活動に専念する者。使用者により従業員としての身分が保障されながら、一定期間組合活動に専念する在籍専従者と、それ以外の非在籍専従者(離職専従者)とに分けられる。一般には前者をさす

引用:コトバンク

kotobank.jp

国鉄の専従役員もILO87条が批准されることで、組合専従者とする場合、期間5年、組合専従期間は勤務時間に反映されないなどの組合にすれば改悪とも言える部分もあったようです。

 

さて、ここで改めて昭和30年代の国鉄の専従者の歴史について振り返ってみたいと思います。

国労の場合ですが、専従役員再任までのきっかけは以下の通りでした。

昭和29年

国鉄、年末闘争の3割休暇戦術等が公労法第17条違反であるとして、国労本部委員長他、三役幹部と企画部長岩井章ならびに地方役員、合計18名を23日付けで解雇 1/22

今回は地方における末端の組合員に対しても責任を追究したことから、組合側を強く刺激することとなった

注:鉄労の資料では、1/22解雇発令は、国労本部委員長他の三幹部並びに岩井章企画部長であり、1/23に地方役員が解雇となっています。もう少しその辺を確認して加筆修正します。

国鉄当局、解雇者が再選の場合は組合を法外組合と認め、団体交渉等に応じないと国労に警告 5/12

国労第13回全国大会等開催 山形県上ノ山 5/15

第13回全国大会及び第36回中央委員会が開催され、29年度の運動方針として、業務方針や党幹部の決定を行った
運動方針は、不当処分の撤回、生活向上の闘争等五項目
国労は当局の警告にも関わらず、解雇された役員を再任したため、組合を法外組合と認め、団体交渉等に応じない事態となった

当局からの警告を無視した組合幹部

国鉄当局は、国労内の民同左派が台頭しており、国労は当局からの事前の警告に対して、さほど大きな問題ではないと軽く考えていたようです、実際には本格的な警告であったわけで、その後国労はその対応に苦労することとなります。

その辺を国鉄民主化への道から引用してみたいと思います。

期日も迫り、いよいよ役員達も上ノ山(山形県上ノ山温泉)へ出発しようとした矢先へ、国鉄当局から、「解雇処分を受けた三役を、大会で再選した場合には、"法外組合"となるから団体交渉は出来ない」という警告があった。

13日に、副総裁の天坊と職員局長の井上が、委員長の柴谷と副委員長の土門に会って、この警告をしたという・・・・中略・・・・柴谷は、これを警告という正式なものとは思わず、当局が密かに腹の内を話してくれた、程度に受取。「組合でよく相談しましょう」と言って帰った、と言う。

 ところが、これが翌朝の各新聞に大きく報道された。新聞へ発表するための警告であったわけだ。政治好きと言われた"井上労政”の始まりだった。

国鉄民主化への道 P211~212

民同左派と革同派の主流派と、追いやられる民同右派

この背景には、当局からすれば民同左派と革同系が組合をどんどん左傾化していくことへのいらだちがあったように見えます。

当局側の言い分としては、国鉄等の公社の場合は、公共の福祉の上に公労法があり、国鉄法があるとして、少なくとも当時の当局としては、国労が今一度原点に帰ることを望んでの発言でもあったわけです。
それは、国有鉄道 1954年8月号 岐路に立つ労働問題で、以下のように述べています。

公共の福祉を擁護し確保するためには、国鉄の理事者は理事者としての義務があるのと同様に国鉄労働組合は、公労法上の組合としての義務のあることを忘れてはならない。
この義務は、公共の福祉のために課せられた責任であるともいえるであろう。
権利の主張に熱中するあまり、この義務と責任に対する感覚がまひしているような傾向が激しくなっている現実は、大いに反省すべきである。

これは、民同左派と革同派が国労内で力を付けて、いたことに対して当局もかなり神経質になっていたわけで、「権利の主張に熱中するあまり、この義務と責任に対する感覚がまひしている」の文言に国鉄当局の国労に対する考え方が凝縮されていることを理解いただけると思います。

しかし、国労はこの時点で当局のこうした思惑を理解できず、解雇者を三役に再選することで、戦う組合としての面子が立つとでも考えたのかも知れません。

実際、解雇処分を受けた元国労企画部長の岩井章は、委員長だけでも改選を主張してかなり煙たがられたそうですが、岩井本人としては、"法外組合"と言われることを恐れたと言われており、更には新生民同派(いわゆる民同右派)が分裂することを恐れたわけですが、結果的には民同右派は、管理局等の非限機関を中心とした職能別組合、更には新潟闘争での新組合の結成などに流れていくこととなります。

当局の警告は。結局は革同派や民同左派にしてみれば、解雇者を三役にすることで当局が首謀者を解雇したくても解雇できないから、処分反対闘争は自分たちの勝利になると判断したわけです。しかし当局は、当初の予定通り、法外組合として認定したため、24条協定の組合費などの控除が行われなくなりました。

この措置は昭和30年9月6日まで続いたようです。

続く

 

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国労内で民同右派による分裂運動(新潟闘争前) Ⅱ

4ヶ月近く放置状態になってしまいまして申し訳ございません。

再び、国鉄民主化の道からお話を進めさせていただこうと思います。

新潟闘争前の松山大会

国労内における派閥闘争は大きくなり、新潟闘争前に松山で開催された定期大会では派閥争いが激化していたと言われています。

その背景には、跳ねっ返りの強すぎる地本と指令返上した地本などの扱いにおいて右派(新生民同派)が強いからとか、革同・共産党が原因だと言った議論が百出したとされており、本来であれば派閥と言う問題を昇華して行くべきなのですが、解消どころか派閥闘争というもう一つの組合内闘争が露顕したのでした。

その背景には、先ほど書きましたように。

本部の指令を黙殺もしくは返上した大阪地本など指令返上したいわゆる新生民同派が強いグループが指示したのだとか、広島や新潟などのように革同や共産党が拡張戦略をとったからと言う発言が根底にあったようです。

民同左派にしてみれば、民同右派と呼ばれるグループも革同もどちらも扱いにくいと言う点では同じであったのでしょう。

こうした議論も出た中で、最終的には規約の改正により副委員長ポストを一つ増やすこととなり、最終的には新執行部は、引き続き民同左派が押さえるものの。新生民同派が2人増えて。革同派が一人減るという事で決定しました。

国労執行部派閥別構成人数

国労執行部派閥別構成人数

組合分裂を意識した新生民同派

新生民同派(いわゆる右派)の中には、解雇された職員が組合専従で業務に就くことに強い違和感を持っており、新生民同派の代議員の一人は組合分裂を意識して趣意書を関係者に配布したとされています。

その人の名前は、菅原栄悦という方で、「非現業関係組合結成準備の趣意書」と呼ばれる印刷物を配布したそうです。

その辺の経緯を、国鉄民主化への道 P257から引用してみたいと思います。

新生民同右派の菅原栄悦は、この大会で、組合分裂を意識し、「非現業関係組合結成時準備の趣意書」という印刷物を密かに関係者に配った。

 

 私たちは管理局を中心とする非現業関係の組合員の労働条件の維持改善を図る推進機関として、総務経理協議会があり、組合本部の諮問に応ずるばかりでなく、直接問題解決にあたってきたのでありますが、国鉄労働組合が単一組織になった以前を含めて、私たちの要望事項は今日まで殆ど何一つ解決していないのであります。

 (中略)何れにしても、現在の組合の中にあっては、非現業関係及び直轄職場を含めての問題解決は望み無しと判断し、ここに管理部門を一丸とする新組合を結成し、問題解決に邁進することに決定したのである。

と有りますように、国労における非現業の問題が全く解消されていないという不満が述べられているわけですが。

この辺は、私が郵政局に勤務していた頃もあまり変わりませんでした。苦笑

郵便局とは異なる問題は多々あるのですが、組合という名前のサークルに入っているようなもので。特に私の場合は全逓荷所属していましたので、それで無くとも少数派の組合だけに肩身が狭かったのはよく覚えています。

私の思い出話はどうでも良いのですが、ここにきて新生民同派は、まず非現業部門で組合の分裂をはかるわけですが、同じように新潟闘争が同時期に勃発したことから、新潟の国労組合員も地方組合を結成することとなりこれがやがて、鉄労(当初は新国労)に収束して行くわけですが、改めてこうして時系列で追いかけて見える事の重要性を感じています。

国鉄当局は団交拒否を通告

国労・機労共に解雇者を三役に据えたことで、国鉄当局は国労・機労に対して「組合は合法的な代表者を欠いているとして団体交渉は行わない旨通告」して組合との対立姿勢を7月9日に示すのですが、奇しくも同日新潟闘争が始まるのでした。

 

続く

 

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国労内で民同右派による分裂運動(新潟闘争前)

またまた2ヶ月ほど開けてしまいましたが、改めて鉄労視点から見た新潟闘争前後の話をさえていただこうと思います。

講和条約での扱いをめぐって社会党内で、右派と左派に別れての問題はそのまま労働組合にも派生することとなり、社会党左派を支持するグループと、右派を支持するグループに分かれ、これは国労内では民同派と新生民同派に分かれることとなり、民同派は左派、新生民同派は右派という色分けとなっていました。

そんな中、国鉄内での組合運動はますます激化し、政治運動などを中心とする組合運動に変節していきました。

また、機関車労組は、設立当初の穏健な運転局に庇護されるような組合から徐々に左傾化し、その運動は過激さを増していくこととなりました。

国労が、反戦青年委員会など後の過激派となる組織を潰そうとしたことに対し、機関車労組はむしろ容認してきたことからさらに、機労は過激さを増して行くこととなりました。

ただ、この時期は左傾化国労も機労も進んでた時期でもあり、階級闘争が声高に叫ばれている時期でもありました。

機関車労組が、解雇された委員長他を再選

国労もそうですが、昭和32年頃からは、組合は更に左傾化を進めることとなり、機関車労組(当時の名称、後の動力車労組)は、解雇者を組合三役に立てることで、解雇できない体制を作ろうとしたわけで、これに対して当局は、適法な代表者がいないとして交渉を拒否したにもかかわらず、国労が同じような対応に出たのは、当時の左傾化した執行部の状況をよくあわらしているように見えます。

機労第7回全国大会開催、解雇者三役を再選。当局は正式団交一時中断を発表 5/21

鬼怒川公会堂において機労第7回全国大会開催
当面、不当処分の撤回、裁定の早期完全実施、夏季手当1ヵ月分獲得、100%昇給を主目標として闘争する方針を決定するとともに、処分者を三役に再選した
国鉄当局は支社、管理局ごとに5月11~12日の実力行使に対し解雇1、停職65、減給73、戒告436、訓告1,441の処分を通告。機労にも処分 6/3~6/7
黒川与次郎機関車労組委員長、辞任 6/18

機労で再選された三役は、委員長の黒川与次郎機関車労組委員長(大阪・梅小路機関区)他に、中村、兼高の3名を無投票で再選してしまった。
この背景には、国鉄部内にあって更に左傾化していく組合の姿があったわけですが、一ヶ月後には黒川委員長は、突然辞任することとなります。

その辺を、少し長いですが、国鉄民主化の道から引用してみたいと思います。

6月18日に、黒川は、公労委へ行って、会長の藤林敬三に面会を求めたが、留守だったので、事務局長の松崎芳伸(後に日経連専務)に、次のような藤林宛のメモを託し、大阪へ帰ってしまった。

  1. 機労発展のために尽力を願いたい
  2. 職務給を早期に確立して欲しい
  3. 健康と一身上の理由で、自分は組合を退くが、今後の指導を願いたい。

黒川はメモを託すとき、松崎に「自分は委員長を辞任する。解雇処分を受けていない委員長を選出して機労を正常な組合にしたい」と言ったという。

ということで、機関車労組の委員長は筋を通して国鉄を去るのですが、国労は組織内での対立が大きく、その辺は有耶無耶となってしまいました。

国労定期大会では民同左派が中心の執行部に

国労の第16回定期大会は、昭和32年6月22日~27日、松山で全国大会が開催されました。

機労に倣って、国労も解雇者を三役に選任するのですが、当然のことながら抗したことが起こった背景には、組合内部での突き上げも大きかったからでした。

もちろん、指令を返上する地本もあった反面、指令以上のストライキを勝手に行う跳ね馬状態の広島や新潟など、革同派の強い地域もありました

 国労第16回定期大会開催、解雇三役を再選 6/22~6/27

松山において国鉄労組の全国大会が開催された、結局、国民の信頼をかちえなけれぱならないこと、より姿勢を低くするとも、組合の統一ある行動は守られねばならぬことに結諭を見出した
しかし、役員の改選に当っては、解雇された3役が再選されるという結果になり、今後団体交渉などについて再び問題を残すこととなり、その成行は注目される

この年は、3月23日の業績手当に関するストライキの処分が4月10日に行われ、この処分反対をめぐって、更に5月11日、12日にはスト指令が出るものの、一部の地本ではスト指令をボイコットした反面、新潟・広島など一部の組合では指令以上のストライキを行ったとして問題になったわけですが、この処分が6月3日から7日にかけて行われれる分けですが、この処分に対して新潟では、本大会開催前の6月13日に以下のように、処分撤回闘争による職場大会を開催して、貨物列車71本が運休するという事態となりました。(国労の処分撤回闘争での指示は、運転部門以外での半日職場大会であり本来であれば、貨物輸送や旅客輸送に影響を及ぼすものではなかったのですが、ここでも行き過ぎたと言いますか、指令を聞かない状況にありました。

新潟地本、処分撤回職場集会で貨物71本運休 6/13

解雇者なので、首謀者を解雇できないと言う理屈

こうした伏線がある中で、国労の全国大会は開催されたわけですが、この大会では解雇された職員が組合三役として再選されたと言うことでした。

その昔の帝国陸海軍で、現役武官制*1として、引退した軍人を陸軍大臣にさせないという宇方式の逆を行ったようなもので、解雇者が三役(書記長・委員長などのポストを独占ということは、当局は首謀者を解雇できないことになる訳です。)

国労は、役員ポストの増加も実施

さらに、国労はこの大会で規約の一部を改正して、副委員長を2名とする体制を取るとしており、新生民同派からは「役員ポストを増やすだけではないのか」と反対するものの、執行部は企画部偏重という意見もあるので、総評などの外部関係と、内部の意見を行く二人の体制が必要だとし、さらに役員に関しても機労同様に、解雇処分を受けた人達を三役に選出、執行部の勢力は、以下の通りとなりました。

  • 民同左派・・・23人(改選前23)
  • 革同派・・・・9人(改選前10)
  • 新生民同派・・4人(改選前2)

ますます左傾化する国労に対して、識者はどう見ていたのか?

国有鉄道 1957年8月号 国労松山大会を聴いて

国有鉄道 1957年8月号

以下は、国有鉄道 1957年7月号のP18 「国労の松山大会を聴いて」からその記事の抜粋したものを以下に示します。

前半では本部の知れに対して、指令をボイコットしたり返上した地本の見解を聞くことをせずに戦術が悪かったとだけで終わらせるのであれば、それは左派幹部の押しつけであるとして、厳しく糾弾している点は注目するべき点でしょう。

しかし私ども第三者とし 物足らなく思ったのは、なにゆえに指 返上が行なわれたかという点について 通り一辺の議論しかなかったことだ。
部外の勢力と結びつき積極的に組合破 にのりだし”というような自己批判の 原案は、さすがに削除されたが、しかし 指令上は悪い" "資本主義の立場にたつか社会主義の立場にたつか"という ような調子で、片付けてしまっているわ けである。これこそ左派幹部の押しつけや引廻しにほかならない。
もし本当に組合の統一をまもり、組合の団結を固くするつもりなら、中央の指令を返上した地本や職場の弁明なり主張なりをもつと謙虚に聞くべきである、発言の機会を与えるべきであつたと思う。そういう点が不足して、民同左派と革同の間だけでやりあっているから、自己批判が、いわば戦術論議だけに終り、 第三者に訴えるものが少ないのだろう。

後半では以下のように国労極左小児病と断罪しているのは注目でしょうか。

そして、階級を打破することで、国鉄をよくして国民に国鉄労組の応援団にしようと言う考え方を狙っているようにも見受けられるとして、注目したいとしています。

国労の今後の動きであるが、国労の運動方針がいわゆる”階級性を増し、主張の上では階級性で貫かれていることは、いうまでもないことである。 それはある場合には極左小児病を思わせ るところさえある。
中略・・・・・・・・・・・

企業内でも労使は武装均衡のかたちで対立しているとみる方が、これからの労使関係の実際に近いように思そういう前提で国労の今後の動きを考えてゆくと、わたくしどもにとつて注目しなければならない点が二、三ある。
一つはたとえば、国鉄を国民のものにする運動、愛される国鉄にするという運動である。これは十河総裁の経営側の立場から発言していることと、言葉は一つであるが、国労の場合は、国鉄組合員あるいは労働階級という立場から国鉄をよくし、そして国民を国鉄労組にひきよせる、という階級的な運動であるように思う。いまの国労の動きや考え方のなかで、こうした運動が果してどの程度に具体化されるか、疑問だが、またかつての国民戦線的な運動と同じであるのか違うのか、いくぶん疑問だが、いずれにしても注目を要することだ。

更に東京の代議員は、上の発言を補強する用ないかの発言をしています。

東京の一代議員は、国民は労働組合 というものはストライキをする団体だと いうことを悟った、といい、国鉄組合の ストライキ権は事実として国民から認め られているとき発言をしている。

まぁ、これほど思い上がった発言もと思いますが、当時の多くの左派系組合員の中にはこのような考え方が根底に会ったのではないかと考えます。

 

以上引用 国有鉄道 1957年8月号 「国労松山大会を聴いて」

 

結局、左傾化する国労ですが、この背後では着々と、新生民同派による分裂が静かに先行していたのでした。
その辺の話しは改めて次回にさせていただきます。

続く

 

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*1:1900年(明治33年)から1913年(大正2年)までと、1936年(昭和11年)から1945年(昭和20年)までの間に日本に存在した軍部大臣(陸軍大臣海軍大臣)の就任資格を現役の大将・中将に限定する制度である。現役武官に限るため、文官はもちろん予備役・後備役・退役軍人にも就任資格がないのが原則だったが、1913年(大正2年)から1936年(昭和11年)の間は予備役や後備役の将官にも就任資格があった(軍部大臣武官制)引用:wikipedia

国労中央本部の指示が届かない?指令ボイコット及び指令以上の過激な行動する分会も・・・・一枚岩ではない国労を露呈

再び2ヶ月ほど空けてしまいましたので、改めてアップさせていただきます。

政府が国鉄の労働者処分を検討していると思われる発言をして物議を醸すことに

前述の通り、国鉄で行われた抜き打ちストなどに対して、処分が検討されていたわけであるが、当時の労相、松浦周太郎は以下のような発言をした。

労相の松浦周太郎は、32年5月3日、名古屋での記者会見で「国労の解雇処分は、40人、31人、18人という3案がある。処分するにも革同派と民同派のバランスを考えている。他の公社には解雇は出ないだろう」と語った。各新聞は大きく報道した。「調停案や仲裁裁定をめぐる問題で、公社当局をおさえて全面に出てきた政府は、処分まで自分の手でやる気でいるようだ」と国鉄当局の話題になった。*1

国会でもこの問題は話題に

結局、この労相の談話は、国会内でも問題となり、特に社会党からはこのような発言以前に、仲裁裁定がきちんと行われていないことが問題であり、処分を行うという発言以前に、政府がきちんと仲裁裁定を実施しなかったことにその問題があるとして追求したとされています。

当該部分を引用してみたいと思います。

社会党が一重点をおいたのは処分問題であったように思う。
ことにこの問題で社会党を刺戟したのは、松浦労働大臣の名古屋における記者会見問
題であり、いま一つはこれに関連して政府の処分干渉問題である。
しかも社会党の強く主張したのは、いわゆる三、五波闘争に入る前夜の岸、鈴木両党首会談における「処分は慎重に考慮する。」という点であった。一方自民党は主として3月23日の実力行使を対象とし国民の世論を背景として法律を守れと叫び、いやしくも法に違反するものには断固たる措置をとれと政府を鞭撻した社会党の処分反対の論拠は、仲裁々定を政府が完全に実施していないで一方的に処分するのは片手落であること、二十三日の実力行使はあげて政府の責任であること、処分は公社の責任であるのに不当に枠をはめて政府をもって干渉したこと、岸、鈴木会談の約束をじゅうりんしたことなどであった。

参考:昭和32年3月のストライキ

国労、午後2時から業績手当て問題で、スト突入 3/23

政府は国鉄当局を通じて、業績手当支払いを承認しないと通告、理由は3月26日に実施を予定していたストライキを中止することが条件であるとして26日のストライキを中止しない限り業績手当を支給しないと説明されるが、午後2時を経ても支払われないことから、国労は順法闘争並びに職場大会に突入、る国鉄の貨物輸送は文字通り麻痺状態となった、運輸大臣の支給命令で5時に解除

引用終わり

とあるように、現在であれば差別用語と非難を受けそうですが、当時の社会情勢及び歴史的資料として、当時の文言をそのままでアップさせていただきました。
ただ、ここで社会党が問題にしているように、仲裁裁定を完全実施しなかった政府に問題があるとわけで、これに関しては社会党の見解に賛成せざるを得ないわけです。

以下は私見ですが、政府が仲裁裁定を反故にしたことで結果的に国鉄の組合を更に左傾化させていく結果となる訳ですが。政府の判断がアクセルを踏むべきところで、ブレーキを踏んでしまう、そんな傾向があるように思えてなりません。

その結果、組合は余計に階級闘争にのめり込むこととなり、組合と当局の分断が図られることとなったと言えそうです。

国鉄当局で処分発表

5月9日、国鉄本社並びに鉄道管理局で処分者の発表が行われた。解雇処分通告を受けたものは、国労24人、機労4人と発表され、その日の夕刊の見出しは「解雇28人、停職、減給など705人の大量処分」と発表されました。

実際には、23人、処分者を当局が水増しして発表していたからと言われている。*2

国労・機労は処分撤回闘争を実施

処分発表の二日後、国労・機労は処分に反対する闘争を実施、国労は全国1,000カ所の職場で3時間の職場集会と順法闘争、機労は各支部で一カ所を指定して3時間の職場集会を実施したとされています。

春闘処分を巡って動き 5/11・12

国労・機労の春闘に対する責任者の処分は、28名の解雇、675名の停職・減給などという未曾有の大量処分となったが、組合はこの処分を不当とし、648の駅と操車場で3時間の職場大会を実施し輸送に大きな支障を与えた。しかし一部の地本は指令返上

しかし、ここに書いていますように、一部の地本で指令返上をしたことは、国労本部の幹部にはショックが大きかったようです。

指令返上もしくは拒否した分会は下記の通りでした

こうしてみますと、大阪地区での指令返上等が目立ちます。
特に、大阪・京都・神戸各駅及び吹田操車場(駅)が指令返上したというのは、中々意味深いものです。

逆に国労本部の指示を無視する地本も

このように、本部の指令に対して堂々と指令を無視する分会もある反面、勝手に指示以上の運動をする分会もありました。

昭和32年、国鉄労働争議_指令を返上した関西地区の分会、指令以上の行動をした広島

指令を返上した関西地区の分会、指令以上の行動をした広島

その一つが革同の拠点でも有った広島であり、概要は以下のようなものでした。

国労が6月4日5日両日に直接輸送業務に支障を来さない、非現業の鉄道管理局や保線区等列車の運行に直接影響がない職場で、夏期手当の要求を求めて3時間程度の職場集会を指令したところ、広島の第二支部(本局・機関区・広島駅を除いた各職場)が、中央本部、並びに広島地本の指令を無視して、輸送に混乱を来す、車掌区と客車区を職場集会の拠点に指定、出勤者の半分が職場集会に出席したことから現場は大混乱となったもので、慌てた国労中央本部は、慌てて5日午前11時に闘争中止を指令したというものであり、職場集会の支持に指示に従わない分会がある反面、同じく中央の指示に従わず更に過激な運動を行う組合が出てきたことは、国労本部も強い危機感を持ったと言われています。

国労大会は荒れることに

こうした危機感を包含したまま、国労大会は6月22日~27日まで松山市で開催されたそうですが、ここではやはり、指令返上が続いた関西と、その反面中央の指示を無視して更に過激に走った広島の二つが問題とされたそうです。

この辺に関しては、国労大会を傍聴した、朝日新聞論説委員の江幡清氏が、「国労松山大会を聴いて」という記事を国有鉄道という部内紙に寄稿していますので、抜粋して見たいと思います。

国鉄労組は、総評や官公労の中心的な組合として、組合外部からは強い組合といわれ、自分でも強い、強いと思い込んでいたわけであるが、それが春闘を経過してみると、組織のあちこちに弱点がでてきた、強いはずのその足もとに大きな穴があいておっていつ崩れるかもしれないという危機を痛感させられた、ということである。
組合の統一をまもるために何とかしなければならない、ということを身にしみて感じたわけで、それだけでも大会の成果は一応あったといえる。*3

国労としても、改めて組織のほころびが出ていることに気づかされるわけですが、ここで体制を建て直そうとしていた矢先の7月9日、新潟闘争が勃発するわけです。

この大会は紛糾し、弱い大阪と強すぎる広島として延々10時間議論が続いたと言われています。(23時まで議論が行われている)最終的に以下のように纏めたとされている。

「指令返上は良くないことを素直に認める。本部も地方も欠陥は認め、指令返上が右派幹部の引き回しである、と言うような運動方針の文句は削除する。また広島の闘争については、ハネ上がりだと決めつけることはせず、全般的に横に広げるようにする。今後戦術的に誤りを犯さないことにする」

と言ういささか総花的な形で集約を行うのですが、この国労の性質は国鉄末期まで変わることはありませんでした。

革同派は国鉄の中では、共産党により近いところで活動しているところがあり、国労大会でもかなり抵抗したとされています。

特に、革同・共産派の相田一男(新潟)(その後新潟闘争の首謀者の一人)は、以下のように発言したとされています。

「牛には角も足も尾もある。それぞれ役目が違う。足ばかり大事にすると角が衰えて、角のない牛ができる。地方に指令権を移せ。10月にゼネストを打て」と喚いていた。*4

牛には角もあれば足もある、地方に闘争指令権を下ろせと主張_新潟闘争の伏線

牛には角もあれば足もある、地方に闘争指令権を下ろせと主張

と書かれていたように、国労の中でも革同と呼ばれるグループは、国労の中でも特に過激であり、その拠点は新潟と先ほど出てきた広島でした。

 

続く

 

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*1:国鉄民主化への道 P252

*2:行政での懲戒処分は戒告以上であり、訓告は懲戒処分とはならない、ただし、複数回繰り返すと次回の処分は戒告となり昇給などで不利益を被ることとなる

*3:国有鉄道 1957年8月号 P18から引用

*4:国鉄民主化への道 P256

国労と賃金闘争の話、業績手当支給に政府が介入して大混乱を招くことに

三ヶ月近く更新もままなりませんでしたが、改めてアップさせていただこうと思います。

今回は時系列的に行けば新潟闘争そしてその前の白新線での要員問題などになるのですが、同じ話を繰り返すのもあまりよろしくないので、今回は一気に駒を進めて新潟闘争以降の話しに駒を進めたいと思います。

その前に、国労40年史に新潟闘争のことが書かれていたのですが、中々客観的に書かれておりますので、合わせてここで新潟闘争に至るまでの概略を引用しながら書かせていただこうと思います。

 

当時の国鉄当局と組合の関係はかなり強い緊張関係にあり、生産性運動以降のなれ合い的体質ではなく、当局は違法ストライキの首謀者を解雇などの処分攻撃を打つのですが、組合も解雇者を役員にすることで対抗、解雇者が組合の役員をやっているので解雇することが出来ないと言うことで、民同右派などからは敬遠されることとなりますが、昭和32年春闘では、国鉄当局側にも非があると言わざるを得ません。(もっとも、この点に関しては、「国有鉄道昭和32年6月号 仲裁裁定前後」と言う記事に出てくるのですが、政府は良好な労使関係を作るべきだと言いながらも実際には、国鉄などの公社の予算は、国でしばられていることから、自由にお金を動かせない。

新潟闘争の直接のきっかけとなったのは、国鉄当局が年度末手当を支払わないと言ったことから直接の要因で有り、結果的にそれが大きな問題へと発展していくことになります。

少しその辺を引用してみたいと思います。

闘争のきっかけは、国鉄当局による業績手当の支給中止からだった

新潟闘争に至る闘争のきっかけとなったのは、昭和32年春闘の後に予定されていた、最低賃金法 に関するストライキ【総評と連動して3月26日実施予定】を前に、当局が支給を中止すると言う措置を取ったためと言われているが、その当時の経緯を調べてみると以下のように記述されています。

総評は、前年の第6回大会で、賃金闘争方針について---

<広大な労働大衆の賃金水準を引き上げるために、最低賃金引き上げの統一闘争を起こす。地方別でも業種別でも、産業別でもよい。・・・・同時に、最低賃金8,000円を含む最低賃金法制定のために各組合毎に8,000円以上を要求する職場闘争を起こし、国会内外の共闘に発展させる。*1

と記述されているように国労としても最低賃金法獲得に向けて行動をしていた矢先、当局から業績手当は支給しないと言う通知がなされたことがその原因とされています。

こうした国鉄の動きに対して、大蔵省は国鉄当局と労使は双方で馴れ合ってヤミ賃金を支払っているのではないかという疑念を持ち、終始国鉄に対しては冷淡な態度であったと言われています。

その背景には、昭和28年に起こった鉄道会館問題などに関連するなれ合い体質という国鉄自身の脇の甘さにあったのですが、この辺は今回の話しからは関係ないので割愛します。

国鉄としてみれば、労使紛争を防ぐ手立てとして、賃金で片が付くのであれば国鉄としては払いたいという意向があったのですが、前述の通り大蔵省は当局と組合が馴れ合ってヤミ賃金を払っているして【決めつけて】それを阻止しようと、政府がストップを書けたのでした。

公社の賃金の決定権は大蔵省【現・財務省】?

この辺の事情を再び、公労協スト権奪還闘争史から再び引用してみたいと思います。

政府は、調停案協議、仲裁委員会持ち込みの態度を示し、各後者もその態度を受けて調停案に対する態度を明らかにしていなかった、各公社もその態度を受けて調停案に対する態度を明らかにしていなかった。

なお、この時の調停案は、国鉄にあってはかなり労働者側に有利なもので、労働の実態から見て必ずしも適当と言えないので速やかに是正の措置を講じること、本年度内に一時金【ここでは業績手当】を支給することといった内容であり、機労【後の動労】以外は、組合としては調停案で妥結するとしていましたが、こうした調停案を政府が一方的に認めないとしたわけです。*2

この背景には、政府の公社に対する考え方が有りました。

三公社のベースアップに政府が介入することで混乱を招くことに

三公社のベースアップに政府が介入することで混乱を招くことに

国鉄法改正は、政府の介入をしやすくするように

政府は、積極的に公社の経営に口を挟む形となります。

この点は、国鉄を公社化する時と何ら変化はありませんでした。
国鉄を公社化する際も、国鉄を常に監視下に置きたい政府、更には旧運輸省にしても、公社という組織に改編することの精神的劣等感もあり、最終的には極めて政府が介入しやすい組織ができあがってしまいました。

 

国鉄に対して政府が圧力をかけることに

その結果、国鉄自身は公共企業体と言うことで、民間的手法を取り入れてより効率的な経営を求められつつも、国鉄時代が予算に縛られ、その予算も国の承認がいることになり、自由性がかなり束縛されることとなりました。

国鉄の経営に関して、本来であれば企業でもなく政府の機関でもない位置づけの公共企業体ですが、斯様に国鉄運賃等の部分に政府が介入してくる背景には、昭和31年の国鉄法改正も大いに関連していると言えます。

日本国有鉄道法の一部を改正する法律 法律第百五号(昭三一・五・一五)

この法令改正により、役員の任免などにも政府の意向が強く関わることとなり、それに関連して賃金なども他の現業同様に政府が口を挟む形となり、この辺が国鉄の労使関係を悪化させた一因ではないかとも言えます。

 

国有鉄道法改正についての懸念事項として、日本国有鉄道法の一部改正についてと言う論文の中で、「役員の任免員の任免等についての政府の監督は強くなった」として、以下のような記述がなされています。*3

少し長いですが該当部分を引用します。

役員の任免責任についての政府の監督は強くなった。
役員の任命等について政府の監督を強化することは、今回の法律改正の大きな目的の一つであることは、さきに述べた提案理由の中にも明らかなところである。*4
すなわち、従来は、総裁は経営委員会の同意を得て内閣が任命することになっていたのを直接内閣が任命し、副総裁及び理事の任命には運輸大臣の認可を要し、監査委員会は運輸大臣が直接任命することになった。政府の意向が役員の任免に強く反映する事は、やむを得ないない事であるが行政と企業との分離という国鉄企業庁仲発足の経緯から、また企業を政治的影響から隔離するという立場から、さらには最近の公企業
等の最高責任者の選考にみる政治的色彩の強さ等からみてその運用についていささか
危惧の念を抱くむきのあった事は事実である。

と有るように、占領期間中はGHQ/SCAPの影響もあって、政府の配下におけなかったものの独立したことから再び政府の管轄下に置こうという意図が大きく働くようになり改正でした。

元々は自主性を持たせるべき組織として誕生した、国有鉄道でしたが、総裁の内閣による任命や副総裁以下の任免には運輸大臣の認可を要するなど、先祖帰りしたような部分が多々あったのは間違いないわけで、特に予算面に関しては政府の意向、最終的な名予算に関しては大蔵省の意向が働くなど、大幅に自主性を奪われてしまう事になります。

 

再び、ここで組合での派閥について見ていきたいと思います。

国労本部は、23日のストを指令するも、五月雨式に山猫ストが発生

国労40年史では、抜き打ちストと書かれていますが、実際には本部から14:00迄に解決しないならばストライキ突入を指示したとあります。

以下は、公労協スト権奪還闘争史から抜粋した内容と国鉄民主化への道を参照しながら時系列的に纏めたものです。

こうした、突然の政府介入に対して調停案を認めないとした訳ですが、以下のようなやりとりがあったようです。

3月22日 小倉俊夫国鉄副総裁から小柳国労委員長に電話があり、前述の通り26日の実力行使は総評による最低賃金確保に関する統一ストライキ・・・これに対して、政府の意向と言うことで払わないとなったため混乱が生じることになりました。

その後を時系列に書きますと以下のようになります。

 3/22 時間不明:小倉副総裁から小柳国労委員長への電話会談は決裂

 3/22 22:00   :交渉再開、24日は日曜日であり23日支払わなければ大混乱になると警告、国鉄当局側は政府と折衝するので3/23 9:00迄の猶予を提案

3/23    9:00  :兼松職員局長から国労に 9:30~運輸・大蔵大臣の政治折衝が行われる旨連絡

3/23  11:00  : 14:00迄に解決が付かない場合は実力行使をする旨通告ストを指令した 

・・・五月雨式に現場では職場大会などが開かれ、国労本部も収拾が付かない状態に

当時の大蔵大臣は後の首相池田勇人であり、大蔵省出身の池田にしてみれば0.12ヶ月分の業績手当はヤミ賃金であると決めつけていた節があったようで、雲隠れしていたそうです。

ここで問題となったのは、国鉄としては、業績手当が給与と一緒に支払われるように準備していたことであり、22日の夕刻に業績手当の支払いを待つように現場に連絡されたため、大きな職場では23日に月給を渡すのが不可能となり、職員は職場に来て給与が手当も延期されたことが延期となることを知った次第であったと言うことが大きな問題でした。結果的に、一部の分会では職場集会を始めるなどの混乱が生じ、東京駅でも午後3時頃からはホームに駅員の姿が見えなくなり、列車・電車の運行は混乱が生じることとなった。

この事態を見て事の重大さに気づいた政府は15:00頃、大蔵事務次官の平田と運輸事務次官の荒木が会って、15:50、運輸省国鉄総裁に業績手当の支払いを承認した

その後、国労・機労と当局の交渉が16:10から行われ17:00にはスト中止の指令が出されますが、各所で駅員が暴行されたり、駅長が監禁されたりして東京周辺の混乱が収まったのは24日の2:00であったと記録されています。

この山猫(抜き打ち)スト【最終的に国労本部が追認】では、旅客列車が111本【電車106本含む】他貨物列車も229本が運休したと記録されています。

国労では23日、分会毎に当局の指令より前に職場集会等に入る組織が多く、結果的に追認する形となった。

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*1:公労協スト権奪還闘争史 P466

*2:公労協スト権奪還闘争史  P469

*3:雑誌 国有鉄道 昭和31年7月号 P4

*4:国鉄
の業務運営の現状にかんがみ経営委員会を廃止して、新たに理事会及び監査委員会を
設け、役員の任命等について政府の監督を強化し、財産の管理について規定を整備する』ことを主たるねらいにしている 雑誌 国有鉄道 昭和31年7月号 P3参照

国労と賃金闘争の話、国鉄と政府、そして組合と

久々に更新させていただきます。

今回は、当時の春闘に関して、国鉄当局・組合の関係を中心にご覧いただきます。

今回は新潟闘争前等、昭和32年(1957)春闘を取り上げています。

国労内にあるいくつかの派閥

今回は鉄労視点とは言いながらも、国労内の動きに注目していこうと思います。国労という組織は機関車労組が分裂したとはいえ、依然国鉄を代表する組合でしたが、必ずしも1枚岩という訳ではなく、大きく分ければ社会党を支持する民同・革同派や、共産党系等が存在していました。

国労という組織の中には、左派と言える革同派とより穏健な民同派があった

国労という組織の中には、左派と言える革同派とより穏健な民同派があった

1957春闘が、新潟闘争のきっかけとなった重要な位置づけ

特にここで注目したいのは、昭和32年に行われた春闘で、総評の戦術委員会では春闘の決戦時期を3月11日から15日までの連続4日間と指定し、国労・機労も第一派として3月11日、12日と実施することとしていました。

更に、公労委(公共企業体労働委員会)の斡旋案がなかなかまとまらないと言うこともあり、調停案を出せずにいたと言われています。

この調停案が出せなかった背景には、労使間の問題ではなく、むしろ公社間の賃金格差をつけるのか否かという点で揉めていたからといわれています。

後に、石田総裁国会で発言して物議を醸したたばこ巻き事件がありましたが、その10年ほど前に、当時の職員局長兼松学も、たばこを巻いている職場と国鉄が同じ賃金という旨の発言をして専売公社からクレームが来たとも言われています。

100円の攻防、政府・当局と組合と

こうした中で公労委における調停は続けられ、3月6日には国鉄側では労使双方で1300円【労組側の主張は1300円、当局側は当初1100円】で決着がつくかと思われたが、公共企業体労働委員会に藤林敬三委員長は、国鉄・労使双方で決定した妥結案が気に入らないとして、1200円でなければという。

国鉄の差額賃金を認めようとしなかったわけで、委員会を途中で退席してしまったそうです。結果的に調停作業は二日ほどストップ、3月8日まで姿を見せなかったと言われています。

この辺に関しましては、国労の資料によればかなりきつい職場闘争と順法闘争を繰り返しており、これにより当局側に譲歩させたと、国労権利闘争史には以下のように記述されています。

以下、国労権利闘争史 P103から引用

賃金の引き上げ等につき1月27日公労委に調停を申請した。しかし調停も難航し、翌57年2月末にいたり、ついに国労は2波にわたる実力行使に踏み切ったのである。こうした中で3月9日になってようやく公労委は調停案を提示した。その内容は賃金1200円引き上げ等であった。国労は、この調停案に不満を表明しつつも、「政府・当局が本調停案を実施するための必要な予算措置を講じ、直ちに当方との間に具体的に協定を締結することに応じるならば・・・これに応諾する用意のある」ことを表明した。これに対して政府は、調停案を拒否し、ただちに仲裁に持ち込む*1ことを決め、社会党首脳との会見でも早期の仲裁を言明したのであった。しかしそれも束の間。政府は12日の政府・与党連絡会議でこの方針を変更し、仲裁申請の時期を遅らせることを決定してしまった。

ここで注目すべきは、当時の宰相は岸信介であり、政府として公社などの現業機関に対して、積極的に介入しようとした点は注目しなくてはなりません。

これにより、国労は再び強力な闘争に入ることになります。

以下は、国鉄における労働争議を弊サイト国鉄があった時代から抜粋したものです。

当時の年表から抜粋

新賃金、年度末手当等を要求して闘争体制を整えていた組合側は、予定通り第一波闘争に突入 2/21

国労春闘第二波闘争(半日職場大会) 2/26

国労春季闘争激化。第3波に入る。岸総理と鈴木社会党委員長によるあっせんが行われるに至ったが、事態は好転せず。23日手当支払問題をめぐり、国労は拠点1200駅と客貨車区で午前中3時間の職場大会(実質的な抜き打ちスト)を実施、輸送不足に悩んでいる国鉄の貨物輸送は文字通り麻痺状態となった 3/11・3/12

国労、午後2時から業績手当て問題で、スト突入 3/23

政府は国鉄当局を通じて、業績手当支払いを承認しないと通告、理由は3月26日に実施を予定していたストライキを中止することが条件であるとして26日のストライキを中止しない限り業績手当を支給しないと説明されるが、午後2時を経ても支払われないことから、国労は順法闘争並びに職場大会に突入、る国鉄の貨物輸送は文字通り麻痺状態となった、運輸大臣の支給命令で5時に解除

以上のように今回は国労春闘を見ていただいたわけですが、実はこに春闘の後で行われた、解雇者を含む処分が多数出されたことから国労が処分撤回闘争を指示するのですが、これがその後の新潟闘争へつながることになりますが、その辺は次回説明させていただきます。

jnrera.starfree.jp

 少なくとも当局としては、出しても良いとしていたの対して更にそれを曲げてしまおうとした点に問題があるわけです。

結局、この斡旋案も政府に押し切られる形で3月9日、総評が高原闘争として提示した二日前の3月9日に三公社の労使に対し、一律1200円増額という調停案を提示した。

 

国鉄としては1300円でも良かったのだが政府の許可が下りず、労使双方にしこりを残すこととなり、政府は国鉄を非難し、当局もそれに反論する姿勢を見せることとなりました。

結論から言うと、国鉄の賃金は平均と比べると高いが、他の公社などと比べて勤務時間が長くかつ、平均年齢が高いことも要因であり、現状では他の公務員と比するとむしろ安いくらいであると解説しています。また、「国鉄民主化の道P247」には、職員局長兼松学の見解として以下のような談話が週刊朝日の3月31日号に掲載されていました。

国鉄の経営者の立場に立てば、後100円出せば組合と話がつく、また出せるだけの余裕がある時は出したい。国鉄がもうかっている時は、その内幾らかを組合員のフトコロに返すのが大争議を引き起こすよりは安上がりだ。鉄道事業では、人件費が五〇%と言うのは常識、いま国鉄は42%だがら、あと1,2%出しても企業上ちっともおかしくない。ところが予算にしばられて、その自由がきかない。国鉄総裁は汽車を動かすだけで、大蔵大臣のハンコがなければ、金は出せない。まるで禁治産者みたいだ。組合としては、政治闘争にならざるを得まい。好ましくないが、制度上、労組を政治闘争に追いやっている。国鉄経理上、調停案を受け入れられる場合でも、その自由がない。いわば無能力者を相手に交渉する組合も気の毒だ。

と書かれています。

このように、政府側は公共企業体という組織にあり方を理解していないと、当局も組合側も嘆いており、結果的に当局あっても組合にしてもやるせないものだと言うことが言えそうです。

結局、組合を更に左派へ左派へと追いやったのは、国鉄当局と言うよりも政府であったのではないかと言えるかもしれません。

続く

 

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*1:仲裁裁定は労働関係調整法により、労働委員会に設けられる仲裁委員会が労働争議の解決のために下す判断。労働協約と同一の効力をもつもので、当局・労働者双方を拘束する